胡蝶篇 十四
俺の安い言葉に、亥が目を細める。
途端に糸がぎちりと絞まる。……なるほど。糸はきちんと宝貝として機能する訳か。つまりは……。
俺の腕が絞まるのを見ながら、亥は唇を下品に釣り上げる。
「あぁん? 何考えてんだ。この俺を挑発かぁ?」
「そんな。これでも俺はお前を高く買ってる。こんな安い挑発になんて乗るとは思ってない」
「そうかそうか……それなら……」
糸は更にきつく絞まる。思わず喉からくぐもった声が出るが、それでも唇を噛んで堪える。それを見て卯月は顔を引きつらせる。
「ちょっと……辰巳……!?」
「うるさい阿婆擦れ……絶対にこちらに来るな……」
「……うん」
張り巡らされた糸の上を、亥はさも当然のように歩いてきた。そのまま剣を抜くと、振り上げる。
「さっさと死ね。ひとでなしの餓鬼」
そう言った瞬間。
亥の足元がぐらりと崩れた。
今まで自力だと解けそうもなかった俺の腕を拘束していた糸が、そこでようやく緩んで自力で千切る事ができた。亥の崩れた場所から、金鞭の長い軌跡が見えた。
「え……? あの、何で?」
ようやく糸から脱出した俺に、卯月が駆け寄ってくる。俺は卯月を一瞥してから、背にかばった。
「お前が蜘蛛蜘蛛くもくもと言うから、もしかしてと思っただけだ。あの宝貝も、蜘蛛の巣と同じ原理だ」
「え……? 意味分かんない」
「……蜘蛛が蜘蛛の巣をどうして自由に往復できると思う?」
「へ……?」
蜘蛛が嫌いを連呼している卯月は、若干顔を引きつらせるが、人差し指を曲げて考え込み始めた。それを見ながら、俺はゆっくりと剣の柄を手にかける。
「蜘蛛は、蜘蛛が歩き回る部分だけ脂がないんだよ。蜘蛛の巣の粘着質の正体は脂だから」
「へあ……? 脂?」
「だから、粘着質にならないから、すぐに崩れる。頼んだんだよ」
もし酉がこの糸を崩してなかったら気付かないとこだった。……感謝するのは尺だが。俺はそのまま剣を抜くと、背後の卯月に振り返る。
「……色々あいつに聞きたい事はあるが、この宝貝、壊して構わないか?」
「って、ええ!?」
「俺だって貴重な祭具だから壊したくないが……馬鹿が自由に扱っていいもんでもないし、あいつがそう易々とこれを手に入れられるとは思えない」
「……」
卯月は少しだけ唇を引き結ぶが、やがてこくりと頷く。
「……そりゃ私だってさっさと帰りたいけどさ。これだけ迷惑かけちゃったし、辰巳や戌亥さん捕まえるようなのは、やっぱりさ。でも、一つだけ約束して」
「何だ」
「……あのさ、酉さん。妹さんの……薬。見つけてあげられない? それで妹さん助かるんでしょう?」
「……」
その言葉に、俺は思わず唇を噛みしめる。
……知らない、分からないからと言っても、あの薬は……。卯月は俺の苛立ちに気付いてもなお、言葉を重ねる。
「あのさ、何でアンタがそんなに怒るのか分からないけどさ。でも……私はあの人、そんなに悪い人には思えないから。……やっぱり、駄目……?」
「……ああ、もう」
刃は鋭利に煌めいた。そのまま地面を大きく踏む。
そのまま卯月を離れる。
「分かったよ……」
知らないのならば仕方ないと、そう割り切れたらいいのにと言う感傷は、そっと胸にしまいこんでおいた。




