胡蝶篇 十二
張り巡らされた蜘蛛の糸は、崩されていた。どさりと落ちる戌亥。……あの糸、どうやって突破したんだ?
俺は酉の手元の五光石と亥が悔しそうに唇を噛んでいるのを眺めながらも、ひとまず卯月と同じく戌亥の元に行った。
剣を抜いて、糸を断ち切る。
「ああ……格好悪い所見せたな」
「全くだ。で、あの宝貝。何でやられた?」
「……指先から糸が出ていた。あの糸が宝貝の能力なんだとは思うが……発動の瞬間が分からなかった」
「……そうか」
酉は前からの知り合いだからこの宝貝の対処方法が分かったのは分かるが、現在戦っていたはずの戌亥が宝貝の確認ができないって言うのは妙な話だな。
俺は糸に少しだけ触れると、蜘蛛の巣のような粘着質な感触が残った。仙力を吸うとか、そんな付加要素がある訳ではない、か。
亥は亥で、酉に対して抗議をしているようだった。
「てめぇ、酉! どうして余所者の味方を!?」
「……俺は俺の主義に従っただけだ」
「職務放棄が主義とは、随分お偉くなったんだなぁ」
「……」
亥にけたけたと笑われ、酉は黙って亥を睨みつける。しかし……亥はけたけたと笑っているのが気になる。
確かに命令違反をしたのは酉だが、ここで酉を寝返ったと取るのなら、もっと焦るものじゃないのか? 酉はあいつの手の内を知っていると言うのに……。卯月に手を出した所からして、考えなしの短慮だと思ってたんだが、俺の読み違えか?
それともまだ何か隠し持っていると言うのか……?
俺が剣の柄を強く握り直した時。
がちゃりと何か音がした。
「まあ……はなからてめぇをあてになんざしてねえよ。俺もしこたま借金作ったんだ。俺の報酬がてめぇの分だけ増えるって事にしておいてやるよ」
「亥、何の事……」
「てめぇがここに妹突っ込んでまで買おうとしてたものは、これだろう?」
「……っっ!」
酉が唇を噛みしめて、亥がこれ見よがしに見せつけてくるものを凝視した。
亥が落としたものは硝子の瓶の蓋。そして亥が見せつけてくるのは、赤い赤い液体だった――。
「えっ、何あれ……血?」
卯月だけは周りの変化についていく事ができず、きょとんとした顔でこちらを見てくる。
「……そんなもんじゃない。あれは……育毛剤だ」
「えっ? 育毛剤って……毛が生える?」
「お前の国ではどう言ったものかは知らないが、毛が生えるなんて優しいもんじゃない。あれは……」
「あのさ、辰巳」
「何だ」
「……何でそんな怖い顔してるの?」
「……」
卯月は少しだけ顔を強張らせてこちらを見ていた。
……いけない、本当にあれだけは駄目なんだ。あれだけは。だってあれは……。
俺達の動揺を無視して、亥はその赤い液体を呷った。
喉仏が虫がくねるように蠢いたかと思ったら、瓶の中身はあっと言う間に空になった。
「亥、お前はもうそれを手に……」
「てめぇみたいないい子ちゃんじゃねえんだよ。やる事やってりゃもらえるんだ。てめぇも流儀がどうの言ってないで早くもらえばよかったじゃねえか」
亥が口元を拭うと、まるで吸血でもしたかのように唇が赤く染まる。変化はすぐに表れた。
亥の尻尾が大きく膨れ上がったかと思うと、尾が割れ始めたのだ。尾の数は、既に十尾を超えている。
背後で卯月の息を飲む音が聞こえる。……流石に阿婆擦れも君が悪く思ったか。
「何コレ、気持ち悪っ」
「あれが育毛剤の力だ……阿婆擦れの国だとどういう意味かは知らないが、この国だと……育毛剤は、仙力増強の秘薬だ」
剣を構え直した。その時。
しゅるしゅると糸が伸びて来るのに気付き、俺は卯月の腕を掴んで背後に飛んだ。糸は粘着質な液体の音を立てながら、地面に落ちた。
次から次へと伸びる、糸、糸、糸。
「何コレ……ほんっとうに気持ち悪っ……!」
「本当に、あの糸どうなってる? あれが宝貝だってのは間違いないのに……本体がどこにあるのかが分からない」
「もうっ! 何で辰巳はそんなに冷静かなあ!?」
「うるさい、阿婆擦れ。耳元で叫ぶな! 叫ばなくっても聞こえてる」
「やれやれ……お前らは元気だなあ」
身体を解放された戌亥は、それでも身体を少し粘つかせながら、何とか糸から逃げていた。
でも……。
この粘ついたもの、どうやって酉は壊したんだ? 戌亥を縛っていたそれも簡単に壊れたが……。




