胡蝶篇 八
私は眉を潜めてその人を見た。
その人はニヤニヤと言う擬音を張り付けて、私の事を舐め回すように見つめる。
「何よ」
「何だ、見世物小屋で随分威勢のいい事言ってた癖して、今はすっかり借りてきた猫のようだなぁ、おい」
「……! あの時、あなたもいた訳?」
「ああ、いたな。ご主人様のお守りに」
随分揶揄しながら言うなこの人。
ご主人様って事は、あの見世物小屋の支配人のおっさんと一緒にいたって訳か。あの時は結構大騒ぎになっちゃったから、用心棒の人の顔なんて、酉さん位しかまともに見られなかったなあ。
私はうっかり仮尾を取っちゃった脂ギットンギットンのおじさんを思い浮かべる。……うん、確かに尊敬はできないよね、多分。
でもこの人、何でわざわざこんな所に来たんだろう……?
「何か用が会って来たんじゃないの?」
「おいおい、随分下世話な事聞くなあ。やけに酉が機嫌よさそうだったから、てっきりやってきたのかとばかり思ったが……」
「……!?」
今顔つき合わせたばっかりなのに、何を言い出すのよこの人は。
耳元に、またどこからかの悩ましげな女の人の声が響く。
ついでに何やら怪しげな音が聴こえてきて、聴きたくなくって顔を振った。
……たく、盛るのもいい加減にしなさいよ。ここが春を売る場所だから仕方ないんだろうけどさ。
私は思わず後ろへと下がる。
この男は、それすらも愉しそうに笑っていた。
「何よ……イヤだからね? こんなとこで変な事するの」
「おいおい……自分からわざわざ見世物小屋に入っておいて、やるのは嫌って訳か。随分わがままなお嬢様だなあ、おい?」
「……っ」
顎をくいっと持ち上げられると、この目つきの悪い下卑た笑いを浮かべる男は、案外いい男だと言う事が分かる。
戌亥さんと雰囲気は似ているけど、戌亥さんの飄々とした雰囲気は上品な訳でもないのにどこか洗練されている。それに対してこの男は、荒々しい雰囲気を隠す事もしない。
でも……。
いくらいい男だからと言って、何をしても許されると思うなよ……?
私は手を振り解こうと顔を背けるけど、無理矢理顔を捕まれる。きっと私は無理矢理アヒル口になっている。
「いった……普通の顔だけど、これでも顔は女の命なんだから傷なんかつけないでよ!?」
「随分元気だなあ、そこにそそられたって訳か。酉もとんだ数寄者だな、妹に似た女にわざわざ手を出すとは……」
「何よ……酉さんは別にアンタみたいに下品でもなければ、手を出してもいないわよっ!」
「おいおい……わざわざ女をさらっておいて、味見もなしとはどんな冗談だ?」
「冗談じゃないったら……!」
逃げようにも、そのまま柵に押さえつけられ、腕を捕まれる。
空いた手は、私を柵に強く押さえつけてから、顎から下へと下がっていく。男は興味ありげに私のスカートを見て、摘まみ上げる。
「何だ? 随分短い巻き布だな……これで太股をこれ見よがしに見せて誘ったのか?」
「だ・か・ら! 違うったら! ちょ! どこ触ってんのよ、やめなさいよ!」
「うるさい。いい加減おとなしくしねえか」
スカートを捲り上げようとするのに抵抗している時、スカートが柵に擦れてプラスチックの音がわずかにしたのに気付く。
あれ……?
私は空いている手でとっさにスカートの後方に触れる。
……そっか。仙人郷で持っていっても大丈夫だったのは、別にガスは入ってなかったからか。ガスが入ってたら、きっと気圧で爆発してた。
「どうした? 大人しくなって。ようやく観念したか……」
「……バアカ。誰が観念するってのよ」
「あん? 随分な口を聞くじゃねえか」
私は迷わずスカートのポケットに手を突っ込むと、それを取り出してブッシュする。
ぶわりと、辛酸っぱい臭いが辺りに充満した。
「ゲホッ……! おいてめぇ、何しやがった!?」
「うるさーい! 女子高生が痴漢撃退スプレー持ってて何が悪いってのよ!? 満員電車に予備校帰り。現代女子高生には危険がいっぱいだっつうの!!」
「ゲホッ……何意味分かんねえ事言ってんだ!!」
その人は涙とくしゃみが止まらないらしく、私の手の拘束が緩くなる。
私はその緩んだ手から逃れると、そのままブレザーを着直して、スカートを整えた。そのまままだくしゃみが止まらないこの人を突き飛ばす。
出口はこの人が開けっ放しだから簡単に逃げられる。
「それじゃあね!」
私はスプレーを追撃プッシュしてから軽く手を振ると、そのまま走って脱出した。
道は一本道だから、何とか逃げ出せるはず。多分、だけれど。
その時。
私は全く気付かなかった。
私の入れられていた牢屋の中で、ひっくり返ってくしゃみをし続けている人の事に。
「ゲホッ……くそ、逃げられたか……まあいい。
……これがあれば、追いかけられるからなあ……」
その人の手先は、さっき私を触った時とは違い、ヌチャリと濡れていた事に。
その濡れた手が糸を垂らし、私を追いかけてきている事に。まだ。




