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  作者: 小伏史央
【第1章】
7/41

 ヨットの帆が、ふいに萎んでいきました。受け止めていた風が、急に向きを変えたのです。そして直後に、不吉な音。

 突風が走りました。まるで刃が複数飛んできているような風です。ヨットが大きく傾きました。海が割れたかと錯覚するほど、水位が変化していきます。波が蠢いています。

 二転三転、ヨットが転がります。兄は咄嗟に舞を抱きしめました。離れないようにするためでしょう。舞は間違って兄の胴を潰したりしないように、海水を浴びながらも平静に努めました。目をぎゅっと瞑ります。

 仮面の男は、なおも楽しそうに喉を震わせて、ヨットの縁にしがみつきました。荒波ではありますが、どうやらヨットの耐久性は強いようです。海水を大量に船内に入れてはいますが、壊れる様子はありません。

 他の三人の男たちは、それぞれがそれぞれでどうにか意識をつなぎとめました。水を飲んでしまわないように口を閉じて。それでも足りず、鼻から海水がなだれ込んできます。呼吸が苦しくなります。

 空はしかし、綺麗な青色でした。雲ひとつない快晴です。ですから、どうやら竜巻の仕業ではないようです。竜巻が発生するには、積乱雲が伴うからです。しかし水柱を越えるような波が、一気にヨットを覆い包みます。

 舞が兄を突き放しました。とても平静を保てる状況ではなかったからでしょう。冷静を欠いているときは、圧力の調節を自由にすることができません。兄は必死に縁を掴んでいましたが、舞は兄に体重を預けていたので、舟にしがみついてはいませんでした。そのせいで、舞は波に連れ去られてしまいます。

 太陽が無情にそれらを照らします。舞はそのまま、波に飲まれてしまいました。兄はどうにか舟を掴んでいないほうの手で、舞の体を探します。風や波の勢いで目が開けられず、舞が流れたことに気付いていないのです。

 次第に、波がおさまっていきました。風がやんだのです。ヨットはどうにか耐え抜いたようで、特に損傷は見受けられません。転覆もしなかったようです。沈むことなく、静かになった海の上で佇みます。

「……おさまった」

 男が、からがらな声でそう言いました。全身水浸しです。

「みんないるかー」

 男がそう言いながら、ヨット上の人間たちを見まわしました。仮面の男、それと舞の兄、数分前怒鳴っていた男……。

 ふたりいません。オールを持っていた片方の男と、舞が。

 兄が海に飛び込みました。水を掻き分けて、奥底へと進んで。舞を捜します。目を見開いて海中を捜しまわります。しかし見つかりません。海の水は陰を飲んだように暗くて、遠くはあまり見えませんでした。先ほどの風波のせいもあって、海水は不純物でいっぱいです。そもそも海水自体が不純物なのですが。

 目が痛くなっても、いくら捜しても、舞は見つかりませんでした。もう片方の男も見つかりません。遠くまで流されてしまったのでしょう。

 舟に上がった兄の頭には、帽子がありませんでした。黒いソフト帽のことです。特に宝物であったり、思い入れのあるものではないのですが。……彼は、私物に情を抱いてはいけないと、常に自分に言いつけていました。その私情が命取りになると、そう結論を出していたのです。ですから彼が持っている道具は、どれともまだ短い付き合いです。腰元にかけられたナイフはつい先月に買ったもので、胸元におさめられている拳銃も、つい最近、依頼主から授かったものです。

 風波がまるで嘘だったみたいに、海の上は穏やかになりました。兄が舟に上がるころには、他の人たちによって、中に入った水は完全に出されていました。お湯を溜めた浴槽になっていた舟でしたが、もう水は抜かれています。

「いなかったのか」

 男が、不躾にそう話しました。ですがすぐ、口を噤みます。兄がぎろりと睨みつけたからです。帽子がないので、兄の頭は太陽に晒されています。舞と同じく、クセのある髪です。いやしくいえば、まるでワカメを被っているみたいです。

 兄は帆を眺めました。風のない今、帆はだらんと垂れています。

「……風はどの方向から来た」

 兄が、男にそう訊ねます。しかし男は、分からない、とでも述べるように首をふりました。

 方角が分からなくなってしまったのです。出発点がどの方向にあるのか、目的地がどの方向にあるのか……風がどこからやってきて、波がどの向きに動いたか、舞がどの方向に流されたか、分かりません。

 兄が露骨な舌打ちをしました。落ち着かないのか膝を揺り動かしています。

「ともかく、ここにいても仕方ない。動くとしようじゃないか」

 そう言ったのは頬の持ち上がった男です。男は船内に残っていたオールを持ち上げました。しかし、そのとき。

 オールを使わなくても、勝手にヨットが動き出しました。まるで引っ張られているかのように、それはゆっくりとした動きでしたが、確実に動いています。オールを持っていた男は、目をしばたたかせて、オールを置きました。波も風もないのに、ヨットが流れていきます。

 徐々に、ヨットの進む速度は上がっていきました。仮面の男が、不思議そうに海面を眺めます。海面はわずかに揺れています。小刻みに。

「これは……」

 兄もその現象に驚いているようです。

 舟はどんどん進んでいきます。だんだん速くなっていきます。ヨットがなにかに引っ張られているというよりも、むしろ引っ張られているのは海のほうかもしれません。そんな感覚に捕らわれます。海の動きに合わせて、動かないヨットが移動しているような感覚です。

 それは、すぐに船員の視界に入りました。海を引っ張る要因。それは渦です。渦潮です。一部分だけ窪みができています。海に穴が開いているのです。そこに海水が流れ込んでいるのです。

 ヨットの速度はとても大きくなっていました。それにつられるように、波も激しいものになっています。そして渦に近づきます。ぐるぐると、渦のまわりを猛スピードで。船員たちはまた舟の縁にしがみつきました。今度こそ落ちたら命を落とします。

 しかし途端に、渦が塞がりました。舟が渦に吸い込まれる直前のことでした。底から水が湧き上がり、水面の高さが盛り上がります。

 波が緩やかになりました。結局なんだったのだろう、と船員たちは互いに顔を見合わせます。その瞬間、舟が横に傾きました。

 舟の縁を、人の手が掴んでいました。海から手が伸びています。白い肌、水滴がついています。そして海から人が乗り込んできました。

「舞!」

 兄が叫びます。……乗り込んできたのは、舞でした。全身から水滴が垂れます。クセのある髪が、水に濡れてさらに捻じ曲がって見えました。舟にあがって少しだけ座り込み、息を整えます。と思うとすぐに立ち上がり、呆然と立っている兄に、手を差し伸べました。縁を掴まなかったほうの手です。その手には兄のソフト帽が。

 あの渦潮は、舞が圧力を操作して作り上げたものでした。圧力に差異があるとき、流体に動きが生じます。圧力の大きいほうから、小さいほうへと、水が流れていくのです。それによってどこにいるのか分からないヨットを、舞は引き寄せることができたのでした。

 兄が安堵に浸っているとき、男が「あ!」と声を出しました。そして海上のある一点を指で示します。

 そこには、舞の他に流された男の体がありました。男の体も、舞の行為によって引き寄せられたようです。

 男の体を、漂流物らしき材木が貫いていましたが。

 舞は兄から目を逸らして、男の遺体に目を遣ります。そして俯きました。材木がいつ刺さったかは定かではありませんが、もしかしたら、舞が圧力操作をしてから刺さったのかもしれないからです。

 潮風が流れます。風がやってきました。ヨットの帆が膨らみ出して、誰の行為もなく進んでいきます。風が舞の体を撫でました。舞の服は海水を吸ってしまっていて、それになびくことはありません。

「……ごめんなさい」

 謝って済む話ではない、そう舞に告げる者はひとりもいませんでした。

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