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  作者: 小伏史央
【第4章】
35/41

 シェパードたちは、先人が残していった資料を整理していきます。先人は、未だ帰ってきません。

 同僚が、まだ入っていなかった部屋の扉を開けました。コツを掴んだので、スライド式の扉は容易く開けることができます。中に入るとそこは、どうやら洗面台のようでした。白い窪みが飛び出ていて、その上に蛇口が据えられています。同僚は鏡を覗き込みながら、洗面台に手を載せました。鏡はいっぺんの曇りもありません。

 ただし指先に、いっぺんの痛みが走りました。見ると、血が滲んでいます。男の不注意でしたが、洗面台には髭剃りが置かれたままになっていたのです。先人が残したものなのでしょう。

 軽く水で流して、指先を咥えます。同僚の口に、血の味が広がります。

「どうしたんだ」

 部屋を出ると、そこにいたシェパードがそう訊いてきました。同僚はシェパードに指を突き出します。今一度見てみるとその傷は、ずいぶん複雑なものでした。抉れてしまっているのです。血が流れるだけでなくて、肉片も落ちてきそうです。

「これは……」

 シェパードが顔をしかめて、ふと、男の指先に触れました。あまりに痛々しかったからなのでしょう。じんじんと痛みが震えています。しかし触れた瞬間には、その震えがぴたりととまりました。

 それとともに、「うっ」という短い声。

 シェパードが自分の指を凝視します。深い目つきで、それはまるでシリアスです。

 ……同僚の指の怪我は、消滅していました。同僚はそれを不思議そうに眺めて、それから遅れて頭を働かせます。

「もしや、この世界は、ムは、夢のように傷が消えてしまうのではないいか」

 同僚がそう仮説を立てます。シェパードは眉間に皺を寄せながら、無理に頬を持ち上げて「そうかもな」と返しました。

 自分の指先が抉れていることは、隠しておきました。

 ふたりはこれまで、元の世界に戻る方法を考えていました。そのためには資料を読むことも厭いません。中でもシェパードは特に、そのすべてに目を通す勢いで読んでいました。ですから同僚のまだ知らない知識を、シェパードは既に知っていたのです。

 能力者。シェパードはすぐにその単語に該当させます。

「どうやら、脳死ではなく、脳の一部が辛うじて生き残って、脳障害のようなことになっているらしい」

 シェパードがそう漏らしますが、同僚のほうはその発言の意味が分かりません。同僚は疑問に思いながらも、深く言及することはよしておきました。それよりも、治った指先のほうが不思議でならないのです。

 その様子を傍目に、シェパードは思考を巡らせます。……先人が書き残していったものを信じるなら、現在のシェパードの、現実世界での姿はきっと障害者の姿になっているに違いありません。文章にはこういった内容が書いてあったのです。ムにいくらか存在する能力者は、脳に障害をもつ者の「無意識」だと。ただし脳死状態は脳障害に含めません。

 バス事故。シェパードたちが植物状態らしきものになったのは、おそらくバスとタンクローリーがぶつかった事故が要因でしょう。そのときに死にきれなくて、今はどこかの病院に収容されているのかもしれません。同僚は脳死状態で、シェパードは、きっと、脳の一部がまだ生きているのです。だからいわば脳障害者の様相になってしまったのです。

 同僚に打ち明けるにも、気が引けました。自分はまだ脳が生きているけど、お前は完全な脳死状態だ……だなんて、どの口が言えましょう。それはつまり、元の世界に戻る希望が、完全についえてしまうことを差すではありませんか。

 ですからシェパードは、元の世界に戻ることは諦めました。同僚はまだまだ頑張って資料を読み漁ったりモニターを眺めたりしていますが、それをやめさせるようなこともしません。

 シェパードは、ムの世界で暮らすことを決めました。この白い建物を出て、現実世界と瓜二つに見える世界で暮らしてゆくのです。もちろん、きっと戸籍もないでしょうし、通貨も通用しないかもしれません(後に、通貨は現実世界のものと同一であることが判明しましたが、そもそもシェパードは金を持ち合わせていませんでした。金は、「意識」とともには動いてくれなかったようです)。それでも、これからうまく適応していけばいいのです。

 同僚にはまだ、希望を持ってもらうことにしました。彼から希望を奪うということはつまり、死ねと宣告しているようなものです。そんな悲しいことはしたくありません。

 同僚に気付かれないように、こっそりと建物を抜け出ました。外はやはり、現実世界となんら変わりありません。それでも少々の違いはあるのです。たとえばシェパードの体がそうです。超能力ともいえるものを扱えてしまうこの体は、現実世界では存在できないでしょう。もしかしたら、シェパードが知らないだけなのかもしれませんが。

 シェパードはしかし、あることに気付きました。……あの施設にはモニターがあるのです。もし同僚がモニターでシェパードを見つけたら、どうなるでしょうか。不可解で想像もつきません。

 そこでシェパードは、仮面をつけることにしました。顔を隠すためです。さらにシェパードは、口調も変えることにしました。モニターに音声機能がついているかもしれないからです。口調は「です」や「ます」などの敬体に変え、自称の言葉も「わたくし」に決めました。名前も、ムならではの名前に変更することにしました。なににしようか考えている間に、ふと聖書の言葉を思い出しましたので、「シェパード」と名乗ることにしました。そう名乗ってみると、なんとも牧師になったような気になりました。せっかく能力があるのだからと、怪我人を見つけ次第、その傷を請け負うことにしました。最初はかすり傷程度の怪我しか受け入れませんでしたが、そのうち慣れてきて、痛みにも鈍感になってきます。

 そうやって、目的もなくムを歩きまわっていました。同僚がどうしているのかは、もう気にも留めないようになっていました。そのことに気付いて、シェパードは少し自分を省みました。羊飼いを名乗っておきながら、現実世界から一緒に訪れた友人のことは放置しているのですから。……放置するのが正解でしょうし、今更会うとそのほうが相手のためにならないことは分かっていますが。それでもシェパードは、自分が「小さな羊飼い」だと省みました。そこでシェパードは、「小さい」という意味をもつ「ポン」を名前に付け加えました。「ポン・シェパード」と、なかなかいそうもない名前になったではありませんか。

 そんなある日のことです。中年男性に声をかけられたのは。

 男はシェパードとすれ違いざまに、ふいに名を呼んできたのでした。シェパードは驚いて男を見ます。会った覚えのない男です。それなのにシェパードの名を知っていたのです。

 男は名前を見つけたネタばらしも蔑ろに、シェパードに依頼を持ちかけました。……それによると男は、あと数日か後に殺められるというのです。

 男は、ある集団の親分格なのだそうです。しかし最近まで禁錮刑を受けていて、つい数日前に脱走したのだそうです。警備員に気付かれずに、それどころか逃げた後も、逃げられたことを気付かせないように。

 男は妙なジャケットを身に着けていました。背中と肩の部分に、奇妙なプリントが印字されています。ダーツに赤い矢が刺さって、刺さったところから青い水が流れているのです。

 シェパードは男の話に興味をもちました。もともと、目的のない人生です。それならこうやって、楽しそうなことに首を突っ込むのもいいかもしれません。シェパードは男の提案を受け入れました。

 その日はそこで別れて、後日シェパードは男と会うことになりました。シェパードには定住地などはありませんが、それでもその日は、場所を失ってしまわないようにその場に居座ったのでした。

 奇しくもそこは、同僚のいるであろう施設と近所でした。

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