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  作者: 小伏史央
【第4章】
33/41

 ベンチでの会話を思い起こします。舞はシェパードに言われたのでした。兄の死は、兄が決めたことだと。

「本当にいいのですか?」

 シェパードがのんきに訊き返している間にも、静奈から血液が流れ出ています。

「早く」

 舞がシェパードの手を掴みました。シェパードの腕が変な方向に曲がります。シェパードは顔をしかめましたが、その痛みを舞に押し返すこともせずに、舞の様子を見遣りました。

「分かりました。いいでしょう。静奈さんの傷をあなたに移す。まったく、兄妹揃って莫迦なものです」

 舞は腕を握る手を強めました。シェパードは顔をより一層しかめますが、声を漏らしたり、気を霞ませることはありません。痛みには慣れきっているのです。

 シェパードが静奈の体に触れます。これで、静奈、シェパード、舞が直列に繋がりました。あとはシェパードの意思通りに、傷の移行が施されます。

「準備はいいですか」

 シェパードが言います。舞はより緊張した顔持ちで、シェパードの様子を窺いました。……舞は、そもそも死ぬつもりなどないのです。舞は兄とは違います。シェパードが静奈から傷を引き受けた瞬間を狙って、握っていた手をぱっと離すつもりでした。そのために、先に自分からシェパードの腕をとったのです。絶妙のタイミングで手を離す。その主導権を握るためなのです。繰り返しますが、舞は兄ではありません。自分の命こそが一番の宝物なのです。静奈ひとりの、ただひとりの女子のために捨てるようなことはしません。これはシェパードを殺めるための手段なのです。

 舞が集中のあまり、恐ろしく鋭い目をしていたからでしょうか。シェパードは、「準備はいいですか」と繰り返します。先ほどよりも優しげな口調でした。

 舞は頷きました。シェパードはそれを確認してから、静奈のほうを向きます。ぐったりとしていて、起きる兆しがありません。傷を取り除いてやらないと、きっとこのまま起きることはないでしょう。

 舞を殺めるためだけに、駒として用いられた少女。彼女を見つめながら、シェパードは能力を発揮します。

「どうせ死ぬのです」と呟いて。


  * * * *


 シェパードが、バスに乗り込みました。もっともそのころは、シェパードという名前ではなかったのですが。通勤時間のバスは人でひしめいていて、空いている席はひとつもありません。シェパードはどうにか手すりを獲得しながらも、人々に押されて体勢を崩します。転倒は手すりが制してくれました。

「よう」

 隣から、そう声がします。その方を向くと、そこにいるのは同僚の男でした。仕事場のとき身につける白衣を、人目を憚らず着ています。シェパードと同じくらい、背の高い男です。顔はごつごつと堅そうで、目つきは削れたように鋭いです。捻くれた口元が印象的で、さらにボウズ頭なので、一見だと柄が悪く思ってしまいます。

「おはよう」

 シェパードは気軽にそう返しました。同期なので遜る必要はありません。人でごった返している中、普段となんら変わりなく世間話をします。

「……それで、『研究』にはなにか進展はあったのか?」

 ひととおり世間話をした後、男がシェパードに話をふりました。

「『研究』とは……大層な言い方だな」

 シェパードはそう指摘しますが、確かに、端から見ればシェパードのしていたことは「研究」と言っても相違のあることではありませんでした。科学的根拠はありませんが、だからといって「研究」ではないとはいえません。

「まずまずだ」

 シェパードは少しだけ考えて、そう返します。

 シェパードは常々、哲学者まがいのことを考える癖がありました。シェパードは思うのです。人の一生は、どういった原理で出来あがっていくのだろうと。シェパードはずっと昔からそれを思考し、主観的に考察し、ある仮説を立てていました。

 世界には「裏」のなにかがあるのではないだろうか、と。

 シェパードはつくづく思うのです。人は内面と言行が乖離していると。たとえばシェパードは中学生のとき、ある女子にもてあそばれた苦い思い出があります。いかにも気があるように接してきておきながら、いざこちらから想いを告げてみるとあっさり突っ放されるのです。それどころか笑い者にされます。シェパードがこの思考に没頭し始めたのはこのあたりからでした。人は内面と言行が乖離しているのです。それはまさしく、「表」と「裏」があるといえるのでした。

 ならば世界も、そうだとはいえないだろうか。シェパードはそう思うわけです。聖書や各宗教の教本などを読んでいると、違いこそあれ、人と世界は繋がっているというな内容が多いような気がします。人と世界は同じ原理で成り立っていると。シェパードはそれに気付いてから思ったのです。人に表裏があるのなら、世界にも表裏があるに違いないと。

 えせ哲学者の思考で、シェパードはその論拠を繰り出そうと頑張っていました。いつも悩んでいるように見えるその様子に、入社して間もないころ、隣の同期が話しかけてきたのでした。シェパードはあっけらかんと自分の心内を暴露しますが、ただ呆れられるばかり。それでもまるでからかうように、同僚は思考の進展状況を聞いてくるのです。

「それがどうしても、思いつかない。根拠がないんだ」

「まあ仮説なんてそんなもんだろう」

 シェパードの愚痴に、同期が適切に答えてきます。

 シェパードは窓の外を眺めます。町並みがバスの動きに合わせて、どんどんと流れていきます。それはまるで川の流れのように、途切れることを知りません。……と思っていたら、赤信号に捕まって、あっけなく堰いてしまうのですが。

 職場までは、まだまだです。バス停に着いて、前後それぞれの扉が開きます。数人が乗って、数人が降りていきます。降りるときに運賃を支払い、運転手の「あんがとう」という掛け声。いつもとなんら変わりのない、朝の風景です。

 バスがまた動き出します。職場の近くのバス停までは、まだ時間がかかります。手すりを握っていないほうの手は鞄を持っていて、その中には少量の書類が詰め込まれています。適度な重さが、手すりを握る拳に力を加えます。

 バスは曲がり角に差し当たりました。信号が許可するとおり、いつものとおり道を曲がります。

 その途端。

 バスが左右に大きく揺れました。そうしつつも、慣性の法則が働いてシェパードの体がバス前方に傾きます。同僚もそうでした。どっと車内が沸いて、どっと車内がひしゃげて。

 曲がり角でぶつかったタンクローリーが、変に曲がって傾いて。

 気付けばシェパードと同僚は、一面が真っ白の空間にいました。

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