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  作者: 小伏史央
【ム・前】
3/41

ム(2)

 上下、左右、前後ろ。そのすべてが白に覆われています。その明るさに、彼女はつい目を瞑りました。すぐに自分の背後に壁がないことに気付きます。咄嗟に後ろ手に体を支えようとしましたが、どうにも間に合わずごろんと転んでしまいました。白い地面に頭を打ち付けてしまいます。彼女は目を瞑ったまま顔をしかめて、自分の頭を掴みました。

「目が覚めたようだな」

 白い空間に、そんな男声が響きました。声がすんなりと彼女の頭に染み渡っていきます。徐々に光に目を慣らせ、彼女は声のしたほうを向きました。

「いや、むしろ眠ったというべきか。君にとっては逆なのだから」

 真っ白い空間の一角に、一見では壁ともとれる扉がありました。それはいつの間にか開いていて、その入口に、男がひとり立っています。

 背の高い男です。かたそうな顔に、柄の悪そうな目つき。妙に歪んだ口元。ボウズ頭なのが、男の堅固さをより強調しています。男は白衣を身に纏っていますが、この空間の白とは、はっきりと区別がつきます。

「よく来たな。ちょうど人手が欲しかったところだ」

 男の目が、ぶれることなく彼女を捕らえました。その視線を怖がる素振りは見せずに、彼女は男を眺め返します。床にぶつけた頭を掴んだままです。

「ここは?」

 彼女は男にそう訊きました。口の水分が乾ききってしまっていたのか、聞き取りやすいものではありません。

 それでも男は聞き返すことはせず、体の軸をぶらすこともなく答えました。

「ここはムだ」と。

 彼女はなおも眉をしかめます。

 なにがおかしいのか、男は小さく笑いました。口元の歪みが大きくなります。彼女は未だ頭を掴んだままで、長い髪が乱れています。まるで寝起きのようです。実際、彼女が目を開けたのはついさっきのことですが。

「いや、この答え方はおかしいかもしれない。日本に来た観光客に『ここはどこだ』と訊かれて、『ここは日本だ』と答えたようなものだ。……訂正しよう。ここはムを観察する、いわば研究所だ」

 そして男は雄弁に語りだしました。ムについて、彼女に説明を始めます。

 ――ム。いうなればそれは、「夢」の下敷きとなる「無」です。

 人は夢を見ますが、夢には原料ともいうべき基盤が存在します。そんな深層意識(意識の奥に内在するもの)、もとい「無意識」が集まってできた場所、それがムなのです。

 おかしなことに「無意識」は、全人類で共有されています。つまるところ人々は、「意識」の奥底でつながっていたのです。

「つまり、ムとは人々の『無意識』が集まってできた、町のようなものだ」

「町……?」

 彼女はわずかに首を傾げました。もう頭は掴んでいません。

「そうだ。町だ。この施設を出てみれば分かるが、この世界は、まるでオレたちの生きていた世界と瓜ふたつだ。建物が並び、人々が社会を築く」

 彼女はより大きく首を傾げます。

「つまりだ。ムとは人々の『無意識』が基となった世界であり、さらに『無意識』とは『意識』に内在されているものだから、俺たち元の世界と酷似してしまうのだ。むろん差異も散見するが、基本的にはオレや君の世界と同じようにできている。重力も同じように作用する。言語も地理も同じだ」

 彼女がまた眉間に皺を寄せました。男の説明が気に入らなかったのでしょう。

「それで、なんで私がここに?」

 彼女が疑問を口にします。男が短い溜息をしました。少しだけ沈黙が積もってから、男はまた説明を始めます。

「君は、どうやら人生を諦めたようだな。なにがあったのかは知らないが、君はひどく錯乱し、そしてひどく疲弊した。そうして君は虚無となり、ムに飛ばされた。『意識』よりも『無意識』のほうが大きくなったからだ。『意識』という容器から『無意識』が溢れ、君を支配するものが『意識』から『無意識』へと移り変わった。だから、君の『意識』が見ている世界から、『無意識』に見ている世界へと向きを変えたのだ」

 男の視線はまっすぐ彼女に続いています。彼女はそんな男から目を逸らして、開いている扉の向こうを眺めました。同じく白に包まれた廊下が、長く長く続いています。

「滅多にないことなんだがね。……まあ、オレもそうやってここへ来たのだが」

 男がつけくわえるように発言して、その声につられて彼女はまた男のほうを向きました。

「私は死んだの?」

 今の彼女は、とても落ち着いています。きっと彼女の頭は、前とは違ってすっきりしているのでしょう。混沌とした水槽が、綺麗に掃除された直後のような。

「いや。君は決して死んでなどいない」

 男が律儀に答えます。

「ムに存在できるということは、つまり『無意識』がまだ生きているということだ。『無意識』が存在するためには、まず体が生きていなければならない。本来、『無意識』は『意識』に内包されていなければならず、『意識』は個別の体に宿っているからだ。よって君は生きている」

 男の口調は堂々としています。実際に彼女の体は生きている状態ではありましたが、今の根拠は間違っています。今の彼女は「無意識」のほうが「意識」よりも大きいからです。

「おそらく現実世界の君は植物状態のようなことになっているだろうが、まあ当分は問題ない」

 彼女はあまり腑に落ちない様子でしたが、それでも軽く頷きました。

「それじゃあ。先ほど言ったとおり、人手が欲しかったところだ。どうかここで働いてほしいのだが、どうだ」

 男は口の端を持ち上げます。きつい目つきは変わっていませんが、どうやらそれは敵意から来るものではないようです。

(私の体はどうなっているだろう……。でも、どうせ夢から覚めたって……)

 彼女は小さく頷きました。頷いてから、「でも、働くってなにを?」と訊ねます。

 男は口元をさらに歪めました。

「基本的には、この施設の管理だ。先ほど言ったとおり、ここはムを観察するところだ。昔、ムを発見した人間が作ったそうだが、詳しいことはオレも知らない」

 彼女は唸って、痛みはもう引いているはずなのに頭を掴みました。

「それで、結局、ムってなんなの?」

 それを耳にして、男は少し肩を落としました。

「……実際に見てみたほうが、早そうだな」

 男は背後の廊下を振り返ります。それからまた彼女を一瞥します。

「来るといい。ムを見せてやろう」

 彼女は迷わず立ち上がりました。腰を上げるのは久しいことらしく、少しよろめきながら。

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