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  作者: 小伏史央
【第3章】
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 兄が立っていました。真っ白な空間の中で、ぽつんと。舞は暗闇の中にいて、こちらから向こうは窺えますが、向こうからこちらは見えないようです。

(兄貴、兄貴!)

 喉が張り裂けんばかりに兄を呼びかけました。しかし兄に声は届きません。それどころか、舞の耳にも届いていません。そもそも舞は口を動かせていませんでした。暗闇の中で、自分にも聞こえない声で叫びます。

 兄が舞に気付きました。舞の思いが、きっと兄に伝わったのでしょう。が。

 兄は舞の顔を見つけたかと思うと、目を鋭く細めました。口はかたく閉ざしています。両手は黒服の下に隠しています。なぜ隠しているんだろう……舞がそう思った途端、兄が片手を引き出しました。

(お前のせいだ)

 拳銃から噴射された言葉が、舞の胸を貫きました。抉れて、ひしゃげて。舞は喉を詰まらせて、後ろへ反り返ります。わけもわからぬまま、兄の姿を見つめました。兄はもう舞に興味を失ったように、背を向けています。もっと明るいところへと、こつこつと歩いていきます。しかし足音は聞こえませんでした。

 ……気付けば舞は、幼少の体に戻っていました。床を這って進みます。どうやら、部屋の隅に転がっていってしまった玩具へ向かっているようでした。赤くて丸い、鞠のような玩具です。

 そこへ、父親がやってきました。舞は玩具へ向けて旅をしている最中だというのに、父親は舞を抱き上げます。高い高ぁい。いつまで経っても子どもが可愛くて仕方ないのでしょう。満面の笑みで舞の小さな体を抱えます。

 舞はふくれっつらをしていました。早くあの赤い丸で遊びたいのに……。自分を包む父親の腕が、邪魔臭く感じられました。これを突き破れたらいいのに。そう思っていると体が火照ってきました。

 舞の泣き声を聞きつけて、母親が駆けてきました。声にならない悲鳴を上げます。父親の無惨な様子から目を逸らします。母親は、強盗かなにかが父親を殺めたとでも思ったのでしょう。舞は父親の腕から抜けて、床に体を打ってしまっていました。それがつらくて泣いていたのです。母親はいもしない強盗を警戒しながら、可愛い我が子を守るように抱きしめました。そして心臓が破裂しました。

 今度は母親の体がクッションになって、体を打つことはありませんでした。それでも舞は泣きやみません。高い圧力によって、赤い玩具はさらに遠ざかっています。

 いつの間にやら、部屋の入口のあたりに兄が立っていました。当時は中学生だったはずなのに、その姿は、すっかり大人の体です。しかしその体には、見るも無惨な傷が刻まれていました。矢のようなもので抉れたに違いありません。

 そして舞を見据えて、兄は口を動かすのです。

(お前のせいだ)

 ――舞は目覚めました。体を咄嗟に起き上がらせます。

 体中が汗に湿っていました。額と髪が気持ち悪いくらいくっついています。クセ毛を付着させているのが、汗だけでないことに舞は気付きました。こわごわと自分の目元を触ります。汗でねばっこくなっていた指先に、涙が混ざります。

 舞はふと、横を見遣りました。自分の左手が、無意識になにかを掴んでいることに気付いたのです。夢を見ている間に、体が勝手に掴んだのでしょう。

 横で眠っている少女の腕が、メビウスの輪のようにねじれていました。

 病院に訪れるのは、もう幾度目かになるでしょう。近くにバス停があるはずですが、この病室からは見えませんでした。バスの音も、降りる乗客の足音も届きません。

 静奈と無言で見つめ合います。意識は既に取り戻していました。右腕ががっちりと固定されています。左腕のリストバンドはつけられたままでした。静奈は不自由そうな顔を作ることも厭った様子で、舞と見詰め合っています。

 舞は蛇に睨まれた蛙のように、身動きできずにいました。静奈の視線に絡み取られて。縛り付けられて。

「ねえ」

 先に口を開いたのは、やはり蛇のほうでした。蛇睨みが利いているのか、声をかけられても舞は首を動かしません。ただ静奈の視線に射抜かれているだけです。それでも静奈は、きつい口調で続けます。

「なんで黙ってたの?」

 その不可解な質疑に、舞はほんの少しだけ視線をずらしました。その質問は、まるで答えを必要としません。

 静奈自身も、その不可思議さに気付いたようで、「黙るのは当たり前か」と呟きます。

「この腕、切断は免れたけど……もう動かせやしないって。筋肉が働かないって」

 責める口調を、舞はどうすることもできません。飲み込まれる瞬間を、逃げることもせずひたすら待っています。

「能力者――なぜ、舞は能力者なの?」

 そんなこと訊かれても、むしろその答えが聞きたいのは舞のほうです。舞は自らの唇を噛みました。だけれど痛いほどの力を加える勇気はなく、ただの甘噛みになってしまいます。

「能力者なんて、大っ嫌い。人間じゃないくせに人間ぶって――」

 途端、舞が啖呵を切りました。静奈の言葉を遮って、自分は人間だと言い放ちます。もう乾いたはずの頬が、また濡れてきました。顎を伝って、服に染みて。

「……ねえ」

 涙声。静奈は涙を流さずに泣いていました。右腕は器具に矯正されていて、微動だにできません。そこだけは蛙のようです。それでも蛇は食欲を失って、ただ喉を震わせています。もとからなかった蛇足を失い、哀れんでいる蛇みたいに。

「出てってよ」

 静奈が絞り出した声は、そんな当たり前のことでした。

 病室の窓は、バス停のほうを向いていません。他の方向を見ています。バス停の代わりにこの窓から見えるのは、舞が前日いた公園でした。少年たちがボール遊びに励み、もう少し幼めの子たちは砂場で山を作っています。稚気の音がいまにも聞こえてきそうです。不審者が先日いたことが主婦の間に広まったのか、公園に同伴している親が多いように思えました。

 スライド式の扉の向こう側で、舞は壁に背中を預けます。涙はいくら流れても、堰くことを知りません。兄がいなくなってから、きっと狂ってしまったのでしょう。防波堤は死んでしまったのです。

「ちょいと、失敬」

 そう声をかけられました。涙ぐんでいるところに声をかけてくるだなんて、なんて失敬な人なのでしょう。舞は手の甲で拭いながらも、声の主に顔を向けます。

 間近で見てみると、がたいがよさそうなのがよく分かりました。胸板は厚そうで、肩幅は広そうです。奇妙な衣装がそれを曖昧にしていますが、きっと、そうです。

 舞は咄嗟に、両手を前に突き出そうとしました。本能からよるものなのか、理性からくるものなのか、そんなこと、舞は気にしません。しかし相手は軽やかにそれを避けて、「まあまあ、ここは病院ですよ」と舞をなだめました。

 ポン・シェパードが、仮面をつけたまま微笑みます。

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