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  作者: 小伏史央
【ム・前】
2/41

ム(1)

 彼女は壁に背中を預けて、どこでもないどこかを眺めていました。カーテンが日の光を遮っています。しかし部屋の中は真っ暗というわけではなく、昼間独特の闇に包まれていました。闇というよりも、暗い光でしょうか。光の粒子か波かは、どんよりとして動きません。

 部屋の中は荒れ放題です。壁に居を構えていたはずの時計が、薄汚れた床に倒れています。時計からこぼれた乾電池が、箪笥からこぼれた衣服と共に散らばっています。破れたシーツも一所です。

 彼女の眼球は、そんな部屋模様を映していました。しかしその映像は、脳に到達する前に遮断されてしまっています。カーテンは日の光だけでなく、彼女の視界も閉ざしてしまっているのです。瞳はまるで、乾いた水溜りのよう。

 電話の受話器が、頭を下にして垂れていました。電話機と受話器をつなぐコードが、まるでバンジージャンプの命綱のようです。叫びを上げることにさえ疲れたようで、それは静かな様子でした。

 昨日のことです。彼女に電話があったのは。

(けん)が死んだ』

 冷淡な声色で、電話先の人間がそう言ったのです。その声は針のように集中した圧力で、彼女の心を突き刺しました。

 虔。それは彼女が愛した男の名前です。その名のごとく、彼は慎み深く冷静で、謙虚で、だけれど芯は強い、正義感に満ちた人でした。

「ど、どうして」

 彼女がそう漏らします。

『……トラックに轢かれた』

 電話先の声は、なおも冷たく言い放ちます。彼女を刺す針が、より大きくなりました。血が流れ出ることはないのに、彼女は自分が酸欠状態になっていく気分に襲われます。血か涙でできた水に溺れて、彼女は息ができずもがきます。

 受話器を落としました。それは頭から床に落下します。意外と大きな音がしました。それでも受話器が壊れることはなく、通話終了を告げる音だけが、妙にはっきりと彼女の耳に残りました。

 壁にかかった時計が、午後の八時を示しています。彼女はその時計を思い切り叩きました。バランスが崩れて、時計が重力に従えられます。床に打ちつけられて、時計の電池が飛び散りました。秒針も短針も時針も動きをやめてしまいます。表面に薄いひびが走りました。

 次に彼女は、箪笥の中を乱し始めました。セーターやスカートやショーツやスカーフ。それらを引き出しては、びりびりに破いていきました。それもまた床に打ちつけます。

 ひとしきり破壊行為をすると、彼女はベッドに体を倒しました。疲れたのでしょう。ですが枕を掴むと、奇声を上げてそれを投げてしまいました。枕は壁にぶち当たり、埃を舞わせて、形を崩します。彼女はベッドの上で体を震わせると、シーツに爪を食い込ませました。思い切り引っ掻いて。長い爪がはがれて血が流れます。

 自分でもなぜこんなことをしているのか、もう分からなくなっていました。彼女はなにも考えずに、ただ部屋の中で暴れました。壁に疵をつけました。天井に埃を放ちました。床に液体を吐き出しました。

 彼女は壁に背中を預けます。どこでもないどこかを眺めて。

 カーテンだけはかろうじて無疵でした。太陽が昇ってからは、日の光を圧搾して、部屋の中に漂わせています。彼女の唾や汗に汚れた床を、光に直接照らされてしまわないように。

 水溜りは徐々にかたくなっていきます。蒸発して、潤いを失って。いずれ割れて、虫の巣になって。

 彼女の瞳はなにも見ていません。視神経のところで、すべてを遮断してしまっているのです。それは意図的なものではなくて、カーテンが日光を遮るのと同じように、当たり前のこと。

 彼女は壁に背中を預けます。そうしていないと座ってもいられないのです。背中にもどこにも力が入っていません。体を支える軸は、もう消滅してしまっています。かろうじて彼女に内在する骨が、彼女を彼女の形として保っているのでした。壁の協力を借りながら。

 ……そんな状態ではありましたが、彼女が気付くのにさほど時間はかかりませんでした。彼女を取り巻く変化というものが、急速に彼女に自我を差し出したのかもしれません。ともかく、彼女はすぐに気付きました。

 自分がもう、汚れた部屋にいないことに。

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