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  作者: 小伏史央
【第2章】
19/41

 それは一瞬のことであるはずなのに、兄は人生よりも長いような錯覚に捕らわれました。脳の動きが、とうとう鈍くなっているのかもしれません。病は確かに進行の早いものですが、いくばくか早すぎる節があります。……それはいってしまえば、兄の心理状態が関係しているのでした。どうせ助からない、どうせ自分は邪魔者でしかないといった負の感情が、脳内の異常とともに増殖したものと考えられます。

 クロイツフェルト・ヤコブ病。ヨットから降りてから、すっかり兄はそれに冒されていました。この病は、いわば新幹線に乗ったアルツハイマー病です。その進行はとても早く、平均して一、二年程度で、発症者は命を落とすといいます。プリオンという蛋白質が、脳内に異常に蓄積することで発症します。その異常プリオンが、脳組織に穴をあけてスカスカにしてしまうのです。

 ヨットで人肉を食したことが原因でした。誰も気付きやしませんでしたが、そもそも気付く由などなかったわけですが、ヨットで絶命した男には、異常プリオンが含まれていたようです。あのとき人肉を食べなければ餓死していたでしょうが、食べてもまた、脳を冒される結果が待っていたのでした。

 先ほど申したとおり、この病は非常は進行が早いものです。しかし、一週間でどうのこうのなるものではありません。これはひとえに、兄の思い込みの激しさが関連しているのでした。この病にかかったというストレスが、彼に頭痛をもたらしたのです。

 そしてこの病は、感染力が強いのです。兄は考えました。悩みました。無駄に持ち合わせた知識が、彼に犠牲を授けたのです。もし妹が感染してしまったら……。足手まといどころの話ではなくなります。それがまた、彼に頭痛を預ける要因となるのでした。

 兄はヤコブに出し抜かれたのです。

 彼は結局、自害する他の方法を思いつきませんでした。妹に病をうつさないためには、自分が深刻な状態になる前に死んでしまえばいい。兄はそう考え、そして今回をちょうどいい機会に仕立て上げたのです。妹の傷を癒しつつ、自分の病を処理することができる。それによって失うものは、役に立たないただの足手まといだけです。兄にとって、それを選択するのは当然のことでした。

 その時間は、一向に終わるきざしを見せませんでした。死の直前というものが、こんなにも長いものだったというのを、兄は今になって初めて知りました。もちろん誰もが、生きている間は知らないことなのでしょうけど。

 人生のこれまでが、一気に甦ってきます。それは濃縮されているというよりも、一連のただの固体のようでした。固体がひとつ通り過ぎ、その瞬間には人生のすべてが巡りまわっていたのです。

 ――わたくしは、グッド・シェパードを目指していますから。

 ヨットの上での、舞とシェパードの会話。兄はそれを、ふいに思い出すことができました。

 シェパード、つまり、羊飼い。グッド・シェパード。良き羊飼い。

 クロイツフェルト・ヤコブ病は、もともとは羊などの家畜の病気だったそうです。それが人間に広まり、こうして人の主流な感染病となりえたそうです。

 その羊飼いは、果たして最初、どう思ったのでしょうか。グッド・シェパードのように、打算しない無償の愛で、その羊を介抱してやったのでしょうか。最後に死んでしまっても、我が血肉として取り入れたのでしょうか。そして病にかかったのでしょうか。

 もしもシェパードが良き羊飼いになりえていたのなら……。しかし兄は、それを考えることはしませんでした。兄は薄々ではあっても、シェパードがまったくただの羊飼いであることを知っていました。彼は打算します。

 いくら永くても、それは天国でも地獄でもありません。兄の最期の瞬間も、ついに終わりとなりました。最後に浮かんだ光景がなんなのか、兄にも分かりません。小さいころの舞だったのかもしれないし、舞を掲げる両親だったのかも。それとも案外、鏡に映る自分の姿だったのかもしれません。

 死の瞬間というものは、決して闇の中で執り行われるものではありませんでした。ところどころに光が入り浸り、闇と空間を共有していたのでした。青くなった服の感覚も、頬を撫でる髪のクセも分からずに。死とはつまり、「無」なのでした。兄はそう感じます。死に足を踏み入れてもなお、思考します。「無」となっても思考だけ残っているのはまるで、「夢」を見ているような気分です。いえ、「無」を下に「夢」が覆いかぶさっているといったほうが、イメージが合っているでしょうか。……どちらも音読みでは「む」ですから、一括して「ム」といってもよさそうです。兄はそう思考して、笑おうとしました。ところがどうやら、笑うための顔がありません。シェパードは仮面でも笑ってみせたのに、兄にはどうやら、できないようです。

 ――太陽は沈みきっていました。あたりはいつの間にやら暗くなっています。

 舞が、ゆっくりと瞼を持ち上げました。暗闇なのに眩しそうに目をすぼめます。

 まず舞は、自分の体をまさぐりました。どこにも損傷はありません。怪我をしたような覚えがあったのですが、夢だったのでしょうか……。ところが胸は血で薄汚れていて、傍には先の曲がった矢が横たわっていました。血のにおいも健在です。むしろ普段舞が嗅いでいる血のにおいよりも、それは鼻をつくものでした。死後数時間放置していて、その場に居合わせたのなら、きっとこんなにおいがするのでしょう。

 上半身を起こします。向こうに、がたいのいい男のシルエットが見えました。月光へ向かって、のんびりと歩き去っていきます。個性的な服装をしているのが、暗闇の中でもよく分かりました。それはポン・シェパードの姿でした。

 舞は彼を呼びとめようとも思いましたが、それよりもまず、現在の夢心地に対応すべきだと判断しました。

(なにがあったんだっけ)

 悠長にぼやくのも、傍の遺体を見つけるまで。

「兄、貴……?」

 眠気は一気に醒めてしまいました。眠る前の記憶が、一気に目を覚ましていきます。そしてたくさんの疑問と、怒りと……。

「兄貴……」

 月が静かに輝いています。その光は世界中で舞だけを照らしているように思えました。月に促されるまま、舞は数時間もじっとしました。

 そうして舞は確信しました。シェパードが自分の兄を殺めたのだと。

 ぞくぞくと湧き上がってくるのは、シェパードに対する憎悪の念でした。復讐の気持ちでした。空気が歪んでいきました。すっかり圧力を操るのが下手になっていました。

 舞は立ち上がりました。シェパードを追いかけようと考えました。

 道の隅っこで、舞はすっかり顔も忘れている男が蹲っていました。心臓はもう機能していません。

 舞はそんなこと気にすることなく、ただ月に向かって歩きます。

 月が舞の殺意を、おかしそうに笑っていました。

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