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  作者: 小伏史央
【第2章】
18/41

 切れた糸は、残骸を残すことなく消えうせていました。それとももしかしたら、先の混乱で、残骸は飛ばされてしまったのかもしれません。

 流れ出る血液は、留まることを知りません。兄の黒い胴体を染めていきます。兄の腕の中で、舞は目を見開いて太陽を見ました。カッターナイフに反射されたときは眩しかったのに、今はぼんやりしています。ヴェールがかかったように、弱い陽光が、まるで差し込んできているのです。風景が混濁としていて、それなのに白いのです。まるで綺麗なのです……。舞は口を動かしましたが、声が出てきませんでした。

 ケイが、ふたりに近づきました。金髪の男とともに、ふたりを見下ろします。ケイは表情を変えないまま、兄の頭を蹴りました。そのまま地面に踏みつけます。いよいよ頭痛がひどくなっていきます。兄はどうにか、舞に衝撃が加わらないようにして地面に横たえました。

 錆びた鉄の味がしました。兄の口を広がる微量の血液は、喉を潤すでもなく積もっていきます。

 今の舞は、ジャケットのマークとほぼ似たような状態でした。矢が刺さって、血が流れて。抉れた皮膚が朱色に染まっています。血液が染み渡った兄の服は、その本来の黒と相まって、黒ずんだ青に見えました。

「さあ、さっさととどめさそうぜ」

 金髪の男が、軽佻にそう発言しました。兄が目を、矢尻のように歪めます。

「まあ、慌てるな」

 ケイは口ではそう言いましたが、既にもう一本の矢を握っていました。この至近距離でも弓矢を用いるというのでしょうか。

「おいおい。矢はいらねぇだろ。そのナイフで充分だ」

 男は、ケイの腰元に吊るされていた刃物を指し示しました。ケイはそれを目視して、それから矢をもとのところに戻します。

「確かに、矢を無駄に費やす必要はない」

 ケイは依然として無表情でしたが、その声色はむしろ嬉しそうに聞こえました。淡々としていることに違いはないというのに、声は奥で優雅に踊っているみたいです。

 ケイは腰元のナイフを手に取りました。柄を握り締めて、しゃがみます。兄の顔をまじまじと見つめました。目が赤くなっています。金髪の男も、ケイにあやかってしゃがみました。舞の顔を眺めます。なにも見ていないような表情をしていました。まだ身体機能は停止させていないようですが、終着したバスのようになるのは時間の問題でしょう。

 そこへ、シェパードがやってきました。先ほどまでバス停のベンチにいたシェパードです。突然の来客に、ケイたちは狼狽します。

「おや、なにかと思えば」

 シェパードの口調はわざとらしいものでした。軽薄に肩を上下して、恐怖心を抱くことなく近づいています。

「おやおや。これは舞さんではないですか」

 近づいて、四人を見下ろします。そのうちのひとりに注目して、また軽薄に笑います。

「なにがおかしい」

 兄が叫びました。それは耳に届かなかったのか、シェパードは今度は、ペアルックの男ふたりに視線を向けます。金髪の男が、嫌そうに睨み返しました。ケイも目を細めます。

 ……しかし数秒見詰め合っていると、ふいにケイは起き上がりました。そして、「帰るぞ」と一言。

 金髪の男は、残念そうな顔をして、それでも比較的あっさりと立ち上がりました。他の男たちは唖然とした顔をします。シェパードに一瞥をくれて、ぐちぐち言いながらふたりについていきました。あっという間に、集団の男たちは見えなくなっていました。

「最期の願いでもあれば、聞いてさしあげますよ。……ってあれ、意識はないようですね。これじゃあ話せない」

 シェパードはほぼ独り言のように、舞の体にそう話しかけます。矢は未だ刺さったままです。皮膚は抉れたまま。出血は弱くなってきてはいますが、それでもまだとまっていません。しかしまだ、息絶えてはいません。能力者もちまえの体力が、心臓が欠けたくらいでは死なせてくれないのでしょう。

 兄が、自分の頭を押さえながら起き上がります。起き上がる際、帽子が落ちました。それを拾うこともせず、兄はシェパードを睨みつけます。

「おい、あんた」

 兄は言いました。ふつふつと湧き上がってくる疑問よりもまず、なによりも大切な、刻一刻を大事とすることを喋ります。

「さっさと、舞の傷を俺に移せ」

 胸倉を掴んで。

 その真剣な顔に、シェパードはつい笑ってしまいました。胸倉を掴む手に、より一層力が入ります。

「移すというのですか。あなたに、この致死的な傷を」

「そうだ。俺に移すんだ」

 太陽はそろそろ傾くつもりのようです。沈む前に赤くなるのは、いったいなんの照れ隠しなのでしょう。

 生きている人間は、シェパードと兄と、かろうじて舞しかいません。赤く染まった空間は、濃い陰をもって染み渡っていきます。

「あなたは、わたくしに傷を負わせようというのですか。言ったはずです。人から人へ移すためには、まず自分が仲立ちにならなくてはならないのです。この痛みを、まず舞さんから引き受けるのは、わたくしになってしまうのですよ」

「……だが、あんたは言ったよな。ほぼゼロの時間で移せると」

「それじゃあ伺いますが、それは本心なのですか? おかしいでしょう。普通に考えてみて。あなたの目的は、舞さんを助けることです。決して、自分が傷を引き受けることではない。そうでしょう? ならばわたくしに移して、ただそれだけにすればいい。そこからまたあなたに移す理由は、少なくともあなた個人にはないはず」

 兄は無言で、またシェパードを睨みつけました。おちおちしてはいられないというのに、瞳を数秒かけて覗き込みます。

「いいから、早く」

 口元を歪めました。そうしながら、兄は頭を抱えます。眉も歪めていました。頭痛がさらにひどくなったのです。

「大丈夫ですよ。きっと舞さんなら、そう簡単にはくたばらない。まだ二十分くらいの余裕はあるんじゃないですかね。……ああ、いえ、そんな怖い顔をなさらずに」

 シェパードは舞の体を覗き込むような形で、赤らんだ地面にしゃがみこみました。兄もそれに倣います。丸まった影がふたつできました。

 シェパードが、舞の体に触れました。そして片方の手で、兄の頭を掴みます。兄の頭には本人の手が載せられていて、シェパードはその手に手を添えた形になります。触れれば能力を移動できる、その能力を行使するつもりなのです。

「しかしあなたは、少し自分を卑下しすぎな感があります。あなたは確かに、舞さんにとっては足手まといだ。ですがそれ以前にまた、あなたはこの子の兄上でもあるのです。ヤコブなのかなんなのか、わたくしは知りませんがね」

「はは……俺はただのヤコブじゃない。クロイツフェルト・ヤコブ病だ」

 兄はそう言って笑いました。心なし、気付かれていたことに驚いているようです。シェパードは仮面の下で笑いました。

「ならばあなたは、文字通りヤコブに出し抜かれたのですね」

 傷が流れました。

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