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  作者: 小伏史央
【第2章】
13/41

 病棟は静かです。平日の昼間ですから、普段の喧騒に慣れてしまった人たちにとって、今日は静かに感じられることでしょう。しかし兄は、その日の病棟の静けさを知りません。今日で退院で、既に病院の敷地を出ているからです。

 自分の妹は、先ほどショッピングモールへと向かいました。兄はついていこうとしましたが、拒否されてしまいました。その真意に、兄はまだ気付いていません。

「……ですから、とうに傷は癒えているのですよ」

 缶コーヒーを一口飲んで、ポン・シェパードはそう言いました。兄は「そうか……」と呟いて頷きます。ふたりは病院付近のベンチに腰掛けていました。すぐ傍には飲み物の自動販売機があります。高い位置にある太陽からの光は、ベンチを覆う天井が遮っていました。

 兄は陽光から隠れるために、このベンチに座っていました。ベンチは三方が壁に囲まれています。壁のない面は道路を向いています。このベンチは、つまるところバス停なのです。

 兄が座って休んでいるところに、シェパードがやってきたのでした。バス停横に設けられた自動販売機にお金を投入して、コーヒーを購入します。それから兄のほうを向いて、その横に腰掛けたのでした。

「それにしても」

 兄は言います。

「なぜ、あのとき怪我を代わってくれたんだ? 確かに能力者のほうがダメージは少ないだろうから、客観的に見ればそのほうが効率がいい。しかしそれは、俺とあんたが仲間だった場合のことだ。……なぜあんたは、初対面の人の傷を、無償で受け取ってくれたんだ?」

 バスがやってきました。両者とも、バスに乗るためにベンチにいるわけではないので、バスには目もくれません。バスから数人の人が降りて、そのままおのおのの向かうほうへ行きます。みな、シェパードの奇異な仮面に目をとられていました。

「その理由は、まあちょっと説明しにくい部分がありますね。とても単純な理由なのですが」

 シェパードはそう前置きをして、兄に説明を始めます。

「理由はざっくりと分けてふたつあります。まずひとつめは、そもそも舟の中では、あなたとわたくしは仲間だということです」

「仲間……」

 太陽の光は、ベンチを照らせません。

「お互い、目的は国を出ることでした。目的が同じで、互いに邪魔者にならないというのなら、それはつまり仲間だということです」

 なるほど、と兄は頷きました。目遣いで続きを促します。

「そしてふたつめが……これがどうも、面倒臭いのですがね」

 シェパードはまた前置きをしました。言いにくそうにしているわけではないようですが。

「快感なのですよ」

 ざっくらばんの言い方に、兄は少し間を置いて首を傾げました。帽子は今は脱いでいて、自分の傍らに添えられています。

「傷を受け入れる瞬間、そのときの高揚感が、わたくしに快感を与えるのです」

「…………」

「怪我をしている人がいて、その傷がさほど大きなものでないのなら、わたくしは無条件でそれを引き受けます。それによって、わたくしは得がたい快感を得ることができるのです。……だから、あなたの銃創もいただきました」

 兄はシェパードの瞳を見つめました。仮面から唯一覗く瞳は、茶色味がかかった黒をしています。磨きたくなるような黒です。

「それじゃあ、人の傷を、他人に移しかえることもできるのか?」

 兄はふと思い至って、シェパードにそう疑問を口にしました。その間に、またバスが来ていました。兄とシェパードの姿を確認して停車します。しかしバスから降りてくるものはいません。シェパードが「乗りません」と運転手に告げました。あっけなく自動ドアは閉まり、バスは進んでいきます。

 バス停のベンチからは、病院は見えません。壁と天井に遮られているからです。ちょうどふたりの背中の方向に、病院はあるのですが。

「それで、移し変えられるかという話でしたね。もちろんできますよ。まず自分の体に引き入れてから、もう片方の人間に移せばいいのです。うまくやれば、自分の体に宿す時間をほぼゼロにして移すこともできるでしょう」

「それは、死人に対してもか?」

 兄が畳みかけるように問いかけました。瞳孔が揺れています。

「いいえ。死体から傷を引き受けたり、死体に傷を移すことはできませんね。あくまでも対象は生きていないといけない」

「それと、あんたが移せるものは傷だけなのか? たとえば病気は、移せないのか」

「さっきから質問ばかりですね。……病気は無理です。わたくしが操れるのは、物理的な衝撃で生じた傷だけです。生活習慣が引き金で血管が詰まっても、わたくしはそれを取り除けない。虫歯も厳密には無理ですね。わたくしが引き受けられるのは、ただ、一般的な『怪我』だけです。たとえばバスに轢かれでもして、その体がまだ生きているのなら、わたくしはその怪我をすべて担ってやることができる」

「そうか。なるほど……」

 兄はなにを考えているのか、深く唸ります。シェパードはそれを見て、顔色を変えることなく立ち上がりました。顔色を変えない、といっても、その顔は仮面に覆い隠されているのですが。兄は立ち上がったシェパードを窺いました。シェパードは既に兄に顔を向けていて、「それでは、わたくしはこのへんで」と言いました。そのままバス停から離れていきます。自動販売機の近くに置かれていたゴミ箱に、空き缶を入れます。

 シェパードが立ち去ってからも、兄はしばらくベンチに座っていました。頭痛はずいぶん和らいだようです。代わりにずっと日陰にいたせいで、体が冷えてしまったような感覚がありました。

 バスがやってきました。自動ドアが開いて、人が降りてきます。今回は、特に人が多いようでした。二十人は超えているのではないでしょうか。兄はそれを怪訝そうに見遣ります。

「ダーツと矢……」

 先方に聞こえないよう配慮して、兄はそう呟きました。バスから降りてきた面々は、みな同じジャケットを着ていたのです。そのどれもに、同じマークが貼られています。

 ダーツに赤い矢が刺さっています。そして刺さった部分から、青い血らしきものが流れています。……それはまさしく、標的を殺め損ねた家屋の、扉の裏に描かれたものと一致していました。

 兄は目を光らせます。なるべく向こうから不審がられないように、傍らの帽子を被りました。深く、目元を隠します。そうしつつ相手を視界におさめます。

 そのどれもが男でした。柄の悪そうな者が大半ですが、中には落ち着いた雰囲気の者や、爽やかそうな者もいます。

 男たちは兄には目もくれずに、そのまま迷いのない足取りでバス停を後にしました。今までバスから降りた人と、なんら変わりのない行動です。しかし、兄にとって彼らは、なにか特別な存在にしか見えませんでした。その集団がなにを意味するのか、兄は少なからずの知識を持ち合わせていたのです。

 依頼主から連絡を受けて、兄と舞はこの町にやってきました。そういう際、兄は必ずその町の下調べをします。そのとき情報として知ったのです。こうして直に見るのは初めてでしたが。

 男たちはどんどん進んでいきます。その方向は、舞が向かった方向、ショッピングモールの方向でした。

 兄は、男たちの尾行を始めました。

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