第9話「本当にそれで終わるなら」
夕暮れの王都を、カイルはほとんど駆けるような勢いで進んでいた。
革袋を握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。疲労は溜まっているはずなのに、それを押しのけるような気力だけで体を動かしているのが見て取れた。
ティアもその後ろを追い、俺は少しだけ距離を空けて歩く。
街の西側は赤く染まり、石畳の隙間へ長い影が落ちていた。日が沈み切る前に、ぎりぎり間に合うかどうか。そんな時間帯だ。
「急ぐのはいいが、転ぶなよ」
俺が声をかけると、カイルは振り向きもせず言った。
「転んでる暇なんてない」
「……まるで暇がある人は転ぶみたいな言い方だな」
「どっちも言葉としては違和感を感じるがの」
「そんなの今どっちでもいいだろ……!」
その声は、怒鳴るというより叫びに近かった。
冗談を言い合う余力が、今のカイルには残っていないんだろう。とはいえ、それを責める気にはなれない。
今こいつを動かしているのは、意地でも見栄でもなく、明日までに間に合わせなきゃ終わるという切迫そのものだ。
だから俺はそれ以上何も言わなかった。
やがて辿り着いたのは、あの鉄格子のはまった建物だった。昼間と変わらず“人材斡旋所”の看板を掲げてはいるが、漂ってくる空気の嫌さは少しも誤魔化せていない。
扉の前に立っていた店番が、カイルを見るなり顔をしかめる。
「またか」
「金は揃えた」
カイルは革袋を持ち上げ、真正面から言い切った。
「違約金込みだ。足りるはずだろ」
店番の目がすっと細くなる。
「……中で話す」
◆
建物の奥、粗末な机の置かれた部屋で、奴隷商らしき男が金を数えていた。
中年。痩せた体。指だけ妙に細く長い。いかにも金勘定に向いていそうな顔をしているくせに、目の奥には生き物じゃなく商品を見ているような冷たさがあった。
「確かに、額は足りている」
男は袋を机へ置き、指先で軽く叩いた。
「予約破棄の違約金も込み。平民にしてはよく集めたものだ」
「回りくどい。リナを出せ」
カイルが低く言う。
奴隷商はわざとらしく肩をすくめた。
「威勢だけはいい。だが、順序というものがある。まずは売買契約だ」
机の上へ紙が数枚広げられる。文字は読める。《異世界・言語理解》、本当に便利だな。
ざっと見た限り、内容は単純だ。所有権の移転、違約金の支払い、奴隷状態の一時譲渡、奴隷契約の抹消。
だが、その中に一行だけ気になる文がある。
首輪術式の解除は翌日正午以降、専任術士立ち会いの上で行うこと。
俺は目を細めた。
やっぱりか。
「ん?」
ティアが小さく首を傾げる。こいつも気づいたらしい。
奴隷商はそんな俺たちの反応を見て、薄く笑った。
「正式な解放手続きは明日だ。今夜のうちは所有権が移るだけと考えてもらえばいい。もっとも、娘を連れて帰ること自体は構わない」
「今、解除できないのか」
俺が聞くと、男はあっさり首を振った。
「規定がある。術式の解除には記録と証人が必要でね。こちらも商売だ。後で“逃亡した”“盗まれた”と言われては困る」
理屈としては分かる。分かるが、気に食わない。
「なら、所有権は今夜のうちに俺へ移るんだな?」
カイルが再度確認する。
「ああ。書類上はな」
奴隷商はにやりと笑った。
「今夜から、その娘はお前のものだ」
その言い方に、ティアの空気が一瞬だけ冷えた。
だがここで揉めても仕方ない。カイルは紙へ視線を落とし、震える手で署名をした。
リナが連れてこられたのは、その少し後だった。
首輪はついたまま。だが、昼間見た時より目に光が戻っている。
「カイル……」
「ああ……」
彼はその場で膝をつき、リナの肩を掴んだ。
「終わった。いや、まだ全部じゃないけど……とにかく、もう明日の昼までここにいなくていい」
リナの瞳へ涙が浮かぶ。
「ほんとうに……?」
「本当だ」
カイルの声も震えていた。
「遅くなって悪い。でも、間に合った」
次の瞬間、リナはたまらずカイルへしがみついた。
カイルもまた、その体を抱きしめ返す。
その光景を見て、ティアは小さく息を呑み、やがて目元を緩めた。
「……よかったのう」
ぽつりと零れたその声には、心からの安堵が滲んでいた。
リナは涙を拭いながら、ティアと俺へ向き直る。
「皆さんも……ありがとうございました。外の空気って、こんな匂いだったんですね」
そう言って、ほんの少しだけ笑う。
その笑顔は、まだ不安に揺れているくせに、確かに希望を見ていた。
「礼はカイルへ言え。妾たちは少し手を貸しただけじゃ」
ティアはそう言いながらも、声が少し上ずっている。たぶん本気で嬉しいんだろう。
俺は、その横で奴隷商の机に置かれた契約書を見たままだった。
首輪は残る。正式解除は明日。術式の詳細も分からない。しかも元々の取引相手は貴族だ。
嫌な形が揃いすぎている。
「カイル」
俺が呼ぶと、彼は振り返った。
「なんだ」
「一応聞くが、解放した後はどうする」
「どうするって……」
「隠れ先は。後ろ盾は。今夜のうちに街を出る手はあるのか」
カイルの顔から、喜びがほんの少しだけ引いた。
「……明日、首輪を外してもらってから出るつもりだ」
「それじゃ遅いぞ」
俺ははっきり言った。
「今夜のうちに身を隠せ。宿は変えろ。できるなら足取りも消せ。相手が貴族なら、金を払って終わりなんて都合のいい話にはならない」
部屋の空気が、一瞬だけ固まる。
ティアも、リナも、カイルも黙った。
奴隷商だけが、面白そうにこちらを見ている。
「ユウマ」
ティアが小さく名を呼ぶ。
だが俺は視線を外さなかった。
「貴族の予約を潰したんだ。しかも、女の扱いが悪いことで有名な相手なんだろ。なら、なおさらだ」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃないな。首輪の術式が残ってる間は追われる可能性がある。少なくとも、明日ここへ戻るのは悪手だ」
カイルは歯を食いしばる。
数秒、黙っていたが、とうとう堪えきれなくなったのか、声を荒げた。
「分かってるさ!」
その叫びは、怒りというより悲鳴のようだった。
「でも、今助けなきゃ終わりだったんだ! その後のことまで万全にしろって言われても、俺にそんな力はない! それでも、今日ここでリナを連れ出す以外、選べなかったんだよ!」
リナが不安そうにカイルの袖を掴む。
俺は短く息を吐いた。
分かってる。分かってるからこそ、これ以上は言っても仕方ない。
今のこいつに必要なのは、正論じゃない。目の前の希望へ縋る時間だ。
「……そうか」
俺がそれだけ返すと、カイルは顔を背けた。
しばらくの沈黙の後、ティアが恐る恐る口を開く。
「それでも、何もせぬよりはよい」
「そうだな」
俺はそれを否定しなかった。
否定しなかったが、胸の奥のざらつきだけは消えない。
「本当にそれで終わりなら、良いんだがな」
誰へ向けるでもなく、そう零す。
ティアが一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。
あとがき
見て下さりありがとうございます!
手探りながら、自分の好きと読者様の好きが重なるそんな境界線上の物語を目指してます!
続きが気になると思ったら、
評価、ブックマーク、リアクション等
よろしくお願いします!
――誰かの心に刺さる、そんな物語を貴方に――




