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田中あずき 春④

 勇次は山を下りると行くところがあると一人でさっさと走って行ってしまった。残ったあずきたちは顔を見合わせた。日もそろそろ沈み始めていた。守田は二人とも送るよ、と言ったが蓮華とあずきの家の方向はまったく違っていた。

 蓮華が守田の手をぎゅっと握るのが見えてあずきは、はいはい分かってる分かってるという気持ちで「私は一人でゆっくり帰りたいから」と言って二人と別れた。

 帰り道を歩きながら、あずきは惨めな気持ちになった。

 デートという単語に何か期待があった訳じゃない。ただ中谷勇次と一緒に喋ったり歩いたりできる。それだけのことにあずきはどこか浮かれていた。服を選ぶのだって話題を考えるのだって結局は勇次のためだった。

 けれど、終わってみれば勇次と喋った大半が口喧嘩だった。まだそれは良い。

 ――弱いんだったら喧嘩の場に割り込もうとすんな。

 勇次の言葉が浮かんで消える。まったくその通りだと思う。あずきは守田が殴られているのを見ていられずに彼の前に立ってしまった。

 後先を考えない感情的な行動だった。

 あずきはあの場で正しい思考回路を保つことが出来ていなかった。結果、守田を殴る加害者に泣きつき、何をされても良いから暴力が収まって欲しいと願ってしまった。

 あの瞬間、あずきは暴力の家畜だった。そして、そこから救ってくれたのが勇次だった。彼が現れた瞬間、男の子っぽいごつごつした背中を前にして深く突き刺さった事実。

 勇次は私を助けてくれる。

 ピンチに颯爽と現れてくれる。

「あーあ」

 二度目だ。念を押すみたいに刻まれてしまった。

 中谷勇次は私にとってのヒーローだ。

 あんなヤツが私のヒーローかぁ、ヒーローって私にとって憧れなんだけど、勇次に憧れる要素ってどこよ? 風邪を引きそうにないところ? と考えながら歩いていると、後ろから声をかけられた。

 期待などしていない、と考えている時点で期待していた。けれど、相手は守田だった。

「どうかした? 田中さん」

「ううん。何でもない。今私の中にある乙女煩悩を排除しているところ」

「乙女煩悩ってなに?」

「あー、良いから流して流して。で、なに?」

「せっかく一緒に映画を観てすずらんを探した仲だし、連絡先を交換したいなって思ってさ」

 そう言えば、守田と連絡先は交換していなかった。だけど、と思った。

「蓮華ちゃんが怒るんじゃない?」

「あー、言いづらいんだけど、さっき別れたんだよね。不良に絡まれた時にちゃんと助けられなかったのと、ちんちくりん美少女に絡んだのが気に食わなかったみたい」

 はぁ? 思わず声が出た。流石にそれは勝手すぎるだろう。「きっかけは蓮華ちゃんじゃん、ちょっと私が話すから」

「いや、良いから」

「良くない!」

 蓮華に電話をかけるとすぐに繋がった。けれど、話にはならなかった。蓮華は「あずきさんには幻滅しました」と言い出して、こちらの話を聞く意思が一切なかった。「あたしがどれだけ怖かったか」とまるで悲劇のヒロインのような物言いに駄目だこりゃあと思って電話を切った。

 だから言ったのにという目で守田が見ていた。

「ごめん」他に言いようがなかった。「蓮華ちゃんも怖い思いをして、気が立っているんだと思う。だから、少し落ち着いてから話をしたら、ちゃんと」

「良いって、良いって。まぁ、ちゃんと助けてあげられなかったのは事実だし」

 守田がイタズラ小僧のように笑った。「それよりさ、田中さんってすずらんの花言葉って知ってる?」

「え、知らない」

「そっか。じゃあ、もう一つ。田中さんって勇次のことが好きなの?」

 一瞬で顔が熱くなった。

「はぁ? そんな訳ないじゃん!」

「でも、ダブルデートしようってなって勇次を指名したじゃん」

「それはカップルと一緒は気まずいからだよ」

「まぁそりゃあそーだろうけど、別に勇次じゃなくても良いじゃん。入学早々停学した人間を指名するって何かあるって普通考えるよ」

「面白そうじゃない? 入学早々停学した人って」

 あ、私、今最低なこと言った。

 とあずきが内心で後悔したが、守田はとくに気にした様子もなく続ける。

「そーいう理由もあるかもだけど、不良に絡まれた時に思ったんだよ。田中さん、そういうのを楽しめる人間じゃないよな?」

 確かにその通りだった。「でも、中谷くんに興味があったのは本当だよ」

「昔、助けられたから?」

「なっ、」

 あずきの動きが完全に固まって顔を真っ赤にしてしまった。守田はその場でガッツポーズした。

「よっしゃ! 当たった! あれだろ、あずきちゃん。中学ん時に勇次が赤いスポーツカーの運転手に片っ端から喧嘩を売ってた頃に助けた女の子だろ?」

 わぁ、本当にバレてる。

 守田は更に続ける。「当時は眼鏡で地味な感じの子だったのに、あか抜けてて確証が得られなかったわ」

 勇次に助けられた当時のあずきを知っているということは、守田もあの場に居たのだ。確かにスプレーを持ったもう一人が居て、勇次が赤いスポーツカーの運転手を殴った後に、車体に『中谷勇次 参上!』とスプレーで書いていた気がする。それが守田だったのか。

「ずっと疑ってたの?」

「いや、ダブルデートしている最中になんとなく気になったレベル」

「そっか」

「でさ、助けてもらったあずきちゃんは勇次にどんな用事があったわけ?」

 改めて聞かれると答えに窮してしまう。「別に、用事があった訳じゃないよ」

「良い奴だから仲良くなりたかった?」

「勇次を良い奴と呼ぶのに、凄い抵抗がある」

「同意。じゃあ、助けてもらたお礼が言いたかったとか?」

「あ、えっと、」

 守田が噴き出すように笑った。

「分っかりやすいなぁ! おい! あずきちゃん、乙女か! つーか、勇次に惚れてる女の子がいるとか、すげぇ――――――――ヘコむ!」

 あずきは守田のすねを蹴っ飛ばした。「違うから! 惚れてないから! ただお礼が言えてなかったから今日、言えたら良いなと」

 守田は妙な奇声をあげ、すねを抱えて蹲っていた。

 あ、ごめん、と思ったが、口にはしなかった。

 震える声で守田が言う。

「お、……、お礼、を言うって思いつつ口喧嘩ばっかりして、更に言いにくくなりましたってオチでオッケー?」

「えっと、その、はい」

「最初に戻るけど」と守田は涙目で立ち上がる。「あずきちゃん、すずらんの花言葉って知らないんだよね?」

「うん」

 と頷くと守田がニヤっと笑った。

「日本では『再び幸せが訪れる』なんだけど、フランスだと『ずっと前から好きでした』なんだって」

 ん? 

 再び幸せ? 

 前から好き?

 …………

 ……

「はぁあああああぁああぁあああ?」

 ライブの時よりも感情の籠った絶叫だった。

 守田は笑いながら続ける。

「フランスでは五月一日、メーデーの日ってのがあって、その日は愛する人や大切な人にすずらんを贈るっていう習慣があるんだと」

 今日は五月五日。こどもの日。セーフ。

 え、セーフだよね?

 守田は回想でもするように手を合わせて空へ視線を向ける。

「いやぁ、あずきちゃんの手から勇次へ手渡されるすずらんは綺麗で実に素晴しいシーンでしたねぇ」

 アウトだった。守田に知られた時点で完全にアウトだった。

 更に言えば、勇次にすずらんを渡した時に触れ合った指先の熱さなんかを思い出している乙女煩悩な自分は充分アウトだ。

「まさに、告白のようじゃないですか」

 告白? 私が勇次に? 

 あずきはこの瞬間まで自分が誰かに告白をするという想像をしたことがなかった。バレンタインに男の子にチョコをあげたことはないし憧れの先輩や大人なんて言うのもいなかった。

 だから、あずきが初めて恋愛的に男の子を見たのは不覚にも勇次だった。ヒーローで初恋の人。

 少女マンガの読み過ぎだな、とあずきは自分の思考回路にツッコミをいれた。だいたい、その相手があの勇次だ。デリカシーのない、というか今日一度もあずきの名を呼ばず、オマエや唐揚げ泥棒と言い続けた相手だ。そんなヤツを好きになる訳がない。

「まぁ実際、勇次がそんな回りくどい告白をされて気づくはずはねぇんだけど」

 守田がへらへら笑って言った。

 その通りだった。あずきは勇次に告白したつもりはなく、勇次もまたあずきに好意を寄せられているなんて想像さえしていないだろう。

 あれ。なんか、それはそれでムカつくな。

「でさ、あずきちゃん」

 すでに随分前から自然と守田は「あずきちゃん」呼びをしていたが、あずきは指摘する気力もなかった。

「なに?」

「俺と協力関係を結ばない?」

「協力関係……」

「俺はあずきちゃんが勇次にお礼を言えるように協力する。で、あずきちゃんは俺に新しい彼女ができるように協力する。どう?」

 あずきは少し考えてみる。

 勇次は私のヒーローだと思った。けれど、それとは別に顔を合わせれば彼を「喧嘩ばか」とあずきは言うだろう。彼が喧嘩をすれば止めようとするかも知れないし、ダサい格好をしていたらダサいと言うと思う。

 その上で勇次にちゃんとお礼を伝えられるだろうか?

 彼が誤解することなく、まっすぐ感謝を伝えきることがあずきにはできるか。

 うん、無理だ。少なくとも今は想像さえできない。

「私が昔、助けられたってことを言わないでくれるなら良いよ」

「よっしゃあ!」守田は拳を握る。「あのね、あずきちゃん! 俺、次はギャル系のお姉さんが良いんだよね! 何つーのフェロモン? ムンムンな感じで!」

 性欲全開の発言にあずきはうんざりした。

「協力関係はこれまでだね」

「冗談です! 嘘です。ごめんなさい!」

 はぁ、とあずきはため息を漏らして、少し楽しい気持ちになっている自分に気がついた。先ほどまで感じていたはずの惨めな気持ちが確実に薄れていた。

 それは守田と喋ったからかも知れない。彼には場を和ませ相手をリラックスさせる力がある。

「守田くんにとって正義ってなに?」

 勇次に聞けなかったから、守田に聞こうと思った訳じゃなかった。純粋に守田の正義が何か尋ねてみたかった。

「正義? え、なに、それに答えたら、女の子紹介してくれんの?」

「いや、普通に疑問で」

「ふーん。正義って少年漫画みたいなこと言うんだなぁ。でも、上手い答えなんて浮かばねぇな」

「上手い答えはいらないから。本音を教えて」

「本音」言って守田が口の端を緩めた。「俺の正義は、俺が笑っていることかな」

「どういうこと?」

 守田は少し照れ臭そうに視線を逸らして口を開いた。「俺の家って自営業の喫茶店じゃん? で、息子は俺だけだから店が存続するってなったら俺が継ぐ訳なんだよな。一家の大黒柱っつーのが俺の将来なんだよ」

「なるほど」

「大黒柱ってのは中心で支えている一番太い柱だから不安定でいる訳にはいかねぇんだよな。揺るがず機嫌よく居ること、それが俺の正義なんだ」

「格好良いね」

 素直な気持ちだった。

「マジで! あずきちゃん! ギャル系のフェロモン美人だからね! 頼みますよ!」

「私の気持ちを返せ」

 また一つ勇次に尋ねてみたいことが増えた。

 勇次。貴方にとって守田裕って、どういう存在?


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