宮内浩 夏⑨
翌日、あずきに頼みごとをしようと、昼休みに彼女の席へ近づいていくと「私も少し話がある」と言われた。外の自販機へ行こうとなって、二人で肩を並べて階段を下りた。その間、会話はなかった。
自動販売機で浩は缶コーヒーを、あずきはオレンジジュースを買った。あずきは二口ほど飲んで、浩をじっと見つめた。
「なに?」
「宮内くん。葵と付き合うの?」
ん?
突然の話題に浩は咄嗟に言葉が出てこなかった。微糖のコーヒーを口の中に馴染ませてから口を開いた。「付き合ってないよ」
「知ってるよ。付き合うつもりなのか、って聞いてるの」
あずきはまっすぐ浩を見つめていた。
常に前へ進む田中あずき。
まさにその通りな物言いだった。浩は言葉を探したけれど、結局は思ったことをそのまま口にした。
「よく分からない」
「そっか」あずきは変わらず続ける。「宮内くんはあのラクガキをした人間が誰か分かっているんだよね?」
「予想は。多分、間違ってないと思う」
「その左腕の原因は? 葵なんだよね?」
「間接的には深水さんが原因と言えるかも知れないけど、事故みたいなもんだよ」
あずきは軽く吐息を漏らして、初めて視線を上に逸らした。
「私じゃ駄目だったんだなぁ」
声が少し震えていた。「選ばれたのは宮内くんだった」
何に? と問うのは間違いだった。浩は今あずきよりも深水葵の事情に深く関わっている。周囲の人間から見れば、選ばれたと思われてもおかしくなかった。
「偶然だよ。それに、だからって深水さんが田中さんのことを大切に思っていないって訳じゃないよ」
「分かってる。でも、やっぱり悔しい」
「田中さんは何ていうか、本当にヒーローみたいだね」
口にしてみて、浩は本当にそう思っているんだと気が付いた。
「ヒーロー? 私が?」
「常に人を助けようと努力している」
あずきは皮肉気な笑みを浮かべた。「助けようとしたって助けられなきゃ意味ないよ」
「そんなことないよ」
思った以上に強い響きになった。
あずきが浩を見て、僅かに口元を緩めた。
「そうだね、うん。その通りだ」と言って、手でグーを作って浩に差し出した。
「後は宮内くんに任せるから。葵を……私の親友を頼んだよ」
息を吸って吐いた。
「頼まれた」
あずきが差し出したグーに拳を合わせた。
浩が葵に選ばれたのは偶然だった。少なくとも菫が浩を襲ったのは男だからだし、道子さんから話を聞いたのも駄菓子屋に通っていたからに過ぎない。全ては偶然。パズルのピースが一つ一つ奇妙に繋がっていった結果でしかない。
けれど、過程がどうあれ浩は今一人の女の子の味方でいる。更に、その女の子の母親に期待していると言われ、親友に頼んだよと言われた。
四肢が吹き飛んでも、やり通すしかないじゃないか。
お兄さんの言葉が浮かぶ。
――周囲の人間が価値あるって言った以上あんだよ。少なくとも期待されてんだよ。だから、まぁその人間が信用、信頼できるのなら信じてやってみりゃあ良いんだよ。
宮内浩は浩の価値をここで示さなければならない。
葵は浩が書いた小説によって救われたと言った。それは跳び箱の前に置かれた踏切板のようなものだった。葵は踏切板がなくとも跳び箱をちゃんと飛んだはずだ。浩の小説があったから、偶々早く綺麗に飛べたに過ぎない。
そして、今回の浩の役割もそれと変わらない。葵は浩の存在がなくとも、ちゃんと幸せになるだろう。ただ、浩がいることで上手く飛ぶ。
浩が書いた不完全な小説たちが葵にもたらしたことを浩は自身の行動によってもたらす。そのためにやれることは何でもやる。
◯
朝、登校し教室へ向かう途中の廊下で声をかけられた。振り返ると、大森先生が笑みを浮かべて立っていた。作り物みたいな嫌味のない笑みだった。
「宮内くん、今日の放課後、暇かい?」
「何でですか?」
「ドライブに行かない?」
「そうやって僕を車内に連れ込んで脅して財布を奪うつもりですか?」
「俺は、里菜さんみたいな鬼畜じゃねぇーよ」
浩も大森先生とは連絡が取りたくて、あずきに連絡先を聞いていた。だから、丁度良かった。大森先生と待ち合わせの場所と時間を簡単に打ち合わせした後、「深水葵は元気?」と大森先生は他人行儀に言った。
それに浩は意味もなく腹が立った。「普段通りですよ。深水さんなら、そうすることを先生は知っているでしょ? 身内なんだから」
「……身内、ね」
と呟いた後「身内のひいき目を抜きにしても、あの子は良い女に育つ。一緒に居なかったからかも知れないが、本当にそう思うよ」と言った。
そして、大森先生は浩を射殺する勢いで睨んだ。「だから、適当な理由で手ェ出したら。お前の体中に鉛筆の芯を埋め込むからな」
「どんな脅しですか……」
「うるせぇ! 良いかっ? 葵に手ェ出す時は言えよ! 意地でも邪魔してやる!」
「大人げなさすぎますよ」
「知ったことかぁ! あぁちくしょう……! 娘を持つ父親の気持ちなんて、知りたくなかったっ!」
大森先生の叫びは朝の廊下にしっかりと響き渡っていた。
◯
「夏休みだ! 水着だっ! 浴衣だっ! アバンチュールだ!」
昼休みに入り昼食を終えた守田に連れられてトイレへ向かう最中だった。守田の叫びもしっかりと廊下に響いていた。夏になると男はみんな叫びたくなるのだろうか?
ということは、僕も何か叫ばないといけないのか?
「なぁ浩? 日焼けした女の子って最高だよな! 水着を着た時にそれが露わになる感じ? もう何だろ? 貴女は女神ですか? ってなるよな!」
「テンション高いなぁ。守田くん」
試験を終えた浩たちが待ち侘びるイベントは夏休みだけだった。教室でも夏の予定が話題の半分以上を占めていて、何となく漂う雰囲気も浮足立っていた。
高校に入ってはじめての夏休みだし、それは仕方がないことなのだろう。
「おいっ! 浩。彼女持ちだからって余裕ぶってんじゃねぇーぞ! あれか? 童貞を捨てると余裕が拾えんのか、コラァ」
「いや僕、彼女いないから」
「あん? じゃあ、童貞だけ捨てたっつーパターンか? それはそれで天誅だぞ。この野郎」
「いやいや、童貞です。本当に」
男子便所に入り並んで用を足す。
「本当だな? でもなぁ、浩はあれだろ? もう予約済みなんだろ? 童貞卒業予約されてんだろ? テレビの予約録画みたいに日にちも時間も決まってんだろ、どうせ」
「いやいやっ! というか何そのテンション? どーすればいいの? って言うか、どうして欲しいの?」
と浩は叫んだ。
「分かってんだろ? 浩よ。眠る少女のメンツを誘って夏を遊び倒すぞ。そのために、手伝ってもらうからなっ!」
「えー。でも、夏休み中にライブが決まったらしいから練習もあるだろうし、あんまり誘っても迷惑になるんじゃないの?」
ライブの予定を聞いたのは葵からだった。メールでライブの誘いをもらったのだった。
「バカヤロウっ!」と守田が拳を握る。「学生の本分は遊ぶことだろーがっ! 女子に娯楽を提供できずして真の男子と足り得るか? 否! 断じて否だ!」
「娯楽、提供? 否?」相変わらず、守田はテンションが上がると変な喋り方になる。「んー、だいたい田中さんとか僕らが誘ったからって来てくれるもんなのかな?」
勝手なイメージだけれど、あずきは男子と、それも集団で遊ぶことを得意とはしていないように見える。
「問題ない。問題ないぜ、浩。こちらにはジョーカーがあるからな」
「それって……」
「当然、中谷勇次だっ! こういう時に活躍してもらわなくては困る!」
確かに中谷勇次が来るのであれば、あずきは不機嫌な顔をしながらもイベントに来るだろう。その理由を勇次が察することはないのだろうけれど。
◯
大森先生との待ち合わせ場所は、道子さんから話を聞いた日に守田とお兄さんと喋ったコンビニだった。浩は学校が終わると、その足で真っ直ぐコンビニへ向かい店内でカフェオレとチョコレートを買った。コンビニの外の隅にある筒状の灰皿の横でチョコレートをかじり、カフェオレを飲んだ後は文庫本を読んだ。
ふと、顔を上げると大森先生が横に立って、携帯をいじっていた。
「あれ?」
「ん? 気づいたか?」と大森先生が浩を見た。
「なんで黙って横にいるんですか?」
「いや、集中しているようだったからね」
「そうですか?」
「というか、片手で器用に読むなぁと感心していたんだよ。そんなに熱心に本を読んで、作家にもでもなりたいのかい?」
からかうような物言いにどこか安心した。「なりませんよ」言って、文庫本を足元のスクールバッグに収めて続けた。「大森先生は昔、漫画を描かれていたんですよね?」
「あー、うん。描いてたよ」
「今も描いたりしてるんですか?」
「いや、今はまったくだね」
「どうして漫画を描こうと思われたんですか?」
んー、と言いつつ、手に持った携帯をスーツのポケットに収めた。「親戚の兄さんが趣味で漫画を描いててね。それが面白かったのと、兄さんの彼女さんがすげぇ可愛くて。漫画描いたらモテるかなぁって思ってな」
「モテました?」
「葵のお母さん、ほたるにはモテたな。それが理由じゃないけど」
「良かったですね」
「ああ、良かったよ」
と大森先生は頷いて「じゃあ、ドライブしようか」と言って歩き出した。
「ちなみにドライブって何処へ行くんですか?」
助手席に乗り込んでから、浩は尋ねた。大森先生はエンジンをかけながら、何でもないことのように言った。「深水家」
一瞬で車から下りたくなったが、大森先生がアクセルを踏んだので閉じ込められてしまった。
「深水ピアノ教室ですか?」
せめてもの抵抗のつもりで浩は言ったが、大森先生はあっさりと否定した。
「もちろん、違う。本家の方だよ」
ちくしょうめ。深く深呼吸をしてから、口を開いた。
「立派な日本庭園があるんでしたっけ?」
「あー、あるな。あれは中々のものだよ。見たことあんの?」
「話で聞いたことがあるだけです」
「なるほど」
言って、カーオーディオの再生ボタンを押した。流れはじめた曲に覚えがあった。「イナズマ戦隊?」
「ん? そーそー。これは『いばら道』だな。あ、そうか。宮内くんは一郎さんのライブに来てたんだっけ?」
「一郎さんって、田中一郎さん?」
「そーそー。去年のクリスマスのやつ」
「はい。行きました」
「その時、俺もギター弾いてたんだぜ? 気づいた?」
大森先生のことを美術部員に尋ねた時、学園祭にドラキュラの恰好をしてギターパフォーマンスをした話があったし、守田も似たことを言っていた。だから、ライブハウスでギターを弾くのは意外ではなかった。
問題は一郎さんとの繋がりだった。あずきが大森先生と学校外で面識があると言っていた。しかし、繋がりは母親ではなかったのか?
「まったく気づきませんでした。というか一郎さんの『朝虹は晴のちに雨』は、同じ学校の軽音部で集まったとライブの時に言ってたような気がします。大森先生は一郎さんと同じ学校だったんですか?」
「よく覚えてんなぁ」大森先生は嬉しげに口元を緩めた。「さすが一郎さんの路上ライブに熱心に通う奇特な高校生」
そんな風に言われているのか。確かに一郎さんの歌は決して褒められるものではないから、仕方ないのかも知れない。が、なぜか少し悔しかった。
「んー、そうだな」と大森先生は言葉を探すような間を取ってから言った。「俺は一郎さんとは別の高校なんだけど、それこそ漫画を描いていた親戚の兄さんが、その軽音部の顧問だったんだよ」
「顧問?」
「そーそー。で、まぁ。あんまり言うことじゃないけど、親戚の兄さんが亡くなっちゃってね。事故だったんだけど、遺書が出て来てさ。その中に自分が描いた漫画は全て生徒の田中一郎にあげて下さいって言う一文があったんだよ」
「漫画を?」
「そうなんだよ。なんで俺じゃねーんだよっていじけたんだけど、まぁ兄さんがそう言うんだから、仕方ないよな。で、そん時に一郎さんと知り合って、それから仲良くさせてもらってんだよ」
「なるほど」




