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宮内浩 夏⑧

 駄菓子屋を出て、ほたるさんに連れられて行ったのは「コーヒーショップ・香」だった。店内に入ると名前の印象とは異なるカレーの香りを感じた。

「ここのカレーは結構人気なのよ。もちろん、コーヒーも美味しいんだけどね」

 と言って、ほたるさんはテーブル席についた。浩も向かいの席に腰を下ろし店内をぐるりと見渡したが、こんなにも漫画のある喫茶店は初めてだった。そんな浩の視線に気付いたのか、ほたるさんが口を開いた。

「すごい漫画の数よね。少年漫画とか、ちょっと男の子っぽくて本屋で手に取りづらい漫画はここで読んでるの」

「へぇ」と頷きつつ、浩はほたるさんが一人で少年漫画を読んでいるシーンを想像して笑ってしまった。

「ん? なに?」

「いや、僕の勝手なイメージなんですけど。ほたるさんって部厚い海外の小説とか読んでそうだったので……」

「そう? 私、結構ラブコメ漫画が好きなんだけどなぁ」

「ラブコメですか?」

「うん。ラブひな、プリティフェイス、いちご100%、藍より青し……、うーん。後、なんだろ?」

「確かに女性じゃあ、買いにくいタイトルかも知れませんね」

「それと葵に読んでいるのがバレると気まずいかなって思っちゃって。だから、ここは私の隠れ家なの」

 言って、ほたるさんは得意げな表情を浮かべた。店員がお冷と共に注文を聞きに来て「コーヒーを二つ、で良いかな? 宮内くん?」とほたるさんに聞かれ浩は頷いた。

 コーヒーが運ばれてくるまで、ほたるさんは漫画の話を続けた。普段の生活の中で漫画について喋られる人がいないのだろう。ほたるさんは少年のような無邪気な表情さえ浮かべていた。

 漫画の話が一段落ついた頃にコーヒーが運ばれてきた。カップに触れブラックのまま飲んで、ほたるさんは少し皮肉気な笑みを浮かべた。

「葵の父親も昔、漫画を描いていたんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。絵が凄く綺麗でね。話も面白かったなぁ。それでね、お返しって言うのも変だけど、その漫画をイメージしたピアノ曲を私が作って聴いてもらったりしてね」

「へぇ」と浩は曖昧に頷いた。

「宮内くんも葵と似たようなことをしてたんでしょ?」

 照れくさかったけれど、誤魔化す訳にもいかず頷いた。

「葵が作った曲を聴いたよ。あずきちゃんの声も良かったし、メロディも歌詞共に、うん。つたなさはあるけど、丁寧に作ってるのが伝わってきて好きだった」と言ってほたるさんはコーヒーを口にした。「今度、宮内くんの小説も読ませてね」

「良いですよ。素人が書いた未熟な作品ですけど」

「そういう未熟なものだからこそ、すんなり心の中に入る作品って言うのが時々あったりするんだよ」

「そういうものですか?」

「んー」とほたるさんは子供っぽい笑みを浮かべて「分かんない。それっぽいことを言ってみただけ」

「なんですか、それ」

 浩も思わず笑ってしまった。

「単純に私は宮内くんのことを知りたいから、素人の書いた未熟な作品でも読んでみたいんだと思う。でも、葵はそうじゃなかったんだよね」

 そうだった。多分、それが始まりだった。

「葵は宮内くんを知らない状態で、君の小説を読んで惹かれて夢中になった。それは本当に凄いことだよ」

「ほたるさんは葵の父親の漫画を読んだ時、どうだったんですか?」

「んー」とほたるさんはしばらく唸ってから言った。「分かんないなぁ。私は好きになっちゃた後に彼の漫画を読んだから」

「なるほど」と頷いた後に、好奇心が込み上げてきた。「僕もその漫画、読んでみたかったですね」

「あら。頼んでみたら? 意外とすんなり読ませてくれるかもよ?」

 何でもないことのようにほたるさんが言った。

「いや、僕。深水さんのお父さんを知りませんよ?」

「知ってるでしょ?」

「え?」

「宮内くんの通っている学校に大森鏡って先生がいるでしょ? 彼が葵のお父さんだよ」

 は? 

 脳みそを思いっきりトンカチでぶん殴られるような感覚だった。

 少し考えれば分かることじゃねぇか! 

 と何故か、頭の中の守田裕が叫んだ。

 まったくその通りだと頭の中の浩が頷いた。

 あのラクガキ。菫に脅された時に現れた大森先生。

 少なくとも大森先生は何か知っている口ぶりだった。葵に執着する菫との会話を考えれば疑問に思うべきだった。大森先生が深水家の関係者であることは明白だったのに……。

「最近まで葵も知らなかったけどね」

 浩は混乱する頭で疑問を口にする。「いつ、深水さんは知ったんですか?」

「宮内くんじゃないの? 受験の会場で音楽プレイヤーを拾ったのって」

「そうです、僕が拾いました」

「その音楽プレイヤーを葵に聴かせたんでしょ? で、気づいちゃったのよ」

「何にですか?」

 ほたるが目を細める。

「岩田屋高校にお父さんがいるってことに」

 分からなかった。「どういうことですか? あの音楽プレイヤーを落としたのは誰で、いや、話の流れ的には……」

 そう言えば、大森先生も受験会場に居た気がする。監督役の先生として……。そうか。音楽プレイヤーを落としたのが生徒だとばかり思っていたけれど、先生である場合もあったのか。でも、じゃあ、その中身は……。

「そう、宮内くんが拾った音楽プレイヤーを落としたのは大森鏡。中身は私が彼の描いた漫画をイメージして作ったピアノ曲で、小さい頃の葵に子守唄として歌ったオリジナルソング」

 なるほど。

 駄菓子屋で浩が差し出した音楽プレイヤーの曲を聴いた時、葵はどう思ったのだろう? 母がオリジナルで作ったと言うピアノ曲が流れてきた、その瞬間……。

 すぐに気付いたのだろうか? 受験会場で拾ったという浩の言葉だけで岩田屋高校に自分の父親がいる、と――。

「葵が音楽プレイヤーを私の所に持ってきた時、私は本当に驚いちゃったよ」とほたるさんは言った。「私がオリジナルの曲を作った時はカセットテープとかの時代だし、どうやって音楽プレイヤーに移したんだって。というか、よくもまぁ今の今まで持ってたなぁって」

「すみません。混乱しているので、一から尋ねても良いですか?」

「良いよ、何でも聞いて」

 本当に根本的なことから始めることにする。「どうして、ほたるさんは大森先生と結婚しなかったんですか?」

 的確な質問ではないことはすぐに分かった。

 けれど、ほたるさんは気にした様子もなく答えてくれた。

「葵ができた時、私は学生だったし、鏡には母親が決めた許嫁が居たのよ。それに鏡は深水家と関わりがない訳じゃなかったから、私が関係を持って、しかも妊娠しちゃったって言うのは両家に泥を塗る結果になるのは目に見えていたの」

「大森先生と深水家の関わりって?」

「大森栄子って写真家の息子が鏡なのね。それで深水家って立派な日本庭園を持っていたの。それを撮りに何度か栄子さんが深水家を訪ねてきて、カメラマンの助手として息子の鏡も同行していたの」

「今も関わりは続いているんですか?」

「続いてるよ。栄子さんの個展なんかの誘いもあるし、深水家の誰かのコンクールやライブにも誘っているみたい」

「そう、ですか……」

 つまり鏡と菫は家の関わりで知り合っていた。「菫ちゃんは大森鏡が葵のお父さんだと知っているのでしょうか?」

「どうだろうね。でも、話を聞く限り鏡は何かを知って動いているみたいだね。この時期に菫が自由に動けているのにも理由はあるだろうし」

「ほたるさんは大森先生に事情は説明したんですか?」

「岩田屋町に引っ越してきた時に少し喋ったね。実は葵が二歳か三歳の時に、鏡にバレちゃったのよ。私が彼の子を妊娠して生んだこと。でも、関わらないで欲しいってお願いしたの。少なくとも深水家にいる間で鏡が干渉してくるのは迷惑でしかなかった。それに、その頃に鏡も結婚したみたいだったしね」

 大森先生は葵の父親である自覚は最初からあった。あのラクガキを大森先生が書くメリットはない。消去法で菫がラクガキをしたことになる。

 何故? と問うのはおかしい。不幸にする契約があるのだから。しかし、なぜあの時期だったのか? 少なくとも葵が大森先生が父親かも知れないと思ったのは最近だ。更に、不倫していると書かれることによるダメージは葵よりも大森先生の方に比重は向いている。

 本当に葵を傷つけたいのなら、わざわざ「深水あおい」という「眠る少女」の名称を使う遠回しな記述をする必要もない。つまり、菫は……。

「宮内くん。私の方からも少し尋ねても良い?」

「はい」

「菫のこと葵から聞いたの?」

「聞きました。深水家のことも含めて」

「そっか」と言って、ほたるさんは背凭れに体重を預けて天井を見上げた。浩の視線からではほたるさんの表情は窺えなかった。

 浩はぬるくなったコーヒーを飲んだ。十秒か二十秒が経って、ほたるさんの口が動いた。「私はね、期待しちゃうんだ、君に。葵と菫を救ってくれるんじゃないか、って」

 小さな声だったのに、一音一句逃すことなく聞き取れた。

 期待ですか? と浩は言った。

「そう、期待」とほたるが浩をまっすぐ見据えた。「葵は岩田屋町に引っ越してきてから誰かに深水家のこと、菫のことを話したりしなかった。多分一番仲の良いあずきちゃんにさえ喋っていないと思う」

 そうかも知れない。ラクガキの犯人を捜す際、あずきは葵が話したがらない過去を彼女が望まぬ形で知ってしまうことを怖れていた。それは、あずきの中で葵の過去の話は慎重に扱うものだと認識していたからだろう。

「葵はね、いや。菫も、そして私も、臆病なの。幸せになることに慣れていない。あずきちゃんみたいに真っ直ぐ前へ進むようにはできていない。だからこそ、私は宮内くんのような人に期待しちゃうのよ」

「僕に?」

 どうして?

 ほたるさんは言う。「君はただ隣に居ようとする。引っぱったり道を指示したりせず、まず同じ立場に立とうとしてくれる。それは君の場合、死者に対してもそうだったんでしょ?」

 死者と言われて、浩はすぐに思い至らなかった。姉だ、と遅れて気づき彼女が使わなくなったベッドで眠った二週間を思った。浩はあの時、姉と同じ立場に立とうとしたのだろうか?

「分かりません。ただ、僕は姉にできることをしようとしただけです」

「それで良いんだと思う。ううん、世間的には良くないかも知れないね。でも、幸せに臆病な私たちのような人間にはね。隣に居てくれて同じ方向を見てくれている。それが救いになって進める瞬間があるんだよ」

 幸せに臆病。隣に居て同じ方向。

 とほたるさんが言った言葉を頭の中で反響していると、柔らかな感触があった。ほたるさんが浩の頭を撫でていた。

「あの子を眠りから覚ました宮内浩くん。私は君に期待しているよ」

 なんのことか、よく分からなかった。けれど、頷かない訳にはいかなかった。


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