深水葵 春①
葵という花は太陽に向かって咲くのよ。
母は葵を抱きしめる度にそう言った。深水家での生活で母と葵に与えられた部屋は物置として使われていた地下室だった。葵は朝に目覚めても太陽の場所は分からず、毎日のようにゆっくりと太陽を見上げたりはしなかった。
太陽に対しての認識が希薄だからか、葵は母の言う太陽に向かって咲くという意味も深く考えていなかった。ただ母が抱きしめてくれる柔らかな感触を思い出す時、頭の片隅に模様のようにして、その言葉はあった。
葵は母の腕と別に甘えられる柔らかなものがあった。それは薄いベージュ色の毛布だった。母が仕事や家族の争いによって部屋に下りてきてくれない夜、葵はどんなに熱い夏の日でも毛布を抱きしめなければ眠ることはできなかった。
深水家を母と共に出て行く時、葵が持って行きたいと言ったのもそれだった。毛布の端のパンの耳のような部分の幾つかが裂けて中のものが見え、全体的にも目立つ黒い染みがあった。それでも葵にとって母の次に信頼できるものだった。
岩田屋町での生活で、最初にぶつかった違和感は太陽だった。
目を覚ますと部屋がやけに明るくて昨夜見た部屋とは様子が変わって見えた。もしかすると葵自身も目覚めと共に何か変わってしまったかも知れない。そう考えると葵は怖くなった。
遠慮も容赦もない太陽が常に頭上で燦々と燃えている。その事実が朝、目を覚ました葵を落ち着かない気持ちにさせた。目を瞑って布団にもぐり、暗闇を探した。結果、行き着いたのは押し入れだった。そこには母の次に信頼できる薄い毛布もあった。葵は母に頼んで押し入れの中で眠るようになった。
目を覚まして押し入れの襖を開ける時、葵は一日で一番の勇気を必要とした。部屋に出て窓を見て曇りや雨だった時、葵は安堵した。ずっと太陽が昇らなければいいのにと思った。そうすれば葵の朝はもっと平和で、余裕のあるものになるのに、と。
学校での生活は深水家の頃と同様の態度で問題なかった。礼儀正しく物静かに。必要な会話は最小限に。当然、友達はできないが、葵はそれを気にしたことはなかった。友達や大きな声、笑顔と言ったものは深水家から離れた葵には変わらず無縁のものだった。
少なくとも葵はそう考えていた。
問題があるとすれば、家での生活だった。深水家は食事は持ち回りで作ることになっていたので、母も当然料理はできた。ただ、それが毎日だった訳ではないし、スーパーで食材を自由に買える状態でもなかった。
最初の一週間は量が多すぎて、二人では食べ切れなかった。次の一週間は和、中、洋と色んな料理が試された。毎回、凝ったものが出てきて、そのどれもがとても美味しかった。キッチンには溢れるほどの香辛料や調味料が置かれて二度と使われないだろうものも、そこには含まれていた。
更に次の一週間で母の好奇心とネタが切れ、葵に食べたいものはあるか? と尋ねるようになった。葵は自分に好物というものがないことに気が付いたが、その場ではカレーと答えた。毎日コロコロと種類の変わる料理に葵は疲れていた。
母はカレーねと笑った。
その時、ふと思った。母はこんなに無邪気に笑う人だっただろうか? 更に数日が過ぎた頃、葵の違和感は確信に変わる出来事があった。
母が声を出して笑ったのだ。
まるでテレビの中の人のようだった。葵はその笑い声によって母が遠い別の世界へ行ったのだと感じた。今までの葵の世界では声を出して笑えば殴られるし、それが当然だと思っていた。
呆然とした葵に対し、母は「笑っていいんだよ」と言った。許可された。ならば笑わなければならない。自然とそう思った。
正座させられた時、もう良いと許可されたら、すぐに立ち上がらなければ怒られた。怒られるのは嫌だった。葵は笑おうと思ったが、どうすれば良いかさっぱり分からなかった。母がニコニコと笑った。怖かった。母と同じように笑えない自分が怖かった。
母が待ってる。早く笑わなくちゃ。
早く、早く、早く……。
なぜか、その瞬間、葵は自分が世界で一人ぼっちだと思った。深水家では一度も感じなかった感情だった。孤独。葵は初めて一人になった。
「葵?」と母が呼んだ。「なんで?」
なんで? え?
気づけば葵は泣いていた。手で頬を触って確かめた。葵は間違いなく泣いていた。どういう涙なのだろう? 練習が辛い時? 正座で足が痛い時? 叱られる声が怖い時? どれとも違っていた。最も近いのは薄い毛布に顔を埋めて帰って来ない母を待つ時の涙だった。
しかし、これほど激しいものは初めてだった。
うわぁあん。あぁあ……あ。あぁああああ。んあぁああ……。あぁあ……。
母が葵を抱きしめてくれた。「葵っ! ごめん! ……ごめんね。今まで本当に、ごめん」
どうして母が謝っているのか分からなかった。何も分からなかった。まるで生まれたての赤ん坊だ。ばたばたと振る手が母の胸や肩を無遠慮に叩いた。自分の体の制御ができなかった。それもまた初めての経験だった。
葵はその日泣き疲れて眠った。しゃっくりのような胸の辺りの痙攣と、鼻をすする動作が重なって忙しい体をよそに葵の意識は静かに途切れていった。
◯
目を覚ますと太陽が部屋の中に差し込んでいた。けれど、葵はそれから逃れようとはしなかった。柔らかく甘えられる薄い毛布を抱き、日が差し込む窓を見つめた。
葵はその日から押し入れで眠らなくなり、代わりに楽器の演奏をはじめた。ギター、ベース、ドラム……。
学校が終わると家に帰ってきて部屋にこもって楽器を演奏した。音の中に籠れば余計なことを考えなくて済んだ。
葵と母の間にある深く越えがたい溝。
首輪のように繋がれたまま離れられない深水家の思想。
母の言葉が蘇る。
――葵という花は太陽に向かって咲く。
太陽に向かえば、毎日葵の中に溜まる叫びだしたくなるような不安は消えて無くなるのだろうか。けれど、あんな理不尽で遠慮のない大きなものに向かえば葵は自分が壊れるような気がした。
壊れたものは元に戻らない。
葵はそれが怖かった。
怖いものを前にした葵の選択肢は二つだった。無視するか、耐えるか。しかし、そんな葵の前に三つ目を提示する女の子が現れた。
田中あずき。
その名前を最初に見た時、平凡な名だと思った。
中学二年に上がって同じクラスになったあずきは厚い眼鏡をかけていて、目立たない女の子だった。クラスのグループにも属していたけれど、熱心に友達を作っている訳でもなかった。
葵とあずきがまともな会話を交わしたのは合唱祭の練習が始まった頃だった。あずきは何でもそつなくこなす器用な部分があって、よく学校の面倒事を押し付けられていた。その一環だったのだろう。あずきは合唱祭でソロを任された。
何でもそつなくこなせるから練習や努力が必要ない訳ではなかった。練習や努力をしているから何でもそつなくこなせるのだった。
そんなあずきがソロの練習場所に選んだのは「深水ピアノ教室」だった。土曜日の夕方、母に呼び出されてレッスン教室へ行くと田中あずきが居て、葵の顔を見ると深々と頭を下げた。
「お世話になります」
その姿勢は同級生には見えなかった。
「私は何もできませんけど」
言って、葵は手を差し出した。顔を上げたあずきがその手を取った。
それから葵とあずきはレッスンが終わると、母が淹れてくれたお茶とお菓子を挟んでお喋りするようになった。葵があずきと話していると母が妙に嬉しそうにしてくれていた。毎週土曜日だけのお茶会を葵は最初、母のために参加していた。
けれど、合唱祭が来週に迫った最後日のレッスンで、葵はこの時間が終わることを惜しく思った。
母の誘いであずきと共に夕食を囲んだ。シーフードカレーだった。もっぱら母とあずきが喋っていたが、ふとした隙間に葵が口を開いた。
「田中さんは自分が変わっていくのを怖いと思ったことはないの?」
ずっと聞いてみたかった。あずきは変化することに躊躇がない。合唱祭のソロだけじゃない。ささやかだけれど、確かな変化をあずきはしっかりと受け止めているように見えた。それは同時に他人を受け入れていると同義に思えた。
「お父さんが言ってたことなんだけど」とあずきは言った。「人生は木みたいなものなんだって。毎日、観察しても木は成長しているように見えないけど、確実に成長しているんだって。変わらないものなんてない。どんなにそう見えても。だから、変わることは正義なんだって」
あずきがにっこり笑った。「正義を怖いとは思わないでしょ?」
葵にはよく分からなかった。正義が何かということさえ。けれど、変わらないものはない、という言葉は深く葵の中に突き刺さった。
「じゃあ田中さんは怖いものを前にした時、どうするの?」
「もちろん戦うよ」
1+1=2だとでも言うような返答だった。
戦う、とはどういう状態なのか葵には分からなかった。ただ、だからあずきは変わることに躊躇がないのかも知れない、と思った。戦っているから。正義を行っているから。あずきの瞳には迷いがないのかも知れない。
夕食が終わった後、あずきを外まで送ろうとした時「ねぇ葵さん」と名を呼ばれた。「私と友達になってくれない?」
ともだち?
なまえ?
少し緊張した面持ちのあずきを見て、葵の中で浮かんだのは菫だった。深水家の正当な血筋を引き継ぐ唯一の少女。葵よりは大切に扱われたけれど、決して幸福とは言い難い日々を生きる同士。あるいは、過去の運命共同体。
あぁ、そうか。
と葵は自分で自分の揺らぎに納得した。そして、あずきをまっすぐ見つめた。
「ごめんなさい。田中さん」
あずきが傷ついた表情を浮かべた。本当に友達になろうと勇気を出して言ってくれたのだろう。だからこそ、葵は生半可な気持ちで応える訳にはいかなかった。
「私は友達というものがどういうものか分からないんだ」
友達も、正義も分からない。「だから、考える時間をください」と言って葵は頭を下げた。
数秒が経ち、顔を上げるとあずきは目を背けることなく葵を見つめていた。「分かった。合唱祭が終わったら、答えを聞くね」
「うん」と葵は頷いた。
答えは最初から決まっていた。必要なのは覚悟をする時間、それだけだった。
葵は合唱コンクールに菫を呼びたいと母に頼んだ。母は困惑した表情を浮かべたが、葵は食い下がった。葵が母に深水家のことを言ったはじめてのことだった。
母は葵の頭を撫でて連絡はすると約束してくれた。
あずきに友達になろうと言われた時、葵が気付いたのは以下のことだった。
葵が母との間に深く越えがたい溝を作り、首輪のように繋がれた深水家の思想に安住する理由は深水菫だった。岩田屋町に引っ越してきて葵の生活は激変した。それが良いモノであればあるだけ、葵の中に溜まったのは菫に対する後ろめたさだった。
太陽に怯えている時期はまだ良かった。葵は十分に不幸だった。しかし、母に笑って良いと言われて泣いた日から、葵は不幸ではいられなくなった。
葵は心から望めば、あずきという友達を作って、楽器なんて弾かず、まるでテレビの中にある同世代のような日々を笑顔で送ることができる。
できてしまう。
何かの拍子に葵が菫の立場だった可能性は十分にあった。
あの地獄のような深水家に取り残され、菫が享受する別世界の幸せを狂うほどの嫉妬と理不尽の中で想像してのたうち回る。そういう現状に葵がいないのは、ひとえに運が良かったから。それだけだった。
だから、葵は菫と無関係に幸せになる訳にはいかなかった。
少なくとも、当時の葵は真剣にそう考えていた。
合唱コンクール当日、葵のクラスはどのクラスよりも堂々としたソロによって学年優勝を成し遂げた。あずきの歌声は全校生徒を魅了した。
放課後、知らないアドレスからメールが届いた。
――校門にいる。
それが菫からのメールだとは予想がついた。教室の片隅で何か言いたげなあずきに笑みだけを残して、葵は校門へ急いだ。
校門の前には一台の黒の車が止まっていた。葵が姿を見せると、ドアが開き菫が下りてきた。菫は彼女が通っている学校の制服姿だった。
「久しぶり」菫が言った。
うん、と葵も言った。
数秒の見つめ合いがあった後、菫が吐き捨てるように言った。「葵。アンタが悪い訳じゃないのは分かってるのよ」
瞬間、菫の中に浮かんだ感情が葵には分かった。それは蛍のような妖光。冷たく燃えたぎった憎悪だった。「でも、私はアンタが許せない」
「うん」
「幸せになるなら勝手に一人でなりなさいよ。わざわざ見せつけるような下品な真似せずに」
うん、とやっぱり葵は頷いた。
「今日がアンタにとって大切な日なんだろうってのも、なんか分かったわ。区切りだったのよね」
さすが同志。以前の運命共同体。よく分かっている。
「アンタと私の立場が違ったら、もしかしたら私もアンタをこういう場に呼んだのかも知れないわ」
そうかも知れない。そして、その時に葵が抱くだろう感情は全身の骨が軋むほどの嫉妬。まさに今、目の前にいる菫からそれを感じる。
「葵。私はアンタが許せない。あの家にいたアンタなら分かるでしょ? 今、私がどんな日々を送っているか?」
「うん」
「アンタは今日、私をここに呼ぶことで何かを得るんでしょうね。そして、これからアンタは私が到底手に入れられない温かくて柔らかい幸せを手にしていくんでしょうね」
その通りだと思う。葵はこれから望まずとも幸せになっていく。満たされた素晴しいものを手にしていく。太陽を怖れなくなったように、母のように声を出して笑うかも知れない。
もう葵はそれを否定できない。
「深水葵。覚えておきなさい。アンタが幸せになる度に、私がアンタを不幸にしてやるのよ。逃げられると思わないことね」
望むところだった。
葵は菫と契約したかった。
菫はあの家にいる以上、損なわれ続ける。誰も責めることも出来ず、ただ苦しい日々を送るだろう。葵はそれを無視できなかった。
だから、どんな形でも良い。あずきと友達になる前に、本当に幸せになってしまう前に葵は菫と強い繋がりを――契約を得ておきたかった。
それが蛍のような妖光。憎悪であっても問題は些末なことだった。
これから葵に訪れるだろう途方もない幸福をそのまま受け入れるなんて、葵には耐えられない。真っ暗な洞窟に数日閉じ込められた人が光ある場所に出る時、目をタオルで覆うようなことを葵は求めた。
光はあずき。目を覆う闇が菫。
葵は自分を心底嫌な人間だと思った。ただ幸せになることに怯え、ただ不幸になることも拒否し、こんな回りくどい契約を取りつけた。
「菫」
と葵が言った。
「なに?」
「今日は来てくれてありがとう」
ふん、と菫は鼻を鳴らし「葵。アンタの隣には地獄があるし、アンタは地獄の住民よ。どこまで行ってもね」と言った。
うん。そうかも知れない。でも、菫。
あなたが私の隣を歩く以上、地獄の横には光があると分からない、あなたじゃないよね?
最後の最後、菫が葵に背を向けるほんの刹那、彼女が僅かに笑ったような気がした。
教室に戻ると田中あずきが自分の席で文庫本を読んでいた。葵の顔を見ると僅かに顔を上げ、ぎこちない笑みを作った。
「お待たせ、あずきちゃん」と葵は言った。




