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宮内浩 夏⑥

 まず、葵は私のことをお婆ちゃんと言ってくれているけど、本当の祖母は他にいてね。それが私の妹の春海なんだ。私たちの家は織物工場だった。兄妹は五人で、私と春海以外は男で家は工場と同じ棟だった。ガラス一枚隔てた向こう側は常にモーター音と上から打ちつける筬の音が響いていた。

 両親は家無し工場暮らしと言った。彼らは商売が落ち着いたら家を建てるつもりだったらしいが、子供ができて養育に追われはじめて諦めてしまっていた。

 私はそうではなかったけれど、春海は静かな家に憧れを抱くようになっていた。でも、私たちが住む町は田舎でね。家業を持った男性ばかりが周囲にいた。見合いの話も基本的に父と似た職業の人が多かった。

 春海は仕事と家を分けたいと考えていた。そのために、都会に出たいと両親に希望していた。でも、父が反対してね。父の意見が全ての家だったから春海の意見は通らなかった。そんな時期に私は岩田屋町の男の下に嫁いだの。だから、その後の春海に何があったのか正確なところはわからない。ただ、結果だけを言えば春海は強硬手段に出た。都会から来た男を誑かして駆け落ちをしたんだよ。

 父は激怒して親子の縁を切ると言っていたし、盆や正月に家に帰っても春海の話は一切されなくなった。春海も実家に一切連絡を入れなかった。ただ時折、私の方に手紙をよこした。それによると駆け落ちした男とは上手くいかなかったみたいだった。でも、仕事は見つけて都会でやっていけていると手紙にはあった。

 仕事は城山と言う政治家の秘書だった。問題があるとすれば城山本人ではなく、その息子の方だった。息子は厳格な父に対し劣等感と只ならぬプレッシャーを感じていた。そんな息の詰まるような環境から逃れる捌け口を息子は探していた。そして、丁度良く春海が現れた。

 春海は城山の息子に手荒な扱いを受けた。それは徐々にエスカレートして行き脅し懇願され、春海は息子に体を許すようになった。

 城山は息子に対して厳しいが、決して軽んじている訳ではなかった。むしろ期待しているのを春海は知っていた。そのため、息子の子を孕み、更に堕ろす期日が過ぎてしまった春海を城山は責めて解雇とした。

 職を失った春海は都会で知り合った人の手を借り子供を出産し、城山の家に「お返しします」という手紙と共に赤子を置いて姿を消した。当然、城山は怒り春海を探したが、誰もあの子を探し出すことはできなかった。

 城山は赤子を養子に出すことを決めた。その時、子の名をつけたのは城山の妻だった。彼女は夫と息子の冷淡さ、そして、子供が辿るだろう不幸と苦労を思って、ほたると名付けた。それは、どんな暗闇の中であっても確かな光を放ち続けなさい、という城山の妻からの遠回しなエールだった。

 蛍の光は妖光。幸福などという温かいものではなく、もっと冷たく燃えたぎったもの。

 つまり、それは憎悪だった。

 ほたるは自分とは関係のない憎悪を背負わされて外に放り出された。彼女を引き取ったのは深水という代々音楽で有名な一家だった。

 楽器はバイオリン、ピアノがメインだったが、時々トランペットやドラムの音が響くこともあった。音楽の種類としてはジャズだった。ほたるは物心がつく頃から楽器に触らせられる環境で過ごし、言葉よりも手が先に出る母に育てられた。幼稚園、小学生の低学年まで彼女の体は痣だらけで、大人とまともに目を合わせることができなかった。

 深水家にはほたる以外にも子供が三人いて、女二人と男一人で、全員ほたるよりも年上だった。兄妹も平等に厳しい教育の中にいたが、ほたるに対しての教育は一層激しいものだった。ほたるがその理由を知ったのは中学に上がった年だった。父と母の会話を盗み聞きした。

 そこで、ほたるは本当の母親に捨てられたこと。ほたるという名前の由来。そして、深水家がほたるを引き取った理由が政治家、城山との関係を失うことを恐れてのことだと知った。

 ほたるはその晩、眠ることができなかった。布団をかぶって暗がりの中で手に浮かんだ痣の輪郭を指でなぞっていた。途中から言葉にならない怒りがこみ上げ痣を噛んだ。このまま手を噛み切ってしまえば、楽器の演奏をせずに済むのではないかとほたるは真剣に思った。

 しかし、演奏が出来なくなれば捨てられることを深水ほたるは理解していた。翌朝、一睡もせず鏡に立った時、目の奥に確かな光を確認した。冷たく燃えたぎった憎悪。蛍の光。名前の通り、ほたるはどん底の暗闇の中でも放つ光を持っていた。

 ――私は、蛍だ。

 その朝、ほたるは初めて自分の名前を認めた。


 ほたるの環境は高校にあがっても変わらなかった。家では相変わらず演奏をし、雑用を押し付けられた。学校内では自由だが、上手く笑うことさえ出来ず俯いてばかりいるほたると仲良くしようとする人間はいなかった。

 二年になった夏、教育実習生が教室に来た。顔立ちの整った青年で、クラスの女子たちは色めき立ち、瞬く間にお祭り騒ぎのような日々が到来した。青年は陽気でユーモアに富み、しっかりと人の話を聞いた。

 青年に言われて、ほたるは気づいたが、彼は深水家に出入りしている時期があった。深水家は色んな家や仕事の繋がりによって人の出入りが多かった。

 ほたるは家の外で深水家について喋られる人間と初めて知り合った。何か言ってはいけないことが口をつくのを恐れた。しかし、青年はお節介にもほたるに構い、ある瞬間ダムが壊れ水が流れ出すように涙を流し弱音を吐いた。

 自分の中にこんなにも多くの弱音が不安が詰まっていたのか、と恐ろしくなるほどだった。

 青年はそんなほたるの言葉をちゃんと受け止めて優しい言葉をかけた。ほたるにとって、それは殆ど初めての経験だった。

 ほたるは青年との関係に没頭した。彼の腕の中でなら安らかに眠ることができた。無敵だ、と思った。世界は彼とほたるだけで閉じられていた。ほたるを殴ったり、嫌味を言ったり、つまらない争いに巻き込まれたりしない世界。温かく、柔らかく、安らかで自由な世界。

 そんな歪な世界の崩壊の一旦は、ほたるの体に訪れた。最初は単なる勘違いだと思った。けれど、でも、と考えて調べた結果、ほたるは妊娠していた。

 家族に知られたら堕ろせと言われることは分かっていた。青年を頼ろうにも、彼には親が決めた婚約者がいた。ほたるはそれを分かった上で、彼に抱かれることを止められなかった。

 途方に暮れた頃に、ほたるは城山の妻と会う機会に恵まれた。蛍という呪いを背負わせた張本人だった。

 そこでほたるは本当の母の話を聞いた。

 城山の息子のこと、そして、

 ――お返しします。

 という手紙のこと。

 皮肉にもほたるは現状、母と似た立場に立っていた。

 ただ、ほたるは間違っても青年に「お返しします」と言うつもりなどなかった。ほたるは青年のことを愛していたし、子供ができても憎めずにいた。

 城山の妻との会話によって、ほたるは一つのことを決めた。

 ――私は私のものを誰にも返すことなく持ち続けてみせる。

 ほたるは出産しようと思った。

 それに伴って味方になってくれたのも城山の妻だった。

 学校を辞めて出産する。縁を切るなら、それでも構わない。そうほたるは深水家に対し言い張った。深水家は一つの条件によって、それを認めた。

 一年間の音楽留学。

 高校生だった娘が突然、赤子を抱えて近所を歩かれたのでは堪ったものじゃない、というのが深水家の本音だった。ほたるは子供と共に留学したいと言ったが、深水家はそれを認めなかった。そのため、ほたるは出産した翌週には留学の準備をはじめ、月の終わりには海外へと渡った。

 現地でほたるは音楽の才能を存分に伸ばしたが、それだけで食べていける訳がなかった。日本に帰ってきてからは深水家が担う仕事の一部をほたるは任された。育児はほたるの頃と同様、深水家の母が担当した。

 葵の姿を見ると、ほたるは過去の自分を思い出した。痣だらけの身体。大人に対する恐怖心。

 しかし、過去のほたるにはないものが葵にはあった。それは実の母である、ほたるの存在だった。ほたるはどんなに疲れても葵と真っ直ぐ見つめ合って話をしたし、布団の中ではちゃんと抱きしめて眠った。

 一度、葵が演奏中に泣きだしたことがあった。その日の夕食をほたるは抜きにされた。娘の粗相は母親の責任という訳だ。家族が集まった居間の隅でほたるは三時間の正座を強いられた。家族の一人に熱い味噌汁をかけられたが、それを拭うことも許されなかった。

 葵はずっと泣きながら母を許してくれと叫んだが、家族の誰も聞く耳を持たなかったし、彼女が泣くだけほたるのペナルティは重いものとなった。

 次の日から、葵の表情には一定の感情が籠らなくなった。素直に人の言うことを聞き、泣き言一つ零さなくなったが、目に光はなく機械のようになっていた。

 分かっていたが、子供を育てる環境として深水家は適していなかった。そんな頃に一通の手紙が届いた。

 ほたるの本当の母、春海の死を知らせるものだった。城山の妻の強い要望があり、ほたるは葵を連れて葬儀に参列した。そして、そこで春海の姉の道子、つまり私だね、と出会った。

 当時の私は旦那に先立たれて、目的というものがなかった。旦那のお母さんがやっていた駄菓子を継いではいたけど、特に他にしたいことも浮かんでなくてね。近所の悪ガキどもの相手をするくらいしか楽しみのない日々を過ごしていたんだよ。

 ほたるの姿を見た時、春海に良く似ていると思ったよ。ただ、立ち姿を見ただけで、彼女が良い環境に居ないことは分かってね。だから、困ったことがあったらいつでもウチにおいでって言ったんだ。

 駄菓子屋と連なった大きい家もあるし、岩田屋っていう田舎町で良ければ仕事も紹介してあげる、そういう話をしたと思う。ほたるはその日のうちに、本当に頼っていいのだろうか? と私に尋ねてきた。もちろん良いよ、明日にでもウチに来なさい、と言って私は家の住所と電話番号を書いた紙も渡した。

 一週間後くらいかね。ほたるがキャリーバッグ一つで葵の手を握って、ウチを訪ねてきたんだよ。そして、ゆっくり時間をかけて事情を聞いて、深水家とのやり取りに私が横やりを入れたりして距離を開けていった。今はもう年に一度、連絡を取り合うくらいかね。

 でも、三つ子の魂百までとも言うように、あの子たちはまだあの家に拘り続けているんだよ。それが常識だったからね。ポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」っていう小説があるんだけどね。知っているかい? あぁ、知らないか。仕方ないね。その小説の最初に「序――奴隷状態における幸福」というのがあるんだよ。

 本屋なんかで見かけたら読んでみると良い。

 幸福とは考え方である以上、奴隷状態を良しとしてしまう場合がある。そこから抜け出すには長い時間が必要なんだよ。問題は当人の中にしかない。周囲にいる私たちは、彼女たちがその暗く深い、途方もないトンネルを抜けきることを祈るしかない。与えられた幸福ではなく、自身が掴む幸福という本物を手にしようとすれば、ね。


 ◯


 本物……。

 と浩は俯いたまま思う。婆ちゃんは尚も続ける。

「葵が浩の小説が読んで、そしてその曲を作った時、私は本当に嬉しかったんだよ。あの子はちゃんと進んでるんだって。だから、ありがとう、浩」

 浩は何も言えなかった。

 感謝されるようなことを浩は何もしていない。

「浩」と婆ちゃんが浩を呼ぶけれど、浩は顔を上げられなかった。「あんたが二週間、ひかりのベッドで眠り続け、奇妙な違和感の世界に投げ出されたように、ほたるも葵も同じように幻と現実の狭間を彷徨っているんだよ」

 婆ちゃん、その言い方じゃあ僕は現実に戻ってきたようじゃないか? でも、僕は……。

「それはね。菫もまた同様なんだよ。多分、菫の方がより重症だとも言える」

 どういうこと? と浩は尋ねられなかった。

 浩は真剣に戸惑い怒っていた。婆ちゃんの話をちゃんと受け入れられない自分自身に、浩は怒っていた。

「……ごめん、なさい」

 こんな話をさせてしまって、ごめんなさい。人の心に踏みこむどころか、人の存在意義にまで土足で荒らしたような所業をして。

 葵が小さな部屋の話をしてくれた時、歴史を英語では『ヒストリー』でそこには物語という意味があると言っていた。浩は他人のプライベートな物語を前に、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。

 葵が進んでいる? だから、ありがとう?

 なんだよ、それ。葵は一人でちゃんと進んでいるんだ。きっかけは僕だったのかも知れない。でも、僕なんていなくても、葵はしっかりとした足取りで前へ向かっているんだ。

 一周遅れで走っているのは僕なんだよ。前を走っているように見えて、僕はただ怠けていただけなんだ。

「浩。あんたは気づいていないだけなんだよ。自分の価値に。それは誰もが持っている訳じゃない、特別なものだよ」


 駄菓子屋から出て、人通りの多い道を選んで進んだ。

 婆ちゃんの言葉が浩の中にこだましていた。

 ――気づいていないだけだよ。自分の価値に。

 そんなものがあるとは思えない。少なくとも葵と比べれば浩は本当につまらない人間だ。書いた小説を最後まで導くことはできないし、勉強もできない。

 深水葵のような楽器の演奏ができる訳でもない。

 田中あずきのような歌唱力を持っている訳でもない。

 中谷勇次のような圧倒的な暴力がふるえる訳でもない。

 守田裕のようなコミュニケーション能力を持っている訳でもない。

 何もない。空っぽだ。

 菫に腕を折られた時、そして葵と会うなと脅された時、浩の中に浮かんだのは執着だった。浩の小説を認めてくれる可愛い女の子と接していることが楽しくて、そこに居れば何かをした気になれる。生きた気が、意味があると思えた。

 それだけだ。

 葵が浩の小説を曲にしてくれるだけで意味があるんだと思った。浩が書きあぐねて捨てた物語と時間に、葵は意味を見つけてくれた。

 姉のために対峙した時間に勝手な意味を見出して前を向いて進んだ気になっていた。それが僕だ。

 何も最後まで果せていないくせに……。

 なんで、感謝されてんだよ?

 浩が婆ちゃんを頼ったのは被害者という立場を得たからだ。骨を折られ脅され、嬉々として人に頼った。

 自分でどうにかしようなんて欠片も思っていなかった。

 それどころか浩は深水家の物語を聞いた時、手に負えないと思った。地球の裏側、テレビ画面の向こう側の話で、浩の現実に起り得ることじゃない。そうやって思考停止していた。

 実際、深水家の話が終わった後、浩は一度も婆ちゃんの顔を見れなかった。考えないで良い楽な道を浩は探している。

 白状しよう。

 僕は深水葵に会うのが怖い。

 彼女が進んできた底の見えない暗闇を思うと、浩はもう何も言えない。浩と葵はまったく違った世界に生きていた。

 姉の失った世界を理不尽だと浩は思った。一番不幸なのは誰かといった比較をするつもりはない。ないけれど、思ってしまう。浩が感じた地獄のような日々は二週間、あるいは現在まで続く三年間のものだ。

 葵が抱える暗闇は十五年以上の期間、彼女の中に浸食し、燻り、犯している。その地獄のような日々を浩は口が裂けても分かるとは言えないし、理解したいと言う覚悟もない。

 菫は浩の両目をマイナスドライバーで突くべきだった。そうでもしなければ浩は葵と対等に話すことなんて出来ない。……いや、それは逃げだ。

 でも、だけど――。

 クラクションが鳴った。

 目先のガードレールの向こう側に赤い車が一台止まっていた。助手席からこっちに向かって手を振っている人影が見えた。視界がぼやけて浩はしっかりと、その人物を確認できない。

「浩ぉ!」

 と人影が言う。浩を呼んでいる。近づいてみると、守田裕だった。

「よぉ、こんなところで何してんだよ?」と尋ねられても浩は答えられず、ぼんやりと守田の方を見るだけだった。「あ、シップーさん。そこのコンビニに行きませんか?」

「コンビニな、良いぞ」と運転席の方から声がした。

「じゃあ、浩。そこのコンビニの駐車場で、ちょっと駄弁ろうぜ」

 守田の人懐っこいニコニコした笑みを見て、すぐに逸らして浩は頷いた。

 コンビニは浩が歩いていた歩道の反対側にあった。信号を渡ってガードレール沿いに歩き、コンビニにたどり着くと駐車場には赤い車が一台だけ止まっていた。その横で守田と背の高い男性の二人が談笑していた。

 守田が浩に気付き、手をあげた。近づくと守田が微糖の缶コーヒーを差し出した。「ありがと」と言って受け取ったが、浩はうまく守田の顔を見れなかった。

「なぁ、浩。どうしたよ? お前。童貞を捨てられる初夜をしくじったみたいな顔をしてんぞ」

 どんな顔だろう? と思ったが、やっぱり守田の顔を見れなかった。

「守田くん、それは君のことじゃないのか?」

「シップーさん! 俺は別にしくじった訳じゃないっすよ! 初夜の前にフラれたんですって」

「それはそれで切ねぇよなぁ」と男性が言い、浩を見たのが分かった。「前も、そうだったけど顔に生気がないぞ。宮内浩くん」

 え? と真っ直ぐ男性を見ると、浩は「あ」と声をあげた。三年前、幻を求めて眠った二週間を終え、違和感の世界に放り出された浩を車で轢いたお兄さんが、そこには立っていた。

「にしても、なんだ? また、怪我してんのかよ。しかも骨折って……。あれか? 好きな子のおっぱいでも揉もうとして骨を折られたのか? あのな、まずキスなんだよ。で、その隙にブラを外してだなぁ」

 やっぱり最低なことを言われているのは分かって、浩は笑った。前は泣いてしまったけれど、今回はちゃんと笑った。

「ふむ。成長したようだな」

 とお兄さんは腕を組んで頷く。

「ってか、シップーさん。浩と面識あるんですか?」

 守田が不思議そうに浩とお兄さんを交互に見る。

「昔、僕が浩くんを轢いたんだよ」

 ん? 僕? と疑問に思う。

「轢いた? 車で?」

「そうそう。まぁ、そんな大事にはならなかったんだけどな」

「あの時は僕の不注意ですみませんでした」

 改めて頭を下げた。

「いや、あの時は僕も注意散漫だったから、お互い様だよ」

 やっぱり『僕』って言った。

「あの、お兄さん。昔一人称って俺じゃなかったでしたっけ?」

 お兄さんが少し困ったように眉を寄せ、守田が笑みを深める。

「分かってんじゃねーか! 浩。『俺』だったよ! 今でも時々シップーさんは『俺』って言うぜ! そっちの方がしっくりくるんだけどなぁ」

 目の前で少年が泣いても狼狽することなく、好きなだけ泣けと言うお兄さんに『僕』という人称は合わなかった。

 お兄さんが、んーと唸った後に口を開いた。

「いや、思うところがあって、僕は真面目に生きるって決めたんだよ。貯金をして、結婚式もあげるんだよ」

 浩と守田は顔を見合わせて、ほぼ同時に口を開いた。

「一生反抗期みたいな生き方しているシップーさんには絶対、無理っすよ」

「出会って一発目に必ず下ネタ入れる大人には無理だと思いますよ」

「おいっ! 綺麗にハモってんじゃねーぞ、コラ」

 三人で思いついたまま談笑を続けた。さっきまでの暗い気持ちは薄まり、表情もコロコロ変えられるようになった。

「さて、浩くん」

 話題が一段落ついたところで、お兄さんが言った。「何かあったのか?」

 浩は少し躊躇したけれど、結局は口を開いた。

 名前は伏せて骨を折られた話、その原因、事情を喋った。やや脈略のない言い方になっていたが、お兄さんと守田は黙って聞いてくれた。最後に婆ちゃんに言われた価値についても口にしてから続けた。

「でも、僕はただビビっちゃったんです。想像もできない不幸を抱えた女の子を前に。何もできない、何もしてこなかった自分を知って……、僕は」

「例えばだけどよ」

 とお兄さんが言った。「好きな女が一晩の過ちで妊娠しちゃって、それでも好きでいられるか? って尋ねられると難しいよな」

「難しいですね」

 守田が横で頷く。

「でもよぉ、女の立場に立ってみると答えは一つしかねぇんだよな」

「立場、ですか?」と守田が尋ねる。

 そう、立場と言って、お兄さんは続ける。「女にとって一晩の間違いで子どもが出来るなんて想像もしてなかっただろうし、堕ろすにしろ、産むにしろ、その経験っつーのは一生重くのしかかるだろうよ。その上で間違いを犯したとは言え、頼っていた男にまで見限られたらやり切れねぇだろ?」

 浩は何も言えなかった。本当にその通りだったから。

 葵の立場に立てば、彼女が選んでいない事柄によって仲良くしていた人が離れていくのだ。それは……。

 お兄さんは浩の表情の変化を見てか、口元を釣り上げて笑った。

「あと、ビビったって分かってんのは良いことだと思うぜ。例えば、って例えばっかだけどな。ドラクエのラスボスとか、ぱっと見で怖ぇの多いじゃん? でも、だから意地になってレベル上げたりする訳だよ。ビビったからこそ頑張って何とかしようとすんだよ」

「何とかしようとする……」

 浩は何もできないし、何もしていない。けれど、それはこの先もそうでなければならない訳ではない。

「それと」とお兄さんは更に続ける。「浩くんは価値があるって言われたんだろ? 本来、価値ってのは自分で決めるもんじゃねぇよ。野球選手とか見てみろよ。冷たい言い方だけど、監督に選ばれたから、あいつ等には価値があんだよ。どんなに自分が優秀だと思っていても、周囲の人間や監督が良しと言わなきゃ舞台に上がることさえ出来ない。そうだろ?」

「確かに、そうですね」と守田が頷いた。「浩。お前、もしかして自分に価値がないとか思ってんの?」

 思っている。当然じゃないか? 僕のどこに価値がある?

「でも、その婆ちゃんには価値があるって言われたんだろ?」とお兄さんが言った。「紙幣そのものは単なる紙切れだ。それ自体に価値はねぇよ。あの紙切れの正確な値段は明かされてねぇけど、二十二円くらいで一枚が作られているらしいぜ。でも、俺らはあれの価値を一万円と書かれていれば一万だと知っている。つまり、信頼だな。一万円札を出せば、一万円分の物が買えるっつー信頼があるから、あの紙はお金になる」

 信頼……。

「周囲の人間が価値あるって言った以上あんだよ。少なくとも期待されてんだよ。だから、まぁその人間が信用できるのなら信じてやってみりゃあ良いんだよ」

「僕は何をすれば良いんでしょう?」

 分からなかった。本当に、何をすれば良い?

 お兄さんはやっぱり鼻で笑うような気軽さで言った。

「男だろ? 自分で考えろ」


 ◯


 深水ピアノ教室にたどり着いた時には夜の二十時を過ぎていた。チャイムを鳴らすと、葵が出てきた。大きめのグレーのパーカー姿だった。

「こんばんは」

 と浩は言った。

「うん、こんばんは。どうしたの?」

「お願いがあって」

「お願い? あ、中入る? お茶淹れるよ」

 言って、葵は扉を開けて通りやすいように体を横に寄せた。

「ありがと。でも、ここで大丈夫」

「そっか。えっと、なに?」

 色んなことを考えた。けれど、全然足りない。浩は葵と対等の立場にいないし、彼女の横にいる覚悟をしたとも言い難い。

 彼女のために浩に何ができて、そして、それを本当にそれができるのかも……。

 それでも、ここから始めたかった。

「深水さんのこと、葵って名前で呼んでも良いかな?」

 婆ちゃんから聞いた春海、ほたるの歴史。けれど、浩が出会ったのは葵だ。

 彼女に絡みつき、蝕んでいるものがあったとしても浩は『深水』のためではなく『葵』のために何かをしたい。それは眠る少女の『あおい』でも良い。

 浩が信頼し信じたいのは葵自身だ。深水家がそれを作ったのだとしても、それでも――。


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