宮内浩 夏⑤
「深水ピアノ教室」での勉強会はテスト週間中、毎日おこなわれた。というのも浩の成績は「普通にやっていて、どうしてこんなに酷くなるの?」と葵に心配されるレベルで、このままテストを受ければ赤点は免れないのは浩自身も分かっていた。
とくに英語の理解力が弱く中学校の頃の教科書を引っぱり出して、一から学び直した方が良いと判断された。
浩は葵の部屋に通される度に申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、葵は何故か嬉しそうだった。
「なんかご機嫌だね」
「んー、何と言うか、宮内くんが勉強できないの意外で。それで色々お世話になってる宮内くんの役にちゃんと立ててるなぁって思うと嬉しくて」
お世話? と浩が疑問を口にすると、葵は笑みを深めた。
「ラクガキのこと。あずきちゃんと一緒に色々調べてくれたり、心配してくれたんでしょ?」
なんだ、あずきはちゃんと葵に話をしたんだ。
浩はどうリアクションすれば良いか分からず、ただ笑った。
帰り道、日も暮れかけた時間で外灯がぽつぽつと灯った住宅街を歩きながら浩は携帯を開いた。あずきに葵のことをメールしようと文章を作っている間に人とぶつかった。手から携帯が滑り落ちた。滅多に人の通らない住宅街だから油断した。
ぶつかったスーツの男に「すみません」と一言告げて携帯を拾うとしたが、それよりも先に先端が丸っこいピンク色の靴が目の前に現れて携帯を踏みつけた。
「話があるのよ。宮内浩」
目線をあげると、ひらひらした赤いドレスを着た同い年か一個下の少女が浩を見据えていた。「お前、深水葵とはどんな関係なのから?」
「は?」
突然の質問に浩は面喰ってしまった。
「とぼけるんじゃないのよ」
「いや、普通のクラスメイト、ですけど」
というか、携帯を踏むのを止めてほしい。
「クラスメイトォ? 単なるクラスメイトが何度も家に通うなんて、おかしいんじゃないかしら?」
改めて少女を見た。そして、浩の横に控えているスーツの男。彼らは浩を宮内浩だと知っていて深水葵の関係を尋ねてきている。
どうして? と聞いてみても彼らが答えてくれるとは思えなかった。
「僕は勉強が出来ないので教えてもらっていただけです」
「へぇ、お前、馬鹿なのね。でも、深水葵がわざわざ部屋に招いてまで勉強を見てあげる理由は何かしら?」
「知りませんよ、僕は深水さんではないので」
短い舌打ち。
少女が足を持ちあげ、思いっきり携帯を踏みつける。「言葉に気をつけるのね。宮内浩」
「真実です」
と言うと、少女が「佐藤」と短く告げた。瞬間、後ろから衝撃があり、浩は地面に押さえつけられていた。スーツの男は浩の頭に手を置き、腰のあたりに座っているのが重みで分かった。視界には踏みつけられた浩の携帯が確認できた。
「お前と深水葵の関係は?」
浩が黙っているとスーツの男が浩の左腕を取った。「答えなさい」と再度、少女が言った。
頬の辺りが妙に痛かった。おそらく、押さえつけられる時にぶつけたのだろう。息を吐いた。「人にものを尋ねる態度じゃありませっ――――」
スーツの男が浩の左腕に衝撃を与えた。何をしたのか分からない。ただ、日々の日常では考えられない痛みが全身を貫き、目の奥が捻じれるような感覚があった。
「あぁあああぁああぁあぁああぁあぁああぁああ――」
肺にあった全ての空気が吐き出され、ふくらはぎが限界まで伸びて吊りそうになった。
「もう一度、聞くわ。お前と深水葵の関係は?」
「クラ、スメイ、トで……す」
真実だった。しかし、少女は納得しない。「佐藤」と言うと、スーツの男は浩の髪を掴んで持ちあげた。ひらひらの服を着た少女は行儀よく足を揃えてしゃがんで、浩に視線を合わせた。
「さっきも言ったわよね? ただのクラスメイトがどうして深水葵の部屋を行き来しているのかしら?」
コイツはどんな答えなら納得するんだ? 付き合っている、恋人同士。そう言えば、良いのか? でも、嘘はつけない。「本当に、ただのクラスメイトです。僕が馬鹿だから……」
と続けようとして、
ぱしんっ
と手のひらで殴られた。地面に押さえつけられた時にぶつけた頬の傷口を的確に狙われた。瞼から涙が溢れた。
「お前は、深水葵の彼氏なの? あの子に何をしたのかしら?」
スーツの男が浩の右手首を掴んで少女の前の地面に押さえつけた。少女はポケットから工具用のマイナスドライバーを取り出し、浩の親指と人差し指の間に突き立てた。少女とマイナスドライバー。まったく現実味のない組み合わせだった。
「この手で、お前は深水葵に触れたのかしら? 汚いこの手で、あの子の何処に触れたのかしら?」
「や、めて下さい。……僕は深水さんの彼氏じゃないし、触れてもいない」
「そう」と言って、少女はマイナスドライバーを空中に持ちあげ、先端を浩の顔に向けた。「じゃあ、何をしたの?」
「なに、もしていません。本当です」
「そんな訳ないじゃないのよ。あの子の部屋に入って、あの子の隣にいる。笑顔を向けられ、言葉を向けられ、気遣われている。本当にただのクラスメイトだったとして、それがこれからも続くとは限らないじゃないのよ?」
え?
「両目を潰されても、あの子はお前を想うのかしらね? お前は深水葵のせいで光を奪われても、あの子の横にいられるのかしらね?」
歯がカタカタとぶつかって音を立てていた。唾液が唇の端から漏れて、垂れる。やめ、やめて、ください、やめ、なんで、もしますから、あや、謝りますから、ごめ、なさ、……。という声にもならない呟きが浩の中を満たしていく。
少女が、すっとマイナスドライバーを引き、そして――
「菫ちゃん?」
声がした。「あと、えーと。佐藤だっけ? 良い大人が中学生の言いなりになってんじゃねーよ」
少女の舌打ち。スーツ姿の男が浩から手を離して立ち上がった。少女も声の方を向いた。浩は地面に伏せたままだった。左腕がじんじんと痛み、呼吸が乱れ、頭が妙に熱かった。
「鏡? なんで、お前がここに居るのかしら?」
大森、鏡?
「ここは俺の町だからな。歩いていてもおかしくねぇーだろ?」
「そうね。にしては、あまりにも良いタイミングじゃない?」
「勘ぐるなよ。ちょっとした散歩だよ」
「散歩ね。そう。昔の女に未練でもあって、ストーキングしているのかと思ったわね」
「あはは」と鏡は笑った。「お前と一緒にすんなよ。餓鬼」
「あ?」
「どんなに未練があろうと、それが他人を傷つけて良い理由にはならねぇーぞ」
「未練? はっ! そんなものが私にある訳ないじゃないのよ。勘違いするんじゃないわよ、ヘタレ野郎」
「そーかい。なら、あの子の周りを台無しにすんのを止めて欲しいんだけどな」
「あの子が望んだことよ。許可ももらってる。お前が口出しすることじゃないわ」
「それでも節度ある行動を取って欲しいね。せめて俺の学校の生徒には手ぇ出すなよ」
「ナンパ野郎が、教師ごっこしているんじゃないわよ」
「ごっこでも教師は教師なんだよ。くそ餓鬼」
菫と呼ばれた少女は舌打ちして、その場を立ち去った。左腕の痛みは増す一方だった。恐怖の名残りが体を強張らせ、浩は上手く立ち上がることができなかった。
「大丈夫か? すぐそこに俺の車があるから病院へ行こう」
大森先生が浩に近づいてきた。
◯
左腕は折れていた。
浩が病院で治療を受けている間に、大森先生は病院側に対する事情の説明、浩の両親への連絡を済ませてくれていた。
神社の石階段を踏み外しての事故。そう伝えたと大森先生は言った。
事故? 神社の石階段を踏み外す?
なに言ってんだ。待ち伏せされて地面に押し付けられ、骨を折られてマイナスドライバーの先端をちらつかされたのだ。結果、ギブスを左腕につけ首から三角巾で吊るして、頬にガーゼを当てた。携帯の画面にもヒビが入っている。間違いようのない被害が浩にある。なのに、事故?
そういう怒りも大森先生の申し訳なさそうな表情を見つめていると穴の空いた風船のように萎んでいった。
「悪かった。俺が言っても仕方がないことは分かっている。けれど、本当に申し訳ないと思っている。気が済まないようだったら本当のことを言っても良い。宮内くんにはその権利がある」
深く息を吸い吐いた。頭は正常に働いている。感情的に意味もなく動いてはいない。順序は間違いない。
「どうして嘘をつく必要があるんですか?」
「俺の方からは何も言えない」
「嘘ってことは、あの菫って女の子を庇っている訳ですよね。つまり、あの子は深水さんか大森先生の身内ですか?」
「どうだろうな」
曖昧な返事をする大森先生に対して、浩は疑問をぶつけていく。黙っていられなかった。
「菫の発言を思い返せば深水さんのことを『あの子』と呼んでいました。菫は深水さんの妹か何かですか?」
「さぁな」
「大森先生は、どんな未練でも他人を傷つけて良い理由にはならないって言いましたよね? 先生はあの子の何を知っていているんですか?」
大森先生はついに何も言わず首を振るだけになった。
菫と同じように舌打ちしたい状態だった。
「分かりました。結局は、菫って女の子が僕の前に現れて、僕の左腕を折って行った理由は深水葵ですね」
菫の発言はうかつなものが多かった。彼女は終始、浩と葵の関係について問うていた。浩と葵が恋人同士なのか、どうか。それはつまり――。「菫って女の子を糾弾することは深水さんを糾弾することに繋がる。だから、選べと?」
大森先生が病院側と浩の親に嘘を伝えている時点で、菫を庇っていることは明確だ。そうしなければ誰かが困るのだ。それは大森先生かも知れないが、菫の発言を加味すれば深水葵に違いないだろう。
浩が嘘をつかなければ葵が面倒な状態に陥るかも知れない。だから、選べと言うわけだ。菫を糾弾することで葵が不幸になるかも知れない。それでも良いか、悪いか。
答えは決まっている。
「大森先生。ひとまず今は、先生の話に乗ります。ただし後日、事情をちゃんと確認します」
「悪いな」言って、大森先生はしばらく視線を彷徨わせた後に続けた。「このまま深水葵の近くに居たら、また痛い目に遭うかも知れない。だから……」
分かっている。葵と一緒にいるだけで、目の前にマイナスドライバーの先端をちらつかされるのは勘弁願いたい。
「しばらく、深水さんとの勉強会は遠慮します」
安心したような吐息を漏らす大森先生に、浩は続ける。「でも、深水さんとの関係を切ったりはしません」
不思議なことだが、浩は葵の傍から離れたいとは欠片も思わなかった。確かに腕を折られるのも、マイナスドライバーで脅されるのも嫌だ。
けれど、それ以上に彼女の傍から離れることが嫌だった。葵の作る曲をもっと聞いてみたいし、浩の小説も読んでほしかった。この先、作品関係において葵以上の関係を築ける人と巡り会えるとは思えなかった。
それは恋や愛というよりも信頼に近い感情だった。
「ねぇ、宮内くん。君って、葵のコレなの?」
とわざとらしく大森先生は右手小指をぴんと伸ばして見せた。
「表現が古いですよ、先生」
◯
翌日、ギブスを嵌めた左腕を布で首から吊った状態で学校に登校した。浩の姿に気付いて、最初に声をかけてきたのはあずきだった。
「どうしたの、その腕」
「事故ったんだ」
「ふーん。車?」
「いや、神社の石階段を踏み外して」
「へぇ。全治何週間?」
「四週間」
「利き手じゃなくて良かったね」
「そうだね。ん、」ふと疑問に思って続けた。「田中さんって左利きだっけ?」
「基本的に右利きなんだけど、ギターを弾く時は左利きになるんだ」
「どうして?」
「なんとなくね。ちなみに葵は両利きだよ」
葵はギターであれベースであれ利き手を気にせず演奏できる。あの技術はどう考えても十五歳の少女のそれを超えている。
昨日の菫の騒動。大森先生の申し訳なさそうな表情に葵の秘密は含まれているのだろうか……。
葵が登校して来て浩の姿を見ると眉尻を下げて近づいてきた。
「おはよう、宮内くん」
「おはよう」
「その腕……、どうしたの?」
菫って女の子にやられたんだよ、と言ってみても良かった。けれど、あずきと同じ返答が口をついた。
「事故ったんだよ」
「そっか」言って、視線を少し横にずらした。「事故の後だし、今日の勉強会は無しにしよっか?」
「うん」
会話はここで終っていた。しかし、葵は自分の席に戻ろうとしなかった。「その、宮内くん。テストが全部終わったら、ううん、もっと先になるかも知れないんだけど。でも、その時に話したいことと聴いてほしい曲があるの。それまで待っててくれないかな?」
小さな声だった。
葵をまっすぐ見た。弱々しい不安でたまらないと言わんばかりの瞳だった。一瞬、菫のマイナスドライバーの先端が浮かんだ。
「もちろん、良いよ」
そう答えつつ、浩の僅かな躊躇が葵に伝わった気がしたけれど、彼女は柔らかく笑ってくれた。
◯
学校が終わると、その足で駄菓子屋へ向かった。岩田屋町のウィキペディアこと道子さんに相談する為だった。
困ったら私の所に来なさいと婆ちゃんは言っていた。
左腕を折られてマイナスドライバーを目の前でちらつかされて脅された。それでも葵の隣にいたいと思う現状を困ったと言わずしていつ言うのか。むしろ高校に入って今が一番どうすれば良いか分からなかった。
店内に入るとレジ前で婆ちゃんが本を読んでいた。
「浩じゃないか? ん? 腕、どうしたんだい?」
左腕を持ちあげて「困ったことになったから、相談しようと思って」と言った。
「なるほど」
婆ちゃんは奥へ一度引っ込んで、折りたたみ式のパイプ椅子を持ってきて浩の前に組み立ててくれた。
「じゃあ、話を聞こうかね」
「うん」
浩は葵のラクガキがあったことからはじめ、大森鏡のこと、そして菫という女の子に腕を折られ、脅されたことを順番に話していった。婆ちゃんは浩が喋っている間、感情の読み取れない薄い表情で浩を見つめていた。
話が終わった後、婆ちゃんはしばらく何も言わなかった。何かをじっと考え込んでいるようにも見えたし、逆に何も考えていないようにも見えた。
「婆ちゃん?」と浩は言った。
何度かの瞬きをして婆ちゃんは笑った。「話はよく分かったよ。そうか……、そうだね。お茶を淹れてくるから少し待っていてくれるかい?」
「うん」
と浩が頷くと、婆ちゃんは奥へ引っ込んだ。浩は見慣れた駄菓子屋の店内をぐるっと見渡して時間を潰した。左腕を折ってギブスになって不便は多い。しかし、どうしようもならないことは一つもなかった。あえて挙げるなら、ギブスの中が汗で蒸れてかゆくなるくらいだった。
大森先生に病院へ連れて行ってもらった日の帰り、左腕にギブスと顔にガーゼの姿を見て両親は驚いていた。けれど、事故の事情を説明する浩を見て、すぐに二人は落ち着いて行くのが分かった。
姉が死んで二週間眠り続けた挙げ句に車に轢かれた事態に比べれば、神社の石段を踏み外して左腕が折れるくらいは問題なかったのだろう。少なくとも浩の意識ははっきりとして、正常なのだから。
それだけで事故は防ぎようのないものだったと両親の間での了解があったようだった。
浩は両親に心配されて日々を過ごしている。だからこそ、マイナスドライバーで目を貫かれる訳にはいかない。
婆ちゃんが戻ってきて、お盆に乗ったお茶を受け取った。葵はどうしている? と言った。浩は熱いお茶を一口飲んでから「ラクガキのことは田中さんから聞いたみたいだったよ。それと、僕に話したいことと聴いて欲しい曲があるって。そう言っていた」
「そう」
婆ちゃんはお茶をすすった。「どこから話をすべきか少し見失っているんだけどね。まず、言っておくよ。今回、浩を脅した菫は確かに悪いことをしたよ。でも、許してやって欲しいんだ。子供は環境も親も選べない。あの子はああいう育ち方をしてしまった。それは葵もそうなんだよ」
「怒っている訳じゃないよ。だから、別に良い。でも、巻き込まれた現状で説明もなく納得しろってのは、ちょっと無理がある」
許せと言うなら幾らでも許すから事情の説明をして欲しい。なぜ、菫は浩を襲ったのか。なぜ、菫が葵に執心するのか。
「凄く遠回りな説明になるけれど良いかい?」
「良いよ」
婆ちゃんは皮肉気に笑った。「じゃあ、パズルの始まりのように外堀のふちから話して行こうかね」




