宮内浩 夏④
「なにあれ! ホントっ最低っ!」
ドトールを出てから、あずきが叫んだ。
それから駅の方へ二人して歩き出した。
浩はコーヒーにミルクが混ざっていくように考える。大森先生の印象を踏まえると、本当に葵と彼が不倫をしていたとしたら、彼の脇の甘さは里菜さんとのやり取りを見て分かる通りだ。他の生徒にも手を出していて、その子が葵と大森先生の関係を知って嫉妬からラクガキをした。安易な発想ではあるけれど、一番それっぽい。
しかし、疑問は残る。
「気は進まないけど。直接、深水さん本人に事情を聞くのが一番良い気がするね」
と浩は言った。あずきは横で不満げに頷いた。
「そうだね」
「ちなみに、田中さんの予想というか? 考えってある?」
「具体的にはとくに。ただ、ラクガキはどう考えても葵に対して悪意を持って攻撃してきているから。なんて言うか葵にとって言いにくいこと隠しておきたいことが、あのラクガキにはあるんだと思う。なんだか、私はそれが分かるのが怖い」
あのラクガキはあずきの言う通り葵を攻撃する意図で書かれたと思う。そして、おそらくその意味は葵本人にしか分からないように仕組まれている。浩たちがどんなに頭を捻っても疑問が残るのは当然だ。全てを明かすには浩たちからでは知り得ない情報がある。
その足りない情報は葵の知られたくなかった秘密かもしれない。あずきはそれが怖いと言う。
あずきの優先順位は深水葵だ。彼女が傷つく結果を回避するためにあずきは動いている。本当に優しい女の子だ。
「このまま犯人も原因も分からないままだと、もっと悪いことが起こるかもしれない」
あるいは、もう何も起こらないかも可能性もある。ただ、そんなラッキー頼みに賭けて良いのかと考えてしまう。
「うん、分かってる。だから、次の学校でちゃんと葵に話してみる」
「僕が話そうか?」
あずきが浩を見てニッコリ笑った。「ありがと。けど、大丈夫。ちゃんとできるから」
そう言われると浩は黙る他なかった。駅に到着して小さなロータリーを横切る時に声をかけられた。
「あれ、宮内くんじゃないか、……あ」
浩も同じように「あ」という顔をしてしまった。
隣であずきが不機嫌そうな声で言った。
「え、なんで宮内くんと知り合いなの? お父さん」
田中一郎の笑みは完全に凍り付いていたが、あずきは容赦なく続ける。「というか、『あ』ってなに? どーして宮内くんは呼んで、私のことは無視なの?」
「いやっ、目についたのが宮内くんだっただけで、……久しぶり。大きくなったなぁ、あずき」
「去年のクリスマスから、一センチたりとも伸び縮みしてはいませんけどね」
「ふ、雰囲気っ! 雰囲気が大人っぽくなったよ!」焦った一郎さんは余計なことをべらべらと喋りはじめる。「うん、なんだい? 好きな男の子でも出来たのかい? 年頃だねぇ。あ、もしかして、宮内くんが彼氏?」
「へぇ。そーいうこと言うんだ、へぇ」
あずきが更に冷たい視線を父親に向ける。「お父さんは、好きな女の人と出て行ったきりだもんねぇ。雰囲気がシブくなったよ。さぞモテるんでしょーね!」
「あ、いや、その、……も、モテません」
目の前で繰り広げられる親子の会話を聞いて、浩は一郎さんが不憫になって口を開いた。あくまで助け舟のつもりだった。
「そういえば、」田中さんと呼びかけて、これでは一郎さんと混同すると思って名前にする。「あずきさんが付き合ってるのって中谷くんだよね?」
物凄い勢いであずきが浩を睨んだ。
「宮内くんは何を言ってるの? 目は大丈夫? 眼科に行く? 近くにあったはずだよっ」
「いや、でも。クラスで噂になってるよ? 深水さんとも、あずきさんと中谷くんはお似合いだよね、って話をこの前したし」
葵っ――! とあずきが頭を抱えた後に浩の胸倉を掴んだ。「待って。いつ? いつから噂になってるの?」
あずきは力の限り腕を動かすので、浩の顔は前後ろにぐらぐら揺れる中で喋らなければならなかった。
「ゴ、ゴールデン、ウィークの終わりくらいに、中谷くんがあずきさんにハンカチとコンビニのスイーツを渡しているのを、皆が見ていて……」
「それだけで!? 小学生? 私のクラスメイトの頭は小学生で止まっているのかっ!」
「いや、そ、……その後に、六月に入ってから、中谷くんがあずきさんの名前を呼び捨てになって……。あ、付き合ったなって皆が噂してたよ。おもに守田くんが発信源で」
「ア、イ、ツかぁ~」
「で、この前、中谷くんの誕生日で、あずきさんがプレゼントをあげたって話になって。体育の着がえの最中に守田くんがさりげなく中谷くんに確認取ってた」
あずきは声にならない悲鳴をあげ、顔を真っ赤にしてその場にうずくまった。
浩と一郎さんは顔を見合わせた。
「我が娘ながら、分かりやすいな……」
ぽつりと一郎さんが言い、浩は頷いた。
あずきからは何の反応もなかった。
◯
田中あずきと中谷勇次は付き合っていない、と三回復唱することを浩と一郎さんがあずきに強要された土曜日が終わり、平和な日曜日を越えて学校が始まるとテスト週間に突入した。
浩は葵と一緒に勉強をする約束をしていて、放課後に下駄箱の前で待ち合わせした。今日、あずきは葵に噂のことを話すと言っていたが、結果は聞いていない。
知らないフリまではしないけれど、わざわざ尋ねるつもりもなかった。そういう曖昧な立ち位置の人間が葵の近くに居ても良いように浩は思っていた。
現実的な動きはあずきと眠る少女のあき先輩が担ってくれているのだし、実際に浩に出来ることは少ない。黙って成り行きを見守っていたって良いだろう。
「お待たせ」
先に下駄箱の前で待っていた浩に葵が言った。
「いえいえ」浩は荷物を持ち直して、葵が下駄箱からローファーを取り出してシューズを下駄箱に戻すのを眺めた。ローファーを履く為に少し屈んだ時に前髪が垂れて、手でそれを戻した。髪と髪の間に僅かにのぞいた耳が小さくて、可愛らしい感じがした。
「どうかした?」
と、葵が言って、浩はううんと首を振った。耳が可愛いねとは言えなかった。
「それで、どこで勉強するの? 婆ちゃんのところ?」
「一応、営業中のお店で勉強する訳にはいかないから、私の家でしよう」
「ん?」
「うん? どうかした?」
「深水さんの家で勉強?」
「そうだよ。何か問題があった?」
問題しかないような気もした。けれど、改めて考えてみると近所の図書館は勉強だけの利用を禁じていたし、学生だけで行けるカフェや喫茶店も隣駅まで行かなければならなかった。守田の家が喫茶店だと言う話だけれど、彼のところで勉強をするのには躊躇があった。
じゃあ浩の家と考えてみたが、父親と葵が会うかも知れないと考えると面倒だった。葵の家での勉強会は妥当だった。
浩と葵は二人並んで歩道を歩いた。途中でコンビニでジュースやお菓子を買おうとなって思い思いのものを買った。浩はミルクコーヒーとチョコレート。葵はロイヤルミルクティーとポップコーンを買っていた。
お菓子を買うなら道子さんの駄菓子屋へ行けば良かったねと葵が言って、浩は頷いた。
「そういえば、深水さんはずっと岩田屋なの?」
深い考えがあっての問いではなかった。
葵は浩の顔をちらっと見た後に言った。「中学一年の時にこっちに来たんだ」
「へぇ」
「宮内くんは、ずっと岩田屋?」
「うん、そうだよ」
言って、浩は黙った。意味ありげな空白だった。
浩は葵のことを知りたいと思う。けれど、葵が話をしたくないことまで聞くつもりはない。
「ねぇ、宮内くん。ちょっと変な話をしてもいい?」
「もちろん」
ここで葵が人はなぜ戦争をするのかと言った話を始めても浩は一向に構わなかった。もちろん、そんな突拍子のない話を何故、葵がはじめたのかについては後で考えたりするのだろうけれど。
「崩落したトンネルとかで真っ暗闇の空間に閉じ込められた人たちのことをテレビで見たのね。そういう事故からの生還体験みたいな番組」
「うん」と浩は頷く。
「それでね、そういう人たちが救出される時の映像があって、みんなタオルで目を覆って俯いて外に出てくるんだよね」
そのシーンは何となく想像することができた。
「真っ暗闇の空間に長時間いて、そこから明るい場所に出ちゃうと目に強い衝撃を与えてしまうからタオルで目を覆うって、考えてみると凄いよね。だって、私たちが居て当たり前の場所は日の当たる場所で、眠っている間は目を瞑っているけど、そういう時には別にタオルで目を覆って光から逃れる必要はないんだよ?」
うん、と浩は曖昧に頷く。
「人って、どんな悪い環境でも慣れようと思えば慣れるんだと思うんだ。それが当たり前になっちゃえば、意識さえしない。呼吸を常に意識しないようにさ」
葵はほとんど無表情に続ける。「それと一緒でね。岩田屋町に来る前の私はひどい場所にいたの。崩落したトンネルの中みたいな場所。それでね、そこにいることが私にとって呼吸と一緒くらい当たり前のことだった。でも、岩田屋町に来て、日の下に当たり前の世界があるって私は知ったんだ。知って、……けど、私はそれに上手く順応できなかった」
「うん」
分かると思った。葵の言う岩田屋町に来る前と来た後の変化を浩に置き換えるなら、姉を失う前と後だ。浩は葵とは逆で、姉がいる日常が当たり前と思っていて、日の当たる場所から陰りのある場所へと押し込まれてしまった。そして、浩もまたそれに上手く順応できていると胸を張ることはできない。
「だからなんだと思うんだけど、私は出鱈目に楽器を演奏するようになったんだ。ギターをマスターして、ベースを弾いて、ドラムを叩いて……。それが眠る少女に生きていると思うんだけど、未だにピアノには触れられないんだ。一番、弾いていたはずなのに」
そう言った後に、ここだよ、私の家と葵が指差した家には「深水ピアノ教室」という看板が掲げられていた。
深水ピアノ教室の先生は道子さんの駄菓子の常連客のほたるさんだった。深水ほたる。それが葵の母親の名前だった。
ほたるさんは近所の小学生のレッスン中だったので挨拶はできず、ただレッスン部屋の前を通る時に扉の小さなガラス越しに姿を確認しただけだった。葵の部屋に通されて、まず口にしたのがほたるさんの話題だった。
「うん。私のお母さん」
と、葵は頷くとお茶を取って来ると部屋を出て行った。一人取り残された浩は一つの違和感を覚えていた。うろ覚えだが、道子さんはほたるさんを姪だと言った。しかし、葵は道子さんをお婆ちゃん、確か正確には駄菓子屋をお婆ちゃん家だと言った。
どういうことだろう? と思ったけれど、わざわざそれを確かめたいかと言われると首を傾げてしまう。それは些細なことで深い意味などないのかも知れない。あくまでそれは関係性を表す名称でしかないのだから。
名称?
あ、と思った。今更、こんなことに思い当たる自分に腹が立った。あのラクガキ。
――深水あおいは美術教師の大森鏡と不倫している。
名称として平仮名のあおいは、眠る少女の名を指す。あずきはドラムのあきのことを「千秋」と呼んでいた。そちらが本名なのだろう。
あずき、あき、そして、あおい。それが眠る少女のメンバーの表記だった。つまり、あのラクガキは深水葵本人と言うよりも、眠る少女のメンバーのあおいに向けられたものだった。
けれど、だから何だと言うのだろう?
結成して半年ほどのバンドのボーカルでもないベースのスキャンダルをわざわざ朝の教室の黒板に書いて回ることに何の意味があったのか……。
「お待たせー、って宮内くん。さっきと同じ姿勢で直立状態ってなに? どーしたの? 私の部屋に何か気になることでも?」
おぼんにマグカップを二つ乗せた葵にそう言われて、浩は改めて部屋を見渡した。勉強机と箪笥、ベッドにガラスのテーブルに棚。そして、コンポにスタンドに掛けられたギターとベース。床に敷かれたマットが可愛らしいキャラクターものだったり、ベッドの布団のシーツが柔らかいオレンジ色の水玉模様だったりが、女の子らしい感じだった。
「同級生の女の子の部屋に入って、ちょっと戸惑っちゃって」
と浩は笑った。葵はガラスのテーブルにお盆を置いてから口元を緩めた。
「ドキドキする?」
「少し」と言って、本当に戸惑っている自分に気が付いた。
「あはは。宮内くんって時々、本気で言っているのかどうか分からない瞬間があるよね」
「そうかな?」
考えてみて確かにと思った。浩は場に合わせて発する言葉が本音だと認識する部分があった。だから、時々浩の発言は矛盾するし噛み合わなくなる。
「でも、小説では全部、本気で言ってるよね。曖昧なことを書かないって訳じゃなくて、本当に曖昧に考えてる。そういうところが好きだよ」
照れや戸惑いなく葵は本当にそう思っているのだと分かって、浩は居心地の悪いものを感じた。葵の言う好きに深い意味がないことが分かってしまったから。




