宮内浩 夏③
あずきからメールがあったのは翌日の夜だった。
その日は丁度、花音さんが浩の家で夕飯を食べる日だった。
花音さんの両親はどちらも夜勤のある職業で、時々どうしようもない理由で二人とも夜に家を空ける日が年に何度かあった。姉はそんな事情を知ってから彼女の両親が夜勤で両方いない日は宮内家に招待した。
その習慣は現在でも続いている。
夕飯の鶏肉とマカロニのグラタンを食べた後、浩らはリビングで母が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。話題は花音さんの通う大学の新聞部についてだった。
携帯が震えて見ると画面には「土曜日の昼十二時、黒芦町のドトールに集合」とあった。あずきからのメールだった。
浩が返信を打っている最中に、横で喋っていた花音さんがわざとらしくため息をついた。
「浩にも彼女ができる時期かぁ」
「ちょっ、違いますよ!」
こんな所でそんなことを言わないでくれ、と思ったがすでに遅かった。
「ほぉ、浩に彼女かぁ。ちゃんと家に連れて来るんだぞ」
父親がニヤニヤした顔で言ってウィスキーを飲んだ。酔っぱらいめ。
「私も会いたいなぁ」と父親の話に花音さんも乗っかってくる。
人を茶化す時の花音さんは少し子供っぽくなって浩は好きなのだけれど、今後父親が事あるごとにからかいのネタにしてくることを思うと憎たらしかった。
「違うよ。友達からメール」
「あー、中谷くんだっけ? 入学式早々停学になった」
「うん、そうそう。中谷くん」
中谷勇次と連絡先を交換していなかったが、浩はひとまず頷いた。
「なか、たに?」
その名前に反応したのは父親だった。
「なに? 父さん、知っているの?」
「んー」と父親が唸りはじめて、浩と花音さんは顔を見合わせた。こうなると父親は長い。コーヒーを飲み母が買ってきた新作のココア味のチョコを食べた。
「あぁ、そうだ。花音ちゃんのお父さんから聞いたんだ、中谷。英雄だって」
「英雄?」
花音さんが眉をひそめる。
「ほら、アイツの職業って危険じゃないか?」
父親の言葉に花音さんは頷く。「そうですね、消防士ですし」
「誰も行きたがらない危ない現場に率先して行く同期に、中谷ってのが居たって話をよくしてくれたんだよ」
そういえば、浩と花音さんの父親は今でも月に一回は一緒に飲みにいく仲だった。
「同期、英雄……」と花音さんは呟いた。
「なんでも、花音ちゃんのお父さんの憧れの相手だったらしいよ。同期だけど、唯一尊敬できる奴だって。酔っ払うとアイツはその話ばっかりして。でも」
僅かに父親の表情に陰りが差し込んだ。
花音さんが父親の言葉を継ぐように続ける。
「そう言えば、何年か前……。五年くらい前かな、父さんが葬儀に行ったのを覚えてます。新聞の小さな記事にもなってました。寝タバコで火事を起こした人を助けて、消防士が亡くなったって」
「そうだよ。殉職して、その時に三日三晩アイツの酒に付き合ったから覚えてる。アイツの英雄が、中谷だよ」と言って、父親はウィスキーの入ったグラスに口をつけた。「ただ、その助けられた張本人は二年か三年前に警察に捕まって、今は塀の中にいるらしいけど」
「それは、なんだか、……もどかしい結果ですね」
花音さんの言葉に父親は曖昧に頷いた。
父親が言った中谷が浩の知る中谷勇次と関係があるのか判断がつかなかった。ただ、理不尽だと思った。正しいことが正しい結果を出さない。そんな当たり前のことに浩は理不尽を感じた。
◯
黒芦町のドトールに到着したのは、十一時三十分だった。待ち合わせは十二時だ。少し早い気もしたけれど、店内で待っていれば良いと思い入店した。店内にはすでにあずきが座って待っていた。ホットコーヒーを飲みつつ文庫本を読んでいるあずきは絵になった。
CDを出すのなら、ジャケットの写真はこれで良いんじゃないだろうか。
浩がテーブルに近づくとあずきが顔を上げた。携帯で時間を確認してから「早いね」と言った。「田中さんこそ」と言って、テーブル席の向かいに荷物を置こうとして怒られた。
「宮内くん。何しているの?」
「え?」
「座るのは私の横だよね?」
と言って、あずきは奥に座り直して通路側のスペースをばしばしと叩いた。
「どうして?」
「被疑者を真向かいに置いて、問いただすのがセオリーでしょ?」
「そう、かな?」というか被疑者って。
「小説を書いているんだから知ってるでしょ? そうなの!」
確かに、浩があずきの真向かいに座った場合、隣に大森先生が座ることになる。そして、あずきが色々と問いただすのだとしたら、その横にいるのは気まずい。
しかし、その前に「ちょっと待って、田中さん。何故に僕が小説を書いていることを知っていらっしゃるので?」と疑問を口にした。
「え? 葵が得意げに喋ってたよ? 秘密にするつもりだったの?」
「いや、そんなつもりはないけど……」
婆ちゃんもそうだし葵もそうだけど、人のプライベートをペラペラ喋り過ぎだと思うし、言ったのなら報告してほしい。
「葵を夢中にさせるものが書けるなんて、宮内くん。本当に凄いと思うよ」
あずきは決して浩の方を見なかった。
「深水さんと喋った時、田中さんの誘いだったからバンドに入ったって言ってたよ。すごく信頼し合っている二人の関係の方が僕は凄いと思うよ」
ホットコーヒーの入ったカップをあずきは指でなぞって「うん。ありがと」と言った。目も合わせてこなかったから「注文してくるね」とあずきの横に荷物を置いて、テーブルを離れた。
ドトールはカウンターで注文しに行くシステムだった。レジカウンター前には大学生くらいの女性の店員が立っていて、浩が近づくと感じよく微笑んだ。浩はホットコーヒーを注文して料金を支払って、商品の乗ったトレイを持ってテーブル席に戻った。あずきは文庫本に視線を戻していた。
「何を読んでるの?」
「江國佳織の『とるにたらないものもの』」とあずきは言った。
「へぇ」
それから浩はあずきから本の話を聞いた。エッセイ集だと言う『とるにたらないものもの』は日常の些細な緑いろの信号、輪ゴム、レモンしぼり機、煙草と言ったものの著者の記憶と考えが描かれているらしかった。
「読んでいるとね、自分が如何に色んなものを見過ごして日々を送っているんだろうって。勿体ない気持ちになるんだよね」
「なるほど」
そんな話をしていると浩らのテーブルに近づいてくるスーツ姿の男性がいた。大森鏡だった。
「やぁ、待たせてしまったかな」
大森先生の手にはトレイがあって、アイスコーヒーが乗っていた。真向かいに腰を下ろし感じよく笑ったが、浩にはそれが少し作り物っぽく感じた。「あずきさん、お母さんは元気?」
「いつも通りですよ」
「それは良かった。えっと、それとあずきさんの隣の君は、ごめんね。まだ名前を把握してなくて聞いても良いかな?」
「宮内浩です」
「宮内くん。ありがとう。それで、今日はどういう要件かな?」
あずきがテーブルに置いた文庫本の角を撫でてから、真っ直ぐ大森先生を見据えた。「大森先生。葵、……深水さんのことなんですけどっ」
しかし、あずきの言葉は続かなかった。
「あれぇ? かがみんやぁん」
声は浩らの背後から聞こえた。あずきは振り向いたけれど、浩は一瞬で絶望的な顔になった大森先生に注目していた。先ほど作った笑顔よりも生々しく人間らしい表情だった。
テーブルの前で立ち止まった女性はギャル風の美人だった。年齢はぱっと見た感じでは分からなかったが、声から高校生、あるいは大学生くらいの印象だった。
「かがみん、あんた、この後のうちのイベント来るんやろぉ?」
美人の手には紙袋と財布だけが握られていた。おそらく何かの休憩時間にカフェへ寄ったのだろう。
大森先生は視線を彷徨わせた後に「……どちらさまでしょうか?」と言った。決してギャル風の美人とは目を合わせようとしなかった。
「あん? あんた、うちのこと忘れたんか? 中学生の頃の無垢な私をナンパして車に連れ込もうとしたやんか! 強引なヤツやなぁって思ったもんやで」
ん? と浩は大森先生を見た。
はぁ? とあずきも大森先生を見た。
「ちがっ、違いますやん!」変な関西弁で大森先生が視線をぐるぐる彷徨わせるが、結局はギャル風の美人を見て言う。「ナンパした無垢な俺を黒塗りの乗用車に誘導して、サングラスをかけた強面の男に脅させて財布を抜き取ったのは里菜さんじゃないっすか!」
「いやぁ。あの頃のうちはやんちゃやったなぁ」
「そんなレベルじゃないですよっ! あの手で何人の男の財布を引っ掛けたと思ってるんですか!」
「何人やったっけ?」
「俺が数えただけで二十人っ! 善良な市民を!」
「善良って、中学生のうちをナンパしている時点でアウトやねんって。まぁええわ。かがみん、うちのことを思い出してくれて嬉しいわ」
「ええ、嫌というほどに」
「ええやんか。財布を取った後、ちゃんとアドレス交換してやったんやから。いやぁ、男やって思ったよ。財布は取られても本来のナンパっちゅう目的は達成するっつー、その姿勢は嫌いちゃうよ」
里菜さんは大森先生の隣に座ると、紙袋から薄い冊子と財布をテーブルの上に置いた。薄い冊子は絵本のようだったが、表紙は手書きで制作されていた。書かれているものは見る限り花のようだった。
居心地悪そうな大森先生をよそに里菜さんは大森先生のアイスコーヒーにストローを刺して飲み始めた。浩はどうしていいか分からず、半分ほど減ったホットコーヒーに口をつけた。
「あー里菜さん、その絵本なんですか? ファンの子から貰ったプレゼントとかですか?」
大森先生は沈黙にも耐えられないという風に、里菜さんの手書きの絵本を指摘した。里菜さんは、そこで初めて優しげな笑みを浮かべた。
「これか? 弟が誕生日プレゼントにくれたねん。ええやろ。えらい上手に描けてるやろ! これで今年八歳やからな! 将来楽しみやで」
「そうですね」とぎこちなく大森先生が笑う。「表紙に描かれてるの花ですよね?」
「ん? そーや。これは、すずらんやな」
「へぇ。綺麗に描けてますね」
「やろぉー」
と里菜さんは得意げに胸を張った。
「というか、里菜さんに弟さん居たなんて滅茶苦茶意外です」
「そーやで。トップシークレットな情報やで」
「へぇ」
「あのっ」とあずきが里菜さんに声をかけた。
「ん? なんや?」
「あの、貴女は、大森先生とどういうご関係なんですか?」
里菜さんはニヤっと笑った。「あーやっぱ知らんかぁ。うち、Vシネマの女優をやってるんよ。で、かがみんはうちのファンやねん。熱心な、な?」
言って、里菜さんは指先で大森先生の頬を色っぽく撫でた。
「へぇ」と言う、あずきの表情は冷淡なものに変わっていた。
「ちょっと、あずきさんっ! 聞いて下さい! 本当、里菜さんの演技は凄く良くてですね、あのっ」
大森先生が言い訳を並べようとするのを遮って、里菜さんが喋り出す。「んー、それで、君らは誰なん?」
あずきは感情の籠らない声で言った。「ここにいる、変態ナンパ野郎が教員を務めている岩田屋高校一年、田中あずきと言います」
「同じく一年の宮内浩と言います」
里菜さんはストローであずきを指す。「へぇ。浩くんはええとして、あずきちゃんは気ぃつけやぁ。こいつロリコンやから」
大森先生が手を合わせて祈りのポーズを取った。「ほんとっ、ちょっ、里菜さん、マジで。止めてください!」
「なにを? 変態行為を? それはあんたやからな!」
と、里菜さんはけらけら笑い出した。
「ええ、まったくその通りだと思います!」
あずきは文庫本をバッグの中に押し込んで立ち上がった。通路側に座っている浩は一歩遅れて、あずきが帰ろうとしているのが分かって席を立った。
「待って! あずきさんっ! 本当に待ってください!」
「失礼します」
言うとあずきはさっさと出口に向かって行ってしまった。浩はあずきの後に続くほかなかった。
最後に振り返ってみると、大森先生は地獄に突き落とされたような暗い顔で沈んでいて、隣にいる里菜さんははしゃぐように笑っていた。




