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宮内浩 夏②

 宮内浩が困った状態に陥ったのは葵が音楽プレイヤーを持ち帰ってから二週間が経った六月中旬の朝だった。音楽プレイヤーの件があった後も、葵は学校内で普段通り過ごしていたし、七月の最初にある中間テストの勉強を一緒にやる約束もしていた。

 何事もない。平和な日々だった。けれど、何かは浩が見えない部分で進行し、ある瞬間眼前に露見する。当然みたいな顔をして。

 朝、教室に登校すると黒板に以下のように書かれていた。

 ――深水あおいは美術教師の大森鏡と不倫している。

 浩は教室の入り口で黒板の文字を見つめた。足がまったく動かなかった。

 深水、あおい? 美術教師? 大森鏡? 不倫? 単語が頭の中で入り乱れて収拾がつかなくなった。

 ただ、黒板にはよくないことが書かれていると浩は痛いほど理解できた。三十秒から四十秒ほど停止した浩はのろのろと体を動かして黒板消しを手にした。

 後ろで僅かな物音がした。振り返ると、田中あずきがスクールバッグを床に落としていた。呆けた表情から一瞬で沸騰するような怒りを露わにした。黒板消しは二つあり、浩が手にしていない方を取ってラクガキを消した。

 そして、教室を見渡した。登校している生徒は五名だった。誰もあずきを見ようとしていなかった。

「誰? これを書いたのは?」

 あずきの透き通る声が教室に響いた。しかし、誰も応えなかった。あずきは小さな吐息を漏らし、浩の手を取って教室を出た。手には黒板消しを握ったままだった。

「他のクラスにもラクガキがあるかも」

 言うと、あずきは挨拶もなく隣のクラスに入った。同様のラクガキが黒板に書かれていた。浩は手に持った黒板消しでそれを消した。一つのクラスは心ある生徒がすでに消してくれた後だったが、結果は一年生の教室全てラクガキがあった。あずきは二年生の教室にも確認しに行こうと言った。二年生の教室の黒板にラクガキはなかった。三年生の教室も同様だった。

「あれ? あずき、どうしのた?」

 三年生の一つの教室で、あずきに声をかける女子生徒がいた。一目見て、すぐに分かった。前髪を作っていて眉が見えない先輩。眠る少女のドラムをしている、あきだ。

「千秋ちゃん。あのね」とあずきがラクガキの説明をはじめた。

 浩はその横で周囲のいぶかしげな視線に晒されながら一つの疑問を抱いた。『あき』じゃなくて、『千秋』? 

 あずきが話を終えると、あきは少し考えるように腕を組んだ。安定感のあるドラムを叩く人だから何となく体つきもしっかりしているのかと思ったけれど、予想に反して細身な印象だった。

「心当たりはないけど、とりあえず少し動いてみるね。何にしても良い話じゃないのは分かったから」

「お願い。私も、幾つか当たってみる」

 あきと別れて一年の教室に戻る間の階段で、あずきはふと立ち止まって浩を見た。

「ねぇ、宮内くん。葵にこんなことをする人に心当たり、ある?」

「ないよ」

「今から、凄く失礼なこと言うよ」

「なに?」

「ラクガキ、宮内くんじゃないよね?」

 動揺はなかった。あずきの立場で考えれば浩は容疑者の一人に数えられるし、もしかすると最も疑わしい人間に思われているかも知れない。

 浩はここ最近、葵と親しくなった男子だ。ラクガキの事実が本当だったと知り、嫉妬に狂ってラクガキをするかもとあずきに思われても仕方がない。

 分かりやすい図式ではあるけれど。

「違うよ」

 あずきが視線を外した。「……ごめん。不快な質問をしたね」

「いいよ。ちなみに、田中さんに心当たりは?」

「ない」と言ってから忌々しそうに眉を寄せる。「でも、絶対に犯人を見つけ出すから」

 浩はぼんやりする頭の中で一つの違和感を覚えていた。しかし、それが確かな形に定まらなかった。

 葵と教師が不倫している。

 それが本当だったら、どうする? 違和感とは別の何かが浩にそう問いかけていた。ラクガキなんて幼稚で、どうしようもないことを浩はしない。

 けれど、じゃあ何をする? と言われれば何もしない。

 浩と葵は良い友人であり、お互いに作品を通して刺激し合える同志が精々だった。葵が誰と恋愛をしようと、そしてそれが彼女にとって触れられたくない話題であるならば、浩は何も言えない。

「宮内くんっ!」

 耳元であずきが叫んでいた。浩は彼女の方を見た。「呆けてる場合じゃないよ。宮内くんも手伝ってよね、犯人探し」

 断る理由はなかった。


 ◯


 大森鏡。

 美術教員。部活顧問は美術部と漫画研究部の二つ。授業はユーモアを交えながら分かりやすい。一時期、やたらとヌードモデルについて話をしていたので、美術部員の中では「ヌー」というあだ名がつけられた。

 外見は細身でスーツが良く似合い清潔感がある。

 去年の学園祭でドラキュラの仮装をしてギターを弾くパフォーマンスをした。それが生徒に留まらず、教師陣にも好評だった。

 

 というのが、同じ教室の美術部員から聞いた情報だった。

 一年生も週に一回美術の授業があるため、浩も大森先生の顔は知っていた。ただ、個人的に喋ったことはなかったし、目立った噂も聞いたことはない。

 葵は浩とあずきが学校中の教室を回った後に登校してきた。ラクガキを見たクラスメイトには、あずきが口止めをしていたので教室で葵の耳に噂が入ることはないだろう。少なくとも葵の隣にあずきがいる間は。

 昼休みに入り浩は守田に大森先生のことを尋ねてみた。

「大森? あー何だっけ? 母親が写真家とかで日本中飛び回っているって聞いたことあるぞ」

「写真家?」

「そうそう。大森鏡だろ? 何度かウチに飯食いに来たことがあって、その時に話してたのを聞いたわ」

「何にしても守田くんの家ってコーヒーだけを飲みに来る人って少ないのね」

「いや、いるって。彼女の仕事が終わるを待っている彼氏とか、娘に漫画好きって思われたくないお母さんとか、そーいうの」

「へぇ」やけに具体的だ。

「まぁ大森は教師をやっているのか謎なヤツだよ」

「というと?」

「ギター弾くのやたら上手いし漫画も描けるらしいし、子供の時にアメリカに住んでいたとかで英語も喋れる。なんだろーな、モテる要素を兼ね備え過ぎててムカつくよな!」

 そして、学校では生徒と不倫。

 と思い浮かんで違うと否定した。ラクガキは誰かの悪意によって発せられた言葉だ。火がないところに煙が立たないとしても、その正確な意図を読み取らずに悪意だけを掬い取る訳にはいかない。

「で、浩。なんで、大森?」

 守田にそう言われて、「んー美術部に入ろうか悩んでて」と咄嗟に答えた。

「は? セイブツ部を断った理由って、もしかしてそれか?」

「いや、違うけど」

 浩がセイブツ部を断った理由は葵に僕が小説を書いている理由を話すための時間が欲しかったから。そして、今は小説を書きたいから。けれど、「遠からずかも」と言った。

 結局、浩は葵と関わりたいがためにセイブツ部の入部を断っていた。それほどに葵が語った小さな部屋の話や彼女が作る曲に浩は惹かれていた。


 ◯


 放課後になって、あずきが浩の席に近づいてきた。

「次の土日どちらか空いてる?」

「予定はないよ」

「よし」とあずきは満足そうに笑った。「じゃあ、そのどちらかで大森先生を呼び出すから一緒に来て」

「呼び出せるの?」

「大丈夫、大森先生と私、学校外で面識があるから、一応」

「へぇ。なに繋がり?」

「お母さん」

「なるほど」

「だから、お母さんに頼んでみる」

「お願いします」と軽く頭を下げてから口を開いた。「ちなみに、田中さん」

「ん?」

「大森先生って結婚してどれくらいなんだろ?」

「長いはずだよ。男のお子さんもいるはずだし」

「幾つか知ってる?」

「んー、そこまで知らないや。とりあえず宮内くん。連絡先、交換しよう」

「うん」

 携帯を取り出す。「ねぇ、田中さん。もう一つ良い?」

「なに? 質問ばっかりだね」

「分からないことが多いから」

「まぁそうだね。それで、なに?」

「深水さんに何か心当たりがあるか聞いた?」

 あずきは少し表情を曇らせた後に「ううん」と言った。

「そっか」

 浩も葵に何も言っていなかった。何を口にすればいいのか想像もできなかった。


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