宮内浩 夏①
田中あずきの父、田中一郎とメールのやり取りをはじめて一週間が経った。一郎は六畳一間の部屋に一人で住んでいて、路上ライブと居酒屋で一人酒を飲むことを楽しみに日々の生活を送っていた。
「奥さんや娘さんと住みたいとは思わないんですか?」
とメールで尋ねると「住みたいけど多分、今戻っても上手くいかないんだよ」と返信があった。それから初めて一人暮らしをした青年のような報告のメールが送られてくるようになった。炊飯器の色を黒にするか白にするか。近所のスーパーよりも隣町のスーパーの方が野菜が安かったなど。
クラスメイトの女子の父親となんてメールのやり取りをしているんだろうと思うけれど、宮内浩はそれを結構楽しく感じてもいた。気楽に何でも喋れる年上の男性との関わりは初めてで新鮮だった。
一郎さんはメールで浩の日常を聞きたがった。最初はあずきのことを窺い知ろうとしているのかなと疑っていたが、途中からそうではないと分かった。一郎さんは単純に浩の話を聞いて過去の自分の学生時代を懐かしみたいだけのようだった。
浩は、ふとした拍子に高校受験の会場で音楽プレイヤーを拾った話を一郎さんにメールした。音楽プレイヤーのピアノ曲のことを説明しようと考えた時、眠る少女のメロディにありそうなという言葉が浮かび妙に納得してしまった。
毎日浴びるように聴き続けたから、そう感じるだけなのかも知れない。けれど、確信めいた直感があった。
受験会場で音楽プレイヤーを落としたのは、深水葵なのかも知れない。
◯
六月の最初の月曜日。浩は葵との約束――宮内浩は何を思って小説を書いたか、を伝えるために駄菓子屋を訪れた。前回同様、葵はカウンターに一人座っていた。
「やぁ」と葵が言った。
「やぁ」と浩も言った。「婆ちゃんは?」
「喫茶店に行くって」
「気を使ってくれたのかな」
「さぁ。ただ行きたかっただけかも」
葵はギターを取り出して一曲弾きはじめた。『朝七時と月曜日のミホ』だった。月曜日の朝だけは両親が朝早く仕事へ行ってしまうので、学校の支度と朝食を一人でとる小学生の女の子の話。母が用意してくれた朝食の横に父がいつも食べるヨーグルトを置いて、手を合わせる。そこに不眠症のフクロウが訊ねてきて……というシーンから書けなくなった。
浩が書く小説には二つの共通点があった。それは視点人物が女の子であること、奇妙な動物が現れることだった。
姉が昔に語ってくれた話の多くには変わった動物が登場した。それらは青い長靴を履いたペンギンや掌サイズの象など現実ではあり得ない動物だったが、姉は楽しげに語ってくれた。
宮内浩が何を思って小説を書いていたのか?
と問われれば、多分その姉が作り出した世界だった。
葵の『朝七時と月曜のミホ』の演奏が終わった後、浩は姉が昔してくれた話をした。細かな、おそらく何の関係もない当時の情景も交えて浩は喋った。
口を動かしながら浩は自分の話がどこで終わるのか分からなかった。ただ、思いつく限り続け、そして何のきっかけもなく終わった。浩の小説のように余韻も結論もない唐突な締めくくりだった。
話を聞いてくれた葵は何も言わず、ギターを弾きはじめた。ゆっくりとした柔らかな曲だった。演奏が終わった後、浩は拍手した。
「なんて曲?」
「んー、今浮かんだメロディだから、名前は無いかな」
と言う葵は自然な感じで浩は感心してしまった。
「凄いね、即興で作れちゃうんだね。深水さんは昔から曲作りをしたりしてたの?」
「ううん。殻に籠ってた頃には本当に何も作ったりできてなかったよ。どうして?」
「演奏がとても上手だから、なんとなく」
「あー」と葵は僅かな苦笑いを浮かべて「音楽は楽譜通り演奏できるのが良しとされる世界だから、オリジナルが評価されたりはしないんだよ。少なくとも私が居た世界では」と言った。
「今とは違う世界だね」と浩は言ってみた。
葵がニコリと笑った。
「そうだね。でも、多分すぐ隣の世界なんだよ」
「そうなの?」
「うん」
葵の言う通りそれは隣にあるのかも知れない。逃れることは叶わず手持ちのモノで何とかしないといけない世界。
中学一年になった頃の浩は姉を失った世界など想像もできなかった。しかし、今浩が生きる世界に姉はいない。いつの間にか浩は姉のいない世界へと突き落とされて、戻る術を失った。
それでも浩は自分で考えて生きていくしかない。
パズルのピースを繋いで行くように。あるいは、一つの木を育てるように。浩はポケットから古い音楽プレイヤーを取り出した。
「これ、深水さん。見覚えある?」
葵は浩の手元の物を見ても特に表情を変えなかった。
「見覚えはないかな。音楽プレイヤーだよね? どうしたの?」
違うのか。少し意外な気持ちになった。
「岩田屋高校の入試の時に拾ったんだ、この音楽プレイヤー。で、失礼かもと思いながら、中の曲を聴いてみたんだよ」
「うん」
「全部ピアノ曲で、録音されたものっぽくてタイトルもないんだよね。僕はあんまり音楽に詳しくなくて、ピアノ曲が既存なのかオリジナルなのかも分からなくて」
「じゃあ私は、それを聴いて、何の曲か当てれば良いの?」
言って葵は少し笑った。
「そうしてもらえると嬉しいんだけど。なんとなく……」と浩は口にして言葉を探した。唇を少し舐めてから続ける。「眠る少女のメロディと、そのピアノ曲が似ている気がしてて。底の方で繋がっているって言うのかな。曖昧な感覚なんだけど。既視感みたいなものを二つに感じたから、この音楽プレイヤー、深水さんのだと思ったんだよ」
「なるほど。でも、私のじゃないなぁ」と言ってから、葵はギターを置いてレジカウンター越しに手を差し出した。「ねぇ聴かせて。宮内浩くんが眠る少女と似てるって言う音楽を」
◯
葵がイヤホンで耳を塞いで音楽プレイヤーを聴いた時間は十分か二十分だった。普段、感情豊かに表情を変化させる葵が、その数十分の間で白い石膏像のような冷たいものへと変わっていた。
「ねぇ、宮内くん」
硬い声だった。
「なに?」
「これ、貸してもらっても良い?」
「良いよ」と断る理由はなかった。
「ありがとう」と言うと葵は立ち上がって靴を履きレジカウンターを離れ、浩の横を通り過ぎて出入口に手をかけた。「宮内くん」
「なに?」
「私は、宮内くんに対して正直でいたいの。嘘とか誤魔化しとか、したくない。そういう部分で楽をしたくないって言うのかな」
「うん」
浩も葵に嘘や誤魔化しを伝えたくなかった。それは回り回って浩が書く小説に対して嘘をついて誤魔化すことになる気がするから。
「だから、この音楽プレイヤーについて。ちゃんとしたことが喋れるようになったら言うから。それまで待ってて」
やっぱり葵の表情は白く温かみに欠けていた。
「分かった。待ってる」
「ありがとう。じゃあ、明日。教室で」
「うん。明日」
葵が駄菓子屋を出ていくと、浩はしばらく呆然と駄菓子屋の店内を歩き回った。入試の時に拾った音楽プレイヤーは葵の物ではなかった。
けれど、葵は音楽プレイヤーの中に入っている曲に心当たりがあるようだった。それだけでパズルのピースとしては上等だろう。
店内を歩くのに飽きると浩は靴を脱いで駄菓子屋のレジカウンターの内側に座った。畳の上に座布団が敷いてあり、葵が置いて行ったギターが右の壁に立て掛けられてあった。後ろには家に繋がる廊下があって薄い青色のカーテンにより、その先は確認できなかった。
仰向けに寝転がると視界には木造の天井が広がった。
目を瞑って浩は思い出せる限り、拾った音楽プレイヤーのピアノ曲を口笛で吹いてみた。四曲目を吹きはじめたところで出入口のドアが開く音がした。
「あれ? 誰もいないのかい?」
婆ちゃんの声だった。
「いるよー」とややくぐもった声で浩が答えた。
「浩だけかい? 葵は先に帰っちゃったの? ん? んー、浩。葵にエッチなことでもしようとしたのかい?」
体を起こして浩は婆ちゃんを見る。「思春期男子の頭の中がそれだけだと思うのは偏見だと思う」
「そうは言っても男性は九十秒に一回はセックスのことを考えて、九十分に一回は勃起するらしいじゃないか。若い男性に関しては九十秒に一回勃起している強者もいるって言うしねぇ」
「岩田屋町のウィキペディアに、その情報って必要?」
「何かで読んだんだよ。実際に測った訳じゃないよ」
測っていたらびっくりだよ。「何にしても、性欲なんて個人差あるし。実際そうだったとしても、僕が深水さんにエッチなことをしようとしたってのは、ちょっと強引だよ」
「そうだねぇ。まぁ冗談だよ。浩にエッチなことができる度胸があるとも思っていないよ」
それはそれで、なんだか釈然としない。もちろん、そんな度胸はないけれど。
「で、葵は何で帰っちゃったんだい?」
浩はざっくりと音楽プレイヤーの話を婆ちゃんにしてみた。話を聞いた婆ちゃんは少し難しい顔をした後に「なるほどねぇ」と呟いた。
「何か知っているの?」
「大抵のことは知っているんだよ」
「それは岩田屋町を?」
「私のパズルが広がっている部分まではね」
ピースを選び繋いで行き、広がった模様が人生だと婆ちゃんは言った。つまり「婆ちゃんが知っているのは、自分の人生について、ってこと?」と浩は言った。
「そうだよ。私は私のことを知ろうとすることで百科事典のような知識を得たんだよ」
「本当に?」
「今になって思うのは百科事典は言い過ぎだね」
「なるほど。でも、婆ちゃんは深水さんが音楽プレイヤーを持って帰っちゃったことに心当たりがあるんだね」
浩の言葉に婆ちゃんは頷いた。
「前も言ったけど、私が色々言うよりも浩が思った通りに動く方が良いんだよ」
「うん」
「そして、困ったら私の所に来なさい」
浩は更に頷いた。




