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守田裕 春②

 中谷勇次が初めて学校内で騒動を起こしたのは中学一年の冬だった。十数名にのぼる野球部の部室に赴き、真正面から喧嘩を売った。当時の勇次は素人よりも少し喧嘩が強い程度だった。数で来られれば当然、負ける。

 それでも勇次は力が余す限り、野球部の連中を殴り続けた。当時の勇次の後ろ姿を守田は明確に思い出すことが出来るし、死ぬ直後でさえその鮮明さを失わない自信があった。

 勇次が野球部に喧嘩を売った理由は二年の先輩、井出彰だった。井出先輩は野球部の四番バッターで他校にも名を響かせる有名人だった。

 当時、野球部に縁がなかった守田にしても井出先輩の評判は聞き及んでいたから、その実力は本物だったのだろう。彼らの試合を初めて見たのは中学に上がったばかりの春。他校との練習試合でだった。

 好きな女の子が野球観戦が好きだと言うので引っ付いて行った。試合より隣の女の子の唇の方が気になっていた守田でさえ途中から違和感に気づいた。

 四番バッターの井出先輩の番はいつもあからさまな敬遠だった。

 試合中、一度もバットを振ることなく塁に出る井出先輩の表情に感情の色はなかった。

 他校にまで名を轟かせる井出彰がしてきた何千何万という素振りは試合という大切な場所では不発に終わる。野球というスポーツの不条理さがそこにあった。当然、その井出先輩を生かすチーム編成が成されていれば、試合は良い方向へと進むはずだ。

 しかし、井出先輩以外の野球部のメンバーはお世辞にも上手いとは言えなかった。

 守田は試合の翌日から放課後の野球部の練習を眺めるようになった。一日見て二日目も見たところで、まともな練習ではないと理解した。

 顧問の先生は基本的に放任しているのか、最初と最後に少し顔を出すだけ。練習を仕切っているのは三年生だが、彼らは威張るばかりでキャッチボールさえまともにしない。

 練習を眺めはじめて四日目で守田は確信した。三年生は野球をしに来ている訳ではなく、下級生を苛めてストレスを解消しに来ているだけだ、と。

 とくに井出先輩への当たりは強く、フリーバッティングのピッチャー役を二時間以上、ぶっ通しでやらせていたのを見た時には狂っていると真剣に思った。同時に、井出先輩のピッチャーフォームが綺麗で整って恰好よくも見えた。

 守田はクラスメイトの野球部に井出先輩のことを尋ねてみた。すると、井出先輩はピッチャーとしての才能もあるらしかった。少なくとも今のピッチャーよりも。

 ただ、野球部内は実力主義ではなく年功序列というシステムがしっかりと整備されており、それを突き崩す打開策はないに等しかった。そのため、現在の三年生の引退を待つ他なかった。

「そーなると、井出先輩が四番バッターなのはおかしくねぇか?」

「井出先輩を四番バッターに指名したのは去年の卒業生だったんだよ」

「なるほど。じゃあ、井出先輩って一年の時から四番なの?」

「そうだよ」

「すげぇな、おい」

 一年からスタメンとは聞いていたが四番とは。

「今の三年生が野球部を仕切り始めた時、もちろん井出先輩を四番バッターから外すっていう話は出たみたいなんだけど。井出先輩は他校の生徒にも注目されていて、できなかったみたいだな」

「つまり、三年生は外面を気にするタイプってこと?」

「今度、練習試合の他校との交流を見てみろよ。笑うぜ。超社交的だから」

 そんな矢先だった。野球部の三年生が部室で喫煙していたのが見つかり、停学と部活禁止になった。三年生には不満の声があがった。というのも、本来であれば教師が訪れるはずのない時間帯での発覚で、誰かの告げ口であることは明白だった。

 とはいえ、喫煙の事実は動かない。彼らは停学となり高校の推薦枠も煙草の煙のごとく消えてしまった。ざまあみろ。

 野球部は夏の大会を二年生を中心とした、つまり井出先輩を中心としたチームで挑むこととなった。結果は初戦を楽々勝ち調子をつけた二試合目三試合目をこなし、県大会へと駒を進めた。

 守田は予定の合う試合には全て赴いて観戦した。

 井出先輩のプレーは素晴しかったし、彼を信頼する同級生たちの一つ一つの動きはぎこちなくとも迷いはなかった。勝ちたい。三年生がいる頃には欠片も感じられなかった感情が、彼らの試合にはあった。

 勝てば皆で喜び負ければ皆で泣く。そういう分かりやすい青春がそこにはあった。守田は彼らの清々しいシーンを見るだけで大満足だった。

 見たか! 三年の猿山の大将ども!

 しかし、素晴しい青春の栄光は線香花火の灯よりも短かった。夏が明けると野球部にあった活力が、そぎ落とされていった。原因は停学した三年生たちによる執拗な嫌がらせだった。彼らに野球の才能は無かったが、何かを台無しにする才能には恵まれていた。

 三年生は学校外での部員に対するパシリ行為からはじめた。物を買ってこさせ遅れれば罵倒した。当然、三年生は金を払わなかった。買わせるものはアダルト雑誌、酒、煙草、オナホール、生理用品、女性用の下着、およそ男子高校生では買えないものばかりだった。

 次に訓練だと言って一人の部員と自らが飼っている犬を喧嘩させた。犬が虫の息になるまで彼は殴ることを止めさせてもらえなかった。一度でも手を抜けば三年生は野球部員の腹をバットで殴った。

 そのようにして三年生は井出先輩以外の全ての部員を恐怖で手懐けていった。不登校になった野球部員が三名出て、その三名の家には野良猫の死骸が庭に投げ込まれた。

 誰も三年生から逃げ出すことはできなかった。ただ唯一三年生を機嫌よくする方法があった。それは井出彰を虐げることだった。

 野球部員は毎日必死に井出先輩の下駄箱を汚し、スクールバッグに入った教科書をカッターナイフでずたずたにして、体操服をペンキで汚し、筆箱を男子トイレの便器の中にブチ込んだ。

 三年生は井出先輩に対する所業を聞く度に喜び、その日だけは部員たちをいびることなく称えて飯を奢った。

 ファミレスの席で一人の部員が、もうやめたいですと零した。心の底からの本音だった。三年生から笑顔が消えた。やめたいと言った部員の席は通路側ではなく奥だった。三年生の一人、梶原富也が言う。「お前さ、溜まってんじゃね? ここで抜けば?」「え?」「ここで抜けって」「ぬ、く?」「オナニーしろって、言わせんなよ。恥ずかしい」梶原はまったくの無表情で言い、三年生たちが笑った。

 オナニーしろと言われた部員は泣きそうな顔で俯いて謝った。「なに言ってんの?」梶原が更に言った。「すみません、ごめんなさい、申し訳ありません、許してください……」「良いから、良いから。溜まってんだろ? な? すっきりしろって、ここで」「本当、すみません。ごめんなさい……、それだけは」「なに? お前、まだオナニーもしたことねーの? じゃあ、横のヤツ。お前、手伝ってやれ」「え?」隣に座っていた同級生が、絶望的な表情を浮かべる。「お前、スケベそうだもんなぁ。知ってるよな、オナニー」「ほら、やれって。横でちょっと色っぽい声をあげてやれよ」「良いなぁ、初めてだしな。そーいうアフターケア大事」

 結局しろと言われた部員は嗚咽を漏らしながら一人で事をはじめた。イクまで三年生は決して許さなかった。少しでもしごく手を緩めれば彼の足を蹴り、彼の隣の部員の頭を殴った。精子を空いたグラスの中に出させ、そのグラスにお冷を注ぎ「飲め」と梶原は言った。自分の精子を薄めた水を彼は泣きながら部員は飲んだ。

「よし。で、なにをやめたいんだって?」

 誰も何も言わなかった。

 翌日、部員たちは井出先輩を体育館裏に呼び出しリンチにした。誰も躊躇しなかった。今の恐怖から抜け出せる方法は、井出先輩を痛めつけることしかなかった。少なくとも支配され、追い詰められた彼らの思考回路はそのように作用した。

 井出先輩は長い時間の暴力によって肩が脱臼し、右手の中指が上を向いて折られ、左足のふくらはぎにカッターで『死ね』と彫られ、歯が三本地面に転がっていた。虫の息となった井出先輩の左腕を体育館の排水パイプに手錠で繋いだ部員たちは安心したような吐息を漏らして、その場を後にした。

 日が暮れても井出先輩は発見されず、声を出せないまま放置された。永遠のような二時間が経った後、彼に声をかける存在が現れる。野球部員を恐怖で支配した三年生たちだった。彼らは井出先輩をゴミでも見るような目で見つめ、汚い靴底で何度も踏みつけ彼の衣服を全て挟みで切り裂き、灰皿だと言って彼の素肌に煙草の火を押し付けた。

 呼吸することがやっとな井出先輩の髪を掴んで、一人が言う。

「なぁ。俺らが煙草吸ってんの、チクったのお前だよなぁ?」

 井出先輩は答えない。答えられない。

 一人が彼の足の親指の爪をトンカチで割る。井出先輩の目が見開かれる。「おい、答えろよぉ? おーまーえーだーよーねぇ?」「そのおかげでさ、俺ら高校の進路は最悪ですわ」「全員、推薦は取り消されてさぁ、教室でも不良扱いだよ?」「分かる? 頭の悪い奴って扱いされる屈辱」「中学三年の夏前に喫煙、停学は確かに馬鹿ですわ」「なぁ、お前が、俺らを売ったんだよなぁ?」「ちょっと野球が出来るくらいで、優越感に浸って俺らのことを馬鹿にしてんだろ?」「答えろって。爪、全部割ってくぞ?」

 トンカチを持った三年生が腕を上げた瞬間、何かが周囲に轟いた。何かは、もう一度あった。それが声であり獣のような雄叫びだと彼らは二度目で理解した。おおよそ人の声に聞こえない猛獣の憤怒だった。

 三年生全員が声の在りかを探す。また空気が震えた。木々がざわめき鳥肌が立つ轟。彼らは同時に一点を見る。

 体育館裏に通じる道を歩いてくる、一人の少年。

 中谷勇次。

 その名を誰も口にしない。彼らはその悪魔の名を知らない。知らないが故に彼の姿から目を離せない。

 勇次はまた空気を肺に注ぎ込み、叫ぶ。威嚇する猛獣のようにも見えるが、その動きは酷く緩慢だった。

 ゆっくりと焦らすように彼は三年生たちとの距離を縮めて行く。次第に勇次の姿が鮮明になっていく。一人が息を飲むと同時に全員がそれに気付く。

 暗がりの中で、揺らぐことなく浮かんだ中谷勇次の眼光。獲物を捕らえて離さない目。狩る側と狩られる側はこの瞬間に決した。

 三年生全員が勇次に背を向けて立ち去った。捨て台詞一つなかった。勇次は井出先輩の左手首にかけられた手錠を近くの石で破壊した。そして、彼を背負って近くの病院へ運んだ。

 最初に駆けつけたのは優子さんだった。

 勇次は優子さんに言われて井出先輩を探していた。彼ら二人が住む家の近所に井出先輩の家はあった。優子さんは近所付き合いが良く、井出先輩の両親とも面識があった。勇次と井出先輩が同じ中学に通っていると知ると近所付き合いは親しい交流となり、時々両家で夕食の席が設けられるようにまでなった。

 問題の日。井出先輩の帰りがあまりにも遅いことを危惧した両親は優子さんに連絡をした。優子さんは勇次にも探すように言った。

 勇次は井出先輩のことを悪く思っていなかった。少なくとも何か一つのことを頑張っている人間を勇次は尊重していたし、場合によっては尊敬に近い感情を抱いた。それは両親に起因する感情らしいが、勇次は過去のことを詳しく語ろうとしないため、守田は知るよしもない。

 何にしても勇次は井出先輩側の人間だった。

 勇次は翌日、学校で先輩をリンチした三年生の一人を捕まえて事情を尋ねた。その時、守田も横にいた。三年生はニヤニヤ笑ってとぼけて見せた。人を馬鹿にした余裕のある笑みだった。勇次は三年生を人気のない廊下の隅に引きずって行き、彼の足を踏んで鳩尾を突然殴った。態勢が崩れた三年生の足を離さないまま、顎に一発。そして、彼の耳をひっぱり勇次は小さな声で告げた。

「耳引きちぎるぞ」

 それが単なる脅しでないことは隣にいる守田にも分かった。三年生はしばらく喋れる状態ではなかった。彼が息を整える間に勇次は三年生の耳の中に人差し指を突っ込み爪を立てる。耳の中から血が一筋垂れてくるのが分かった。

「……っ、! やめ、……てくぅれ。話す、話すから」

 全てを聞いた後、守田は考え込んでしまった。

 梶原富也を筆頭とした三年生は間違いなく悪い。けれど、その先は? と考えてしまう。

 二年生、一年生を可哀相に思うし、井出先輩をリンチにかけたのも(もちろん悪いけれど)仕方がないように思った。彼らも井出先輩同様、被害者だと言えてしまう。

 しかし、勇次は迷わなかった。

「は? 野球部全員、殴りに行く?」守田は勇次の提案に耳を疑った。「でも、アイツ等も被害者じゃねーか?」

「被害者? なに言ってんだよ? 脅されようと支配されようと井出先輩をリンチしたのはアイツ等だぞ? 殴られる覚悟くらいしてんだろ?」

「いや、でも、どうしようもねぇじゃねーか?」

 三年生の、とくに梶原の支配は執拗で容赦がなかった。それを責めるのはあまりにも酷だ。

「暴力に支配されて家畜になった時点で楽をしてんだよ。それって弱さを言い訳にしてるってことだろ? じゃあ、殴られたって仕方ねぇよ」

「仕方なくねぇよ」

 その瞬間、勇次は足を止めて守田の目を見据えた。醒めた視線だった。「それ、分かんねぇわ。仕方ねぇのかも知れない。でも、俺はアイツ等を殴る。そーしねと目覚めが悪いだろ?」

 守田は何も言えなかった。

 放課後。勇次は野球部の部室に乗り込み、その場にいた十名以上の部員に対し啖呵を切った。部員たちの大半がぼんやりとした表情を浮かべていた。手近の眼鏡の部員を勇次は殴る。部員は受け身も取れずロッカーにぶつかった。

「おいっ! 腑抜けてんじゃねぇぞ。俺はお前等に喧嘩売ってんだよ」

 言うと、一番背の高い部員の腹を靴の底で蹴った。肺の空気を吐き出す声の後に、部員は子供が癇癪を起したような出鱈目な叫び声をあげて勇次に食ってかかった。それに続いて他の部員も勇次に向かった。数で来られれば勇次に勝ち目はない。殴られ蹴られ汚い床に転がる。けれど、勇次は止まらない。すぐさま体勢を整えて、身近にいる部員を殴る。

 混戦した部室の入り口で守田は一つのことを確信した。

 中谷勇次は馬鹿だ。

 救いようがない大馬鹿野郎だ。勇次はこの後に及んで、彼らは殴られることで目が覚める。改心すると思っている。目覚めが悪いとは勇次のことではなく野球部員のことだった。

 勇次が叫ぶ。

「お前ら。ぶち殺す人間を間違えてんじゃねぇぞ! リンチすんのはどー考えても三年生共だろうがぁ。誰かに助けられんの待ってんじゃねぇ」

 一人の部員がその場で泣きだした。勇次は抑え込む三人の部員を振り払って嗚咽を漏らす彼の泣き面を蹴り飛ばす。

「弱けりゃあ、何でも許してもらえる訳ねぇだろっ!」

 部室の床に転がった部員が起き上がると勇次に飛びかかった。勇次は犬歯を向き出し、乗っかってきた部員の頬に拳を埋めた。部員はその上で、勇次の顔に拳を振る。

 わかってんだよぉ! と叫ぶ部員がいた。勇次はそいつの顔も殴る。

「分かってて出来てねぇーじゃねぇか。ボケ!」

 守田は頃合いを見計らって教師を呼びに行く役だった。

 しかし、気づけば勇次を背後から殴ろうとする部員に向かってドロップキックをしていた。

 勇次は拳で語ることしか知らない世界にいる。守田はそんな単純な世界に惹かれてしまった。人生最大の汚点だった。

 中谷勇次の世界に俺も行きたい。

 守田は確かにそう思ってしまった。


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