守田裕 春①
男根様はお怒りだった。
「あのさ、言いたかないけどさ。俺もさ、準備してた訳。いろいろと!」
はい、と守田は頭を下げる。
「相田みつをの詩だよ。おい、覚えてんだろ? 大きな声で、さん、はい!」
「いざとなると たたねんだ なあ ちんこ」
「いや、そー呼ばれちゃうとね。俺も、いやいや、いつでも起つ準備してますけど? 毎日バベルの塔を建築する勢いですよ、っていうスタンスで挑んでたわけ。ね? 俺のやる気、伝わってたよね?」
「はい、びんびん来てました」
「でしょ? それもこれもさ、童貞卒業っつーなに? 人生最大のイベント? を立派に果たさせてやろうっつー俺の親心なわけ? お前さんはね、いつもは俺のことを息子って呼んでるけどね。俺が大事な時に腐ったバナナみたいな状態でいてみろよ? 大変よ? 向こうさんも大慌てよ。なぁ?」
「……そうですね」
「俺はね、お前さんに恥をかかせたくない訳。その為に日々努力している訳。ね? 俺もね、一種の親心を抱いてんの、お前さんに。それを汲んでほしいのよ。わかる?」
「……」
「おい、こら。だんまりか! 毎日、風呂に浸かる度に俺に触って言ってたじゃねぇか? 真の使い所を教えてやるぜって。俺はよぉ、それを楽しみに毎日起きてきた訳よ。毎夜毎晩の辛いしごきにも耐えてきた訳」
「嘘つけ、お前も結構楽しんでただろ?」
「……はぁ。お前さんは分かってねぇな。楽しんでるフリをしてた訳。ね? そんなことも分からないで、どーするのよ? これから本当の前戯で苦労するよ、お前さん」
「マジですか! 俺は男根様でさえ、気持よくできてなかったんですか! そんなっ! 何がダメだったんですか? 握り方ですか? それとも姿勢ですか?」
「おかずかな? もっと乳の大きいのが良いなぁ」
「お前の趣味じゃねーかっ! 知らねぇよ!」
「うるせぇええええええ! 俺は期待して起ってきたのに、お前さんが彼女と別れちゃってフラストレーション溜まってんの! この十五年の中で一番の怒りだぞ、コラァ! どーすんだよ!」
「知るか、ボケェ! 俺も期待しとったわぁあああああ!」
守田が叫んで夢が終わった。朝の生理現象も相まって、パンツの中の男根様はそれはもう立派に起っていらっしゃった。鎮魂祭が必要だった。
◯
ゴールデンウィーク最終日は千原蓮華の家に行く予定だった。女の子から聞きたい台詞ナンバースリーに入る「その日、家に両親どちらもいないの」を聞いていた守田からすれば、最終日はトラックに轢かれてでも彼女の家へ行く覚悟だった。
しかし、ダブルデートの日に守田は蓮華にフラれてしまった。当然、彼女の家へ行く予定もなくなり、守田は朝一番に近くのアダルトショップへ赴き、お気に入りの巨乳女優のAVを三本とレジ近くにあったお楽しみ袋というタイトルが分からない五本セットを購入した。計八本のAVを抱えて家に帰って部屋に籠った。男根様の怒りを鎮める鎮魂祭の始まりだった。
昼の三時を過ぎた頃、部屋の扉が開いた。画面では丁度「10代で結婚して遊びを知らない奥さんが初めての合コンで羽目を外してハメまくり」の合コンシーンだった。
「おにいちゃん」
妹の澄乃だった。
守田は澄乃あるいは両親のどちらかが部屋に入ってくる可能性は考慮していた。そのため、テーブルに置かれたポータブルDVDの画面は部屋の扉を開いた場所からでは見えなかったし、守田の下半身には布団が掛けられていてパンツもズボンも身につけていないことは一目見ただけでは分からない。
「どうかしたか?」自然な動作でイヤホンを外しポータブルDVDの画面を閉じた。
「パズルが全然進まなくなっちゃったから一緒にやって」
小学二年生になった澄乃は駄菓子屋でパズルを見つけ、両親にねだって買ってもらった。ゴールデンウィーク中に終わらせると言っていたが、昨日ちらっと見た分では半分も終わっていなかった。柄はディズニーの「美女と野獣」だった。
今の守田からすれば美女は田中あずき、野獣は中谷勇次に見える。しかし、野獣の正体は王子だ。勇次は根っからの庶民だし王子のような教養や品の良さも備えていない。
見た目も中身も野獣。それが勇次だ。
「分かった。今からシャワー浴びようと思ってたから、それが終わったら澄乃の部屋に行くわ」
「シャワー? なんで?」
さすがに今の状態で妹の部屋に行くのには躊躇がある。
「エチケットかな。とりあえず、先に続きやっててくれ」
「はーい」
このようにして守田裕の男根様の鎮魂祭は終わりを告げた。
◯
夕方近くまで澄乃のジグソーパズルに付き合った。鎮魂祭で辛くしごき過ぎたせいか、男根様はしばらくの間ひりひりと痛んだ。パズルの終わりが見えてきた頃、母親に呼ばれた。川島疾風が来ているとのことだった。
「ちょっと行ってくるわ」
「いってらっしゃい、おにいちゃん」
店の方に出るとカウンターで川島疾風が「ベルセルク」を読んでいた。
「どうも、シップーさん」
「おー、悪いな。優子を迎えに行くまでの時間潰しさせてもらってるよ」
「いや、全然良いですよ」
川島疾風。勇次の姉、中谷優子の彼氏だった。最近は守田と勇次を連れてドライブに連れて行ってくれたりして金が無くとも遊べる術を教えてくれる。
守田裕に憧れの人がいるとすれば川島疾風だった。
彼女の優子さんは可愛いし(疾風いわくまだ付き合っていないらしいが、守田は信じていない)話術に長けているし誰とでも自然体で喋るし(以前、ヤクザっぽい人と平然と喋るどころか、何故か頭を下げられていた)何より運転技術がすさまじく、あれほど速く走る車を見たことがないレベルだった。
「それで守田くんよ。彼女にフラれたんだって?」
漫画本を置いて疾風はまだ湯気の立つホットコーヒーを一口飲む。
守田は苦笑いを浮かべる。
「勇次ですね」
「ヤケ酒に付き合わされたって珍しく青い顔していたよ」
「記憶が飛ぶくらい呑ますべきでしたね」
ダブルデートを終えた夜、つまり守田が蓮華にフラれた夜に守田は勇次を家に呼び、スーパーで大量に買ったビールと親父が隠し持っていた日本酒とウィスキーを浴びるように飲んだ。
蓮華にフラれたのもあったが、勇次を密かに想っている女子が居たという事実は守田にとって素直に受け止めきれるものではなかった。しかも、田中あずきというクラスで可愛く注目されたあの子ときたものだ。本当に許せん!
「まぁ、あんまり落ち込んでないみたいだし、良かった良かった。次はもっと良い子が見つかるよ」
「彼女の方はまぁ良いんですよ」いつか別れるだろうことは分かっていた。それよりも「シップーさん、聞いて下さい! 勇次のヤツ、ボーイミーツガールしてやがったんです!」と言った。
「ボーイミーツガール?」
「ええ、そうです。覚えていますか? 勇次が赤いスポーツカーを狙って喧嘩売りまくってたこと」
「忘れる訳ないだろ。僕のことを狙ってたんだから」
「まぁ、そうなんですけどね」
勇次が赤いスポーツカーの運転手に喧嘩を売っていた理由は単純明快だった。姉、優子にできた彼氏が赤いスポーツカーに乗っているという情報を得たからだった。本当に単細胞。あるいは鉄砲玉。もしくは野獣。「赤いスポーツカーの運転手に喧嘩売って行く中で、一人の女の子を助けたんですよ」
「へぇ」
「その助けた子ってのが眼鏡をかけてて、ぱっとしない子だったんですよ。同じクラスに居ても一年で一回、二回喋るかな? って感じの子です。分かります?」
「分かる分かる」
「で、その子がまさかのクラスメイトだった訳です!」
「ほぉー」
「しかも、俺から見ても目を張るほどの可愛い子に変身していたんですよ! 更にですよ、
眠る少女っつーガールズバンドのボーカル、ギターだったんです!」
蓮華の口ぶりから、あずきがバンドを組んでいることは明白だった。中学の頃に地元のライブハウスに通っていたから、ゴールデンウィーク中に一度訊ねて受付の人に尋ねたら一発で分かった。
眠る少女。今、岩田屋町で最も注目を集めている女子高生三人組。やや営業の入った物言いではあったが、ライブハウス側の人間が評価しているのに違いはなかった。
「ガールズバンドのボーカル? そんな華やかな子が勇次とボーイミーツガールを」
「そうなんですよ!」
疾風が少し考えるような表情を浮かべた。「ボーイミーツガールって、言っちゃえば少年が少女に会う話な訳で、勇次の場合は再会なんだから違うんじゃね?」
「シップーさん、細かいっす。俺が言いたいのは、何か良い感じに物語が始まりそうな体験を勇次がしていて腹立つっつー話です」
「なるほど。じゃあ、逆にしちゃえば良い」
「逆?」
「ガールミーツボーイ、少女が少年に会う話の場合は月並みな話って意味で使われたりするから」
月並みな話?
あずきと勇次が? 言い換えれば、美女と野獣が?
うーん。バイオレンスしか浮かばない。もし、あの二人が揃って月並みな話を演じられたら、むしろ拍手ものだ。
「ま、そーいうのは置いてといて」と疾風がコーヒーを飲む。「勇次を少しでも理解している子が教室にいるってのは良いことなんじゃないか?」
そう言われると何も言えない。勇次が教室で浮くのは当然だし、喧嘩をするのも蟻が地面に列を作るくらい当たり前だ。入学式の停学も想定内と言える。問題は一つ、勇次が退学しないかどうかだ。
その問題を回避するのに勇次を理解している人が増えることは素直に嬉しい。
勇次の暴力は派手である為に常にランダム性、気分と言った自然現象的な側面が目立つ。しかし、その実、彼の暴力へ至る回路はしっかりと整備されていて理由なく起こることはない。逆に言えば、理由がある以上、その暴力は必ず起こる。
「勇次が退学になったら優子が悲しむからな」
疾風の台詞に守田は頷いた。
そうなのだ。
勇次が退学になることに守田は何も感じない。あ、やっぱり、と思うくらいだ。しかし、それでは困るのだ。中谷優子。世話好きで優しく綺麗。茶目っ気もあって、立ち姿に目がくらむ。白いワンピースを着ていた時には、思わず拝んだ後に携帯のカメラで三ケタの枚数の激写をして勇次にキレられた。
まさにエンジェル優子さんが勇次が退学になったら悲しむのだ。
それだけでも守田の心は痛むのに中学の卒業式に会った優子さんに「勇次を頼むね」と言われてしまったのだ。頼まれているのに、それを遂行できない男と思われたくない。
これは守田裕という男の生き様に係わる問題だった。
「シップーさん。確かに良いことが起っています。しかし、ここで守りに入ったのでは何か大きな問題が起きた時に対処できません! だからこそ今立てられる対策など、シップーさんありませんか?」
「んー」と疾風が腕を組んだ。
男の生き様の問題だと思った次には他人を頼る自分にびっくりしたが、参考までに色んな人に話を聞いてみよう、という考えにシフトした。
「最近、深夜アニメをよく見てたんだけどさ」
なに見てるんですか、イメージじゃないですよ? どういうことですか?
「必ず変な部活ものが混じってるんだよな」
「変な部活?」
「とくに何かする訳じゃないんだが、放課後に部室に集まって暇を潰す、みたいな? でまぁ大概だけど、中心には変なヤツがいるんだよな。そいつが問題を起こしたり解決したりするっつーのがお決まりな訳だ」
「なるほど。勇次が起こす問題を解決する部活、ですか」
「入りたくねぇ!」
「まったくです」
疾風はコーヒーカップに口をつけてから続ける。
「逆に勇次が学校の問題を解決する、みたいな方が教師の心証も良くなるんじゃね?」
部活動。確かにそれなら勇次の動きは制限される。更に、その結果教師の心証が良くなるのなら素晴しい。
しかし、学校というシステムに中谷勇次が組み込まれる姿を守田は良しと思えなかった。
――ごちゃごちゃした理由なんてねぇよ。ただ俺は家畜にならねぇって決めてるだけだ。
勇次の台詞が浮かぶ。
まったくその通り。家畜に成り下がった勇次など有り得ない。中学の時に殴った野球部の連中のためにも、勇次は自由であろうとする不自由の中でもがき続けなければならない。
だから「普通の部活動じゃダメですね」と守田は言った。
「うん。深夜の部活ものも普通じゃないからな」
「参考になりますかね?」
「さぁ幾つか見るのも良いかもな」




