宮内浩 春①
音楽プレイヤーだった。
受験生として訪れた学校の廊下で拾うものとしては特殊に思えた。
手にして、その手触りや画面の小ささから昔から使われていたことが分かった。顔をあげ廊下を行き来している生徒たちを確認する。誰も宮内浩に視線を送ったりしていなかった。
中学生の浩たちからすると音楽プレイヤーは不要物に分類される。もし仮にこの落とし物が受験生のものなら何かしらのペナルティを負うかも知れない。
更に、今この瞬間を監督役の先生に見られた場合、少し厄介なことになる。
逡巡したのは一瞬だった。
浩は音楽プレイヤーを冬服のポケットに収めて教室に戻った。
◯
正しい判断ではなかった。
岩田屋高校の受験日程がすべて終了した後に、浩は後悔した。多少の厄介事を我慢してでも浩は音楽プレイヤーを岩田屋高校の先生に届けておくべきだった。
一緒に受験した同級生たちに音楽プレイヤーのことを聞いてまわったが、全員が首を傾げた。もしかすると、部活で登校してきていた在校生の落とし物だったのかも知れない。
浩は受験生で初めて訪れる高校の校舎に思いのほか緊張していたらしかった。今からでも岩田屋高校の先生に渡すべきか考えたが、落とした生徒が誰かも分からない。受験生だった場合、不要物の持ち込みで合格が取り消される可能性が数パーセントでもあると思うと、浩は行動に移すことができなかった。
仕方がない。
そう結論付けた後、音楽プレイヤーの電源を入れてみた。データの中に持ち主の情報があれば届けに行けばいいと思った。
データは音楽のみで画像や動画といったものは入っていなかった。
プレイリストは数字だけの簡素なもので、十ほどに分けられていた。試しに上から二つ目を開いてみると「タイトルなし」というタイトルがずらっと並んでいた。
一つ目の曲を再生する。
ピアノ曲だった。
録音したものなのだろう音に少し距離を感じた。聴き覚えのない曲だった。続けて他の曲も聴いてみたが、知っている曲はなかった。
ただ、どの曲も共通して心地良く楽しげな印象があった。
浩は暇さえあれば音楽プレイヤーを聴くようになり、ベッドの上でそのまま眠る時もあった。
音楽プレイヤーが最も活躍する時は小説を書いている時だった。
浩は今まで気が散るという単純な理由から音楽を聴きながら小説は書いていなかった。けれど、試してみるとタイトルなしのピアノ曲は浩をちゃんと現実から引き離して小説の世界へと導いてくれた。
◯
小説を書き始めたきっかけは姉の死だった。
宮内浩が中学一年生、姉が高校一年生の五月五日――こどもの日のことだった。
友人と共に訪れたハイキングコース近くにある川で溺れている少年を見つけ、助けようとして亡くなった。少年は救出されたが、姉は五百メートル流された先にある岩に引っかかって発見された。
浩が通う中学校のグランドの一周が約二百メートルだった。
姉はグランド二周半もの距離を流されたことになる。意識がなかったのだとしても流されたその距離を思うと浩は息が詰まった。
姉の眠っているような死に顔を見て浩は泣いた。
姉の葬儀の間でさえ、浩は小さく嗚咽を漏らした。火葬を終え、家に戻った浩は姉のベッドで眠った。
そのままの恰好で二週間、排せつと食事以外の時間を全てベッドの上で過ごした。
夢の中でなら姉に会える。
当時の浩は本気でそう考えていた。
時間の感覚が薄くなった十三日か十四目の夜、浩は目覚めてリビングに下りた。ひどく喉が渇いていた。
電気を点けて冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注いで飲んだ。
横目に食事をするテーブルが映り、そこに姉が座っているのが分かった。姉は浩を見てニッコリと笑ってテーブルの上で指を動かした。
ピアノを弾くような仕草だった。
「姉さん!」
言うと、その場に姉は居なかった。手に持ったグラスを床に落とし、ズボンのすそが濡れたのが分かった。何度も姉を呼んだ。
リビング中を探しまわったが、やはり姿も形もなかった。ただ姉がテーブルを叩く音だけが耳に残っていた。
――私を探すのなら、夢の中じゃなくて現実にしなさい。
そう言われた気がして浩は眠るのをやめた。
学校にも登校したし大人の心配の声にも答えた。
十日以上もの間、曖昧な夢の中で過ごしたせいか、浩は生活上のあらゆるものに違和感を覚えた。最初の違和感は近所の公園の片隅にあるブランコだった。
そこに誰かがいる気がした。
けれど、もう一度見すると、その気配は消えていた。
二回目は信号待ちをしている真正面の歩道だった。
瞬きの間に人が映って消えた。
間違いのない違和感だった。
気配は浩が気を抜いた時を狙って現れた。
玄関の扉を閉めるほんの僅かな隙間、横目に映った川辺……。何度も見ているとそれらは全て、浩が二週間眠り続けた時に見た夢の一部と重なっていた。
現実に夢のようなものが紛れ込みはじめている。
その幻の根底に姉がいるのだとしたら浩にとって願ってもないことだった。
姉が浩に何かの影響を与えてくれている。死んでいるとしても姉によって浩は感じる現実を変えている。
姉が生きていた頃のように。
浩は夢の気配があったものを注意深く観察し、ノートに書き留めるようになった。夢の気配は多くて一日三回。
全て視覚の片隅や浩の動きの後に続く形だった。
まるで影のように、ぴったりと一定の距離を保った『それ』を浩は捕まえようと手を伸ばす日々がはじまった。
学校からの下校中に『それ』がいた。道路を挟んだ電柱の傍。自然と足が向いた。数歩進んだ先は道路だった。車がすぐ目の前に迫っていた。
◯
意識が戻ると病院のベッドの上だった。
両親は浩が思うよりも本気で心配してくれた。部屋から夢の気配を書き留めたノートが見つかってからは、更に深刻なものとなった。
母は泣きながら「ちゃんと生きないと本当の意味でお姉ちゃんの所へ行けなくなっちゃうよ」と何度も言った。
浩は姉を探していたけれど、姉の所へ行こうとは思っていなかった。
傍から見れば、その違いが分からないのだと浩はその時になってようやく思い当たった。
入院して三日目の夕方、浩を轢いた運転手が見舞いに来てくれた。
初日に顔を合わせていたので二回目の対面だった。
「元気かー?」
二十代のお兄さんは近所に住む親戚のような気軽な笑みを浩に向けてくれた。
その笑みは浩にとって有難いものだった。
「元気です」
と浩は頷いた。
事故は浩の不注意で、ドライバーのお兄さんは咄嗟に急ブレーキを踏んでくれたのもあって外相も擦り傷程度だった。そのため、お金のやり取りは最小限だったらしい。入院も肉体的なものというより、浩の混乱した精神を落ち着かせる意味合いが強かった。
「そうか。良かった、良かった」
言いつつ、お兄さんはベッドの横にあるパイプ椅子を組み立てて腰をおろした。
そして、お土産だとチョコレートやクッキーの入ったコンビニ袋を差し出した。
「ありがとうございます」
言って、受け取るとお兄さんは浩をまっすぐ覗き込んだ。
「礼儀正しいのは良いことなんだが」
と眉をひそめた。「君、俺が轢いた時から生気がないよな。何があったんだ? クラスの女子のリコーダーを舐めたのが、バレたのか?」
どういう表情を浮かべれば良いのか分からず、浩は曖昧に首を横に振った。
「リコーダーを舐めたんじゃなければ、お姉ちゃんが一緒にお風呂に入ってくれなくなったとかか? 答えはな毛なんだ、別に君を嫌いになったとかじゃなくてだなぁ」
最低なことを言われているのは分かって、浩は笑おうとしたが結局は泣いた。
お兄さんを困らせるな、と頭の片隅では思ったものの涙は止まらなかった。浩はせめて声を殺そうと顔をシーツに押し付けた。
「あー」と言いよどんだあと「いいよ、好きなだけ泣けよ」とお兄さんは言った。
浩は思う存分泣いた。
時間にして十分ほどだった。
涙が収まり、軽い嗚咽を漏らす状態になって浩は顔をあげた。お兄さんは棚に置いてあった箱のティッシュを浩に差し出してくれた。
「それで何があったんだ? 宮内浩くん」
お兄さんの声がやけに優しげで浩は更に涙が溢れそうになるのを堪えて、姉の死とその後に見た夢の気配、そして母の言葉を途切れ途切れに話した。
それを聞いたお兄さんは、神妙な表情で「なるほどなぁ」と頷いた。
「俺は俺の話しかできないんだが良いか?」
お兄さんは言い、浩は頷いた。
「今年の春に俺の後輩が交通事故で亡くなったんだよ。そこで、色んなことを考えたんだが、結局はできることをするしかないって単純な答えに辿り着いたのな。できるってのは力があるってことだ。自分にある力の使い道を俺は俺の大切なものに使おうって思ったんだよ」
ちから、と浩は呟いたが、お兄さんは聞こえなかったようで更に続ける。
「死んだら確かに肉体はなくなるけど、俺がそいつを大切に思っていることに変わりはない訳だ。だから、浩くんもお姉ちゃんの所に行くとか探すとかじゃなく、現実に残っているお姉ちゃんの思い出とか形見とかを大切にすれば良いんじゃないか。どうせいつかはお姉ちゃんの所に行くんだからさ」
「でも、僕は姉さんを大切にする為に何をすれば良いんでしょう?」
浩の問いに対し、お兄さんは鼻で笑うような気軽さで応えた。
「男だろ? 自分で考えろ」