黒龍〜コクリュウ〜
時代は昭和の末。
バブル景気の熱狂に浮かれる都市の裏で、
静かに、だが確かに朽ちゆく“任侠の魂”があった。
法の網が組織を締めつけ、
欲と裏切りが“筋”を殺す時代。
そんな中で、一人の青年が立ち上がる。
名は、黒澤竜児。
父を失い、血で道を開き、背中に“龍”を彫った男。
これは、後に“鬼の竜児”と恐れられる男が、
まだ何者でもなかった若き日々に、
己の“義”を刻みつけるまでの物語である。
拳を握っても、涙は流さず。
正しさよりも、筋を通す。
誰よりも不器用に、誰よりも真っ直ぐに。
――これは、“昭和最後の黒龍”が、
命をかけて背中に宿した、たった一つの真実の記録である。
『黒龍 - コクリュウ-』
第一章:血の雨、静かに降る
新宿歌舞伎町の裏通り、雨がアスファルトを染めていた。
闇に溶け込むように、ひとりの男が歩いてくる。
黒のスーツに漆黒のサングラス、左手の薬指がない。
彼の名は黒澤 竜児。
関東一円に勢力を広げる**黒龍会**の若頭――
いや、“元”若頭だ。
竜児は13年前、組織を裏切った兄弟分を殺めた罪で塀の中にいた。
出所して最初に向かったのは、歌舞伎町裏の古びた喫茶店。
そこには、今や若頭の座についた**白石**が待っていた。
「おう、竜児。生きて出てきたか。」
コーヒーの香りに紛れて、火薬の匂いが鼻を突く。
白石の背後には3人のボディーガード。スーツの胸元が不自然に膨らんでいる
「なにが言いたい?」
竜児は座りもしない。目だけで白石を見据えた。
「黒龍会はな、お前がいた頃とは違う。今は“企業”だ。感情で動くな。…戻ってくるな。」
白石が冷たく言い放った瞬間、店の外で爆音が鳴った。
竜児の目が細くなる。
「それでも、“龍”は一度牙を剥いたら…引っ込めねえ。」
黒澤竜児、かつて“鬼の竜児”と恐れられた男。
今、再び黒龍の紋を背負い、東京の裏を駆ける。
だが、彼を待ち受けるのは、裏切り、金、そして血。
第二章:落ちた鱗
「お帰りなさい、竜児さん。」
その声に、竜児は少しだけ目を細めた。
喫茶店を出た彼の前に立っていたのは、一人の若者だった。
黒のライダースにスキンヘッド、鋭い目つき――
風間 蓮。
20代後半。竜児が捕まる前、まだガキだったはずの蓮が、今は立派にヤクザの面構えになっている。
「生きてるかと思って、ずっと待ってました。」
「……お前、今どこの組に?」
「黒龍会です。けど……あいつら、もう“漢じゃねぇ。」
竜児は何も言わずにタバコに火をつけた。
煙の向こうに見えるのは、歪んだ組織の影。
昔は“義理と人情”が黒龍の芯だった。だが今は、闇金・詐欺・薬――
なんでもアリの金の亡者集団だ。
蓮が小声で続けた。
「白石の奴、竜児さんが出てくるのを寒がってましたよ。組を継いだはいいけど、あいつには“背中”がねえ。だから、出てきたあんたを消そうとしてる。」
「……やっぱりか。」
竜児はそのまま歩き出した。
向かう先は、新宿・西口の古びたビル。
かつての黒龍会本部跡地。今は貸し事務所になっていたが、地下に隠し倉庫があるのを竜児は知っていた。
「風間、お前、俺と来るか?」
「もちろんっすよ。背中、預けてください。」
そうして二人は、闇へと足を踏み入れた。
地下の扉を開けると、そこには今でも残る“黒龍の鱗”――かつての抗争記録、銃火器、金の流れ……
そして一枚の写真があった。
白石と、警視庁の刑事が握手している。
「……裏切ったのは、あいつだけじゃねえな。」
第三章:蛇と龍
「刑事と握手してる……?」
風間蓮の声が震えた。
地下室の湿気が肌にまとわりつく中、竜児はじっとその写真を見つめていた。
白石と握手している男、それは警視庁組織犯罪対策部の刑事――柿沼 誠司。
“シロ”を売って逮捕される組員が次々と釈放された裏に、この男の影があることは業界で噂されていた。
「こいつら、裏で繋がってる……。」
竜児の低い声が地下に響く。
写真の裏には日付と場所が書かれていた。“2025.3.12 品川 高輪クラブ・ディアナ”
その日はちょうど、黒龍会が敵対組織“京神会”との抗争を急遽引いた日だった。
理由もなく引いた、あの日。
「……全部、仕組まれてたってわけか。」
その時、地下の外でドアの軋む音がした。
竜児と風間が即座に身を低くする。
細い懐中電灯の光がゆらゆらと揺れ、数人の足音が近づいてくる。
「ここか。探せ、黒澤が来てるはずだ。」
――白石の手の者だ。
「来たか……。風間、抜け道知ってるな?」
「裏の排水口っす。けど一人ずつしか出られねえ。」
「じゃあ先に行け。俺が止める。」
「冗談じゃねえ、置いてけません!」
「これは“ケジメ”だ。……昔、お前の親父を助けられなかった借りもある。」
竜児は風間の肩を叩き、にやりと笑った。
「俺を信じろ。“龍”は簡単に死なねぇ。」
風間が歯を食いしばりながら頷き、排水口へと身を滑らせた。
数秒後、ドアが蹴り開けられ、武器を構えた男たちがなだれ込む。
竜児は古い棚から一丁の南部十四年式拳銃を取り出した。
かつて父親代わりだった初代から譲り受けた、最後の道具。
「よぉ、白石の犬共。腹括ってきてんだろうな。」
銃声が地下を裂いた。
第四章:毒牙
地下に響く銃声は、一発で終わらなかった。
弾倉に残るは七発。南部十四年式は古いが、竜児の手にかかれば十分な殺気を放つ。
一人目――右のこめかみを撃ち抜く。
二人目――膝を撃ち砕いて、動けなくさせる。
三人目――怯んだ瞬間、首筋に一発。
地下倉庫に倒れ伏した男たちを見下ろし、竜児は冷たく呟いた。
「銭金で動く奴らが、“龍”を語るな。」
拳銃のスライドが空を告げる。弾は残り一発。
そのとき、地下の階段に一つの影が現れた。
「よォ、竜児。まだ生きてたか。」
白石だった。
白のスーツに薄く笑みを浮かべ、背後には刑事・柿沼の姿があった。
竜児は冷ややかに目を細めた。
「てめぇが来るってことは、もう隠す気もねぇってことだな。」
白石は懐からシガーを取り出し、火をつけながら言った。
「警察と繋がって何が悪い?今の時代、ヤクザだって“合理的”にやらなきゃ生き残れねぇ。」
「その“合理”のために、どれだけの兄弟が売られた?」
「“兄弟”? 笑わせんなよ。俺たちゃ“商品”なんだよ、昔からな。」
その言葉に、竜児の中の何かがプツンと切れた。
残った一発の弾が、柿沼の胸を撃ち抜く。
「ぐっ……!」
白石が驚いた隙を突いて、竜児は倒れた男のナイフを拾い、白石の腹へ一直線に突き立てた。
だが、そこで力尽きる。
背後にいた別の男の凶刃が、竜児の肩を切り裂いていた。
「くそっ……!」
血が吹き出す。意識が遠のく。
そのとき――地下室の排水口が再び開いた。
「竜児さん!!」
風間蓮だった。
手にはショットガン、肩で息をしながら叫ぶ。
「生きてくださいよ……あんたが死んだら、“龍”が終わっちまう!」
最終章:黒龍、昇天
銃声が止み、血の匂いだけが残った地下室。
竜児は肩を押さえながら、倒れた白石を見下ろしていた。
「…お前みたいな奴が組を仕切って、兄弟が死んでった……。それが今の“黒龍”だ。」
白石は腹を押さえて呻いた。
「てめぇの…せいで…昔の黒龍は潰れたんだろうが……!」
竜児はゆっくりと、うつむいた。
「……かもな。」
そこに、風間がゆっくり歩み寄る。
ショットガンを肩に担ぎ、竜児の隣に立った。
「でもな……もう、変えなきゃいけねぇんだよ。」
風間の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
「“背中”ってのはな、金じゃ買えねぇんだよ。」
風間が言い終わると同時に、遠くからサイレンの音が響き始めた。
「……時間切れか。」
竜児はふっと笑った。
それは、どこか安堵にも似た笑みだった。
「風間、ここから先はお前の時代だ。」
「何言ってんすか、竜児さん――」
「黒龍の名前を残したいなら……変えろ。力じゃねぇ、“義”で組を束ねろ。」
そう言って、竜児はその場に崩れ落ちた。
肩の傷から流れる血が、黒龍の刺青を赤く染める。
外に出たとき、警察の特殊部隊がすでに包囲していた。
しかし風間は、竜児の遺志を胸に、まっすぐに歩いた。
「……この男の名は、黒澤竜児。“黒龍”最後の本物だった。」
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも不器用な龍。
その背中に、風間は確かに“魂”を見た。
後書き
昭和という時代が遠のく中で、
“ヤクザ”や“任侠”という言葉も、過去のものになりつつある。
だが、その影には、確かに生きていた男たちがいた。
黒澤竜児という男は、
実在の人物ではない。
だが、彼のように筋を信じ、
裏切られてもなお、義を捨てなかった男たちは、
確かにどこかに存在した。
現代に生きる私たちから見れば、
不器用で、報われない生き様かもしれない。
だが――
“正しさ”ではなく“筋”を通すこと。
“勝つ”ことよりも、“守る”ことを選ぶこと。
それがどれほど困難なことか、私たちは知っている。
黒龍という組織の名の下、
一人の男が何を背負い、何を捨てたのか。
読者の皆様の胸に、何かひとつでも残るものがあれば、
これ以上の喜びはありません。
最後に、竜児の言葉を借りて、筆を置きます。
「龍は空に昇るもんじゃねぇ。泥に這っても、背中だけは汚さねぇ。」