第十七話 人間の反応
風が止まった。
雲が裂けた。
青空に、二つの影が落ちた。
それはまるで、空に穿たれた黒と白の穴。
一つは灼熱のように明るく、もう一つは深淵のように暗く。
それぞれが一対の翼を広げ、悠然と宙を往く。
──『テンジョウ』。
──『コクジョウ』。
人ならざる双翼の名は、恐怖と共に刻まれていた。
だが、この日、この瞬間。
その名は恐怖の上位、絶対という名の神話へと昇華される。
魔導国家 ナグローツ、午前十時。
宗教国家 スカレモナの騎士団詰所、午前十時。
帝都 ルベルモン、旧市街広場、午前十時。
商人国家 デンベルクの議事堂、午前十時。
王都 ハイランドの東門、午前十時。
そのすべての空に──同時にあらわれた。
だれもが目撃する。
だれもが聞く。
だが、それは耳で捉えた音ではない。
それは、“知っていた”のだ。
まるで、生まれる前から“この瞬間の意味”を内包していたかのように。
兵士が立ち止まり、商人が手を止め、子どもが空を指差す。
老いた修道女が頬を濡らし、狂人が笑いを止める。
議場で喧騒を上げていた政治家たちが、一斉に黙る。
空が震えた。
『──今ここに。』
響いたわけではなかった。
しかし、すべての者の心に、まるで刻印のように届いた。
『魔王の御名のもと、我らは立ち上がる。』
目を閉じていても聞こえる。
耳を塞いでいても届く。
音でも映像でもない、存在の“重み”として。
『五つの王国。ハイランド、ナグローツ、スカレモナ、デンベルク、ルベルモン。』
乳児が泣き出した。
老婆が膝を折った。
兵士が剣を握りしめ、平民が意味もわからず空を見上げた。
『すべての人間国家に、宣戦を布告する。』
その言葉が終わった瞬間、空が元に戻った。
風が動き、太陽が眩しくなった。
だが、人々の心は動かない。凍てついたまま。
静寂。
世界は、かつてない静けさに包まれていた。
「……今のは、なんだ?」
そう呟いた男の声が、世界で初めて“言葉”になった。
誰もが、説明できない確信を抱えていた。
──これは夢ではない。
──これは報せでもない。
──これは、もう“起こってしまったこと”なのだ、と。
王たちの間で、使者は走らなかった。
書簡は書かれなかった。
それらはすべて、不要だった。
なぜなら、すべての者が“受け取った”のだ。心の奥で、等しく。
その日、『テンジョウ』と『コクジョウ』は天を翔けた。
空の遥か彼方、目にも見えぬ地点へと消えた。
しかし、誰もが知っていた。
あれが終わりではなく、始まりだと。
この瞬間から、
歴史は“変化”ではなく“書き換え”の時代に入ったのだと。
ナグローツの魔導議会では、最高執政が青ざめながら呟いた。
「……これは、世界魔術機構の封印魔術を超えている」
「“世界の概念”そのものに侵食している……まさか、本当に……。」
スカレモナの聖騎士団詰所では、若き団長が膝を突いた。
聖書を胸に抱き、天を仰ぐ老騎士が涙ながらに告げた。
「啓示ではない……これは審判だ。神の座を奪う者の。」
ルベルモンでは、酒場の中で騒いでいた傭兵たちが一斉に静まり返った。
ひとりの老剣士がぽつりと呟いた。
「この空気……戦争のにおいだ。俺の若い頃の、百倍濃い。」
デンベルクの交易会議。
「取引どころじゃない。今すぐ輸送網を魔術防壁付きに切り替えろ!」
「避難都市の準備を! このままじゃ……株価も命も飛ぶぞ!」
ハイランド王都では、白銀の甲冑を纏った近衛騎士団が王宮前に集結した。
王が初めて言葉を発したのは、それから三時間後。
「……我が国も動く。全軍に通達を。これは、“魔王との戦争”だ。」
王たちは震えた。
騎士たちは吠えた。
魔術師たちは沈黙し、民衆は祈り、
戦場の者たちは、己の使命を思い出した。
──なぜなら、誰もが「知っていた」からだ。
耳ではなく、魂で刻まれた宣戦布告。
それは、否応なく世界を動かす“運命の発声”だった。
そしてその日以降──
歴史の記録者たちは、筆を折るようになった。
なぜなら、“書く前に知れてしまう”ことに、もはや意味はなかったから。
宣戦布告の書状も報告も布令もない。
だが、五王国のすべてが、同じ日に、同じ決定を下していた。
「魔王軍との戦争準備に入る」と。
それが、この戦争の幕開けだった。
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