溺れる夢を見るから
加奈子が飼っているネオンテトラがポツポツと死ぬようになった。水質が悪化したのかと思い水替えをしてもネオンテトラは死んでいく。きちんとカルキ抜きの薬剤を入れているし水温もエアーも調整している。なのに全く改善されない。
ネオンテトラが死んでいくことで加奈子はとても落ち込んでいた。自分が飼わなければ彼らは死ななかったかもしれないと思うと非常にやるせなかった。しばらく寝つきが悪くて夜中に何度も目が覚めた。夢を見ていた気がする。でも、内容は思い出せない。
それから数日後、加奈子が紅茶を沸かして飲んでいるとなんだか変な味がした。少しざらつくような気もする。おかしい、と加奈子は思う。水槽のネオンテトラもあと1匹ですべていなくなってしまう。そこで加奈子は水が変質しているのではないかと思い至ったのだ。
加奈子はスマホを取り出すとすぐに管理会社に電話をした。水がおかしいということで管理会社はすぐに工事業者を寄越してくれて、屋上の貯水槽を調べることになった。
オーナーには連絡がつかなかったらしいが加奈子にとってそんなことはどうでも良かった。業者と共に屋上へ出る。普段は立ち入り禁止の場所だ。工事業者の若い男が貯水槽の横にある梯子を登って上から覗く。彼はか細い悲鳴をあげながらよろける。それを中年の業者が間一髪のところで抱き止めた。
「どうしたんです? まさか、中に何か?」
「し、死体があったんです。ぶよぶよでどろどろの、人間が」
それを聞いて加奈子はショックで気を失った。
目が覚めると夜になっていた。真っ白なベッドの上。知らない部屋。多分、病院だ。加奈子は先ほどの出来事が悪い夢だと思いたかった。だって、あの話が本当なら、今まで飲んでいた水も顔を洗っていた水も、ネオンテトラの水槽の水も、全部、人の死体が混じっていたということになる。気持ち悪くなり加奈子はその場で嘔吐した。
その音を聞きつけて看護師が部屋へ入ってきた。彼女は手早く嘔吐物を片付けると加奈子を入院着に着替えさせてくれる。そして、少し経ってから二人組の男が入ってきて加奈子に警察手帳を見せた。そして、具合が悪いところすまないけれど話を聞かせてほしいと言った。加奈子はここ数日のネオンテトラの死と紅茶の味のことについて話す。それ以外は本当に思い至らなかったのだ。
中年の刑事はまだ発表前ではあるが、あの死体がマンションのオーナーであることと犯人がもう逮捕されているから安心してほしいと加奈子に告げた。全然安心できない、と加奈子は思った。結局その日は病院に泊まり、翌日に退院手続きをして加奈子はすぐに引越し業者へ電話をかけた。部屋にいるだけでも泣きそうなくらい気持ちが悪い。それに、1匹だけ残っていたネオンテトラも加奈子が帰宅した時に死んでいた。それでもう心が折れてしまった。
それでも加奈子は最低限の必要なものをまとめて三年間帰っていなかった実家へと身を寄せた。
新幹線のホームから降りると母が車で迎えに来てくれた。大型スーパーも何もない田舎。大嫌いだった故郷が何故かあたたかく感じられる。もう、あの部屋には戻りたくない。幸い、貴重品は持ってきたので引越し業者に任せようと加奈子は考えた。引越しの意思を聞いて管理会社は加奈子を引き留めた。家賃を半額にしても良いと言われたが加奈子の意思は変わらなかった。
貯水槽のニュースは他に目ぼしい話題がなかった為テレビで何度も放送されていた。犯人は大阪でオーナーの持つマンションに住んでいた男で家賃を三年も滞納しており、先月立ち退かされたという。それを逆恨みして新幹線に乗って東京まで出てきたのだ。犯人はオーナーを酷く痛めつけたあと生きたまま貯水槽に落としたと供述した。オーナーが死ぬまでずっと犯人はあの貯水槽で見守り続けたという。そして、驚くべきことにオーナーの部屋で数日間暮らしていたらしい。加奈子は真上の部屋に殺人犯がいたことに肝を冷やした。
それから数日後、加奈子は幼馴染の家でお茶をしていた。久しぶりに会う幼馴染はもう二児の母になっていて、記憶よりも少しふくよかになっていた。彼女に今回の顛末を話すと驚いてから大変だったねと言った。
その話を横で聞いていた幼馴染の弟が加奈子に話しかける。
「家賃が半額なら住めば良いのに。全部綺麗にしてくれるわけだろ? 勿体なくない?」
「いやよ。もう気持ち悪くてあんなところにいられないわよ。それに、思い出したの」
「何を?」
「あの部屋で眠っていた時、溺れる夢を見たの。何度も。あれはもしかするとオーナーの記憶なんじゃないかって思うの。わたしは、その、水を飲んだから」
その場にいた皆は言葉を失う。加奈子は胃からせり上がるものを堪えて、気にしないでと言った。しかし、あれ以来加奈子はペットボトルや缶以外の飲み物を飲むことが出来ない。