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「こんにちは、リディアちゃん。仕事は順調?」
「やぁ、リディアちゃん。ギルバートと仲良くやってる?」
「あっ、リディアちゃん! 一緒にご飯食べよう」
リディアは、財務部の執務室で頭を抱えていた。あまりのしつこさに恐怖すら抱いている。誰に? もちろん、外務部政務官様に、だ。
資料室で会ってからというもの、ことある事に絡んでくる。友人と食堂にいてご飯を食べていても、ジェフリーに訓練場で稽古を受けていても、廊下を歩いている時ですら、どこからともなくアンリは現れる。財務部の執務室も、そろそろ危ういかもしれない。
政務官という立場は、そんなに暇なのか。それとも構ってくれる友人がいないから、直近で話したリディアに懐いてしまったのか。
「リディア〜、噂になってるよぉ。財務部の女官が、財務部と外務部の政務官を手篭めにしたって」
「あ、それ俺も聞いた」
「そんなわけあるか!」
マーガレットとシャルテの言葉に、リディアがダンッと机を叩いて反論すると、前からガチガチに固められた紙が飛んできた。業務中に騒ぐなということだろう。リディアも自身の非を認めたため反発することなく、小さく咳払いをした。
噂好きのマーガレットならともかく、女子の噂話など全く気にしなさそうなシャルテまで聞いたとは何事か。怪しげな笑みを浮かべるマーガレットへと視線を戻した。
「でも、私たちとご飯食べてるときですら話しかけてくるじゃない。仕事の話かと思ったら、普通に世間話するだけだし」
「その話がまた面白いから、憎めない方だよな……」
最初は、孤児院などの内容に興味があるのかと思ったのだが。アンリはそれについては全く触れず、リディアと、リディアの周りに人がいるときはその人も巻き込んで、ただ雑談をするだけだ。目的が見えないのが恐ろしい。
そんな不可解な事もあって、当人以上に状況を知らない文官らは、変な憶測をするしかなかった。いい迷惑である。
「じゃあ、マーガレットとシャルテはその噂は本当だと?」
「いや、お前はどちらかというと……」
「手篭めにするってよりは薙ぎ払う方が得意そうだよね!」
「そう思うなら、是非その噂を聞いた時に否定をして欲しい……!」
マーガレットは噂を収集するのが得意なようで、よくリディアに王宮内で旬な話題の噂話を持ってきてくれる。そのなかに、リディアの話があったとしても、同じように。
身近な人物が否定せず、誰が否定するんだ。「そんな話は本人から聞いたことがない」と言ってくれるだけでいいのに。
あの時の鬼上司の忠告は、まさかこれを見越してのことだったとでもいうのか。
「でも、アンリ様も何も言わないらしいよ」
「どいつもこいつも政務官というやつは……!」
「いいじゃん、玉の輿だぜ。ギルバート様には及ばないけど、アンリ様もイケメンだし」
「そんなことは全く求めてない」
他人事だと思って、マーガレットは小さく笑う。シャルテに至っては鼻で笑っている。楽しんでいないで、少しは国の危機を考えた方がいいのではないか。管理職ともなる政務官らがこの様では、先が浮かばれる。
数年前の自分の選択を呪ったところで、それを吹き飛ばすように終業の鐘が鳴る。リディアはあまり守っていないが、エトランダ国の文官は定時業務が基本である。書類を片付ける音、椅子を仕舞う音が響き始めた。
それをBGMに、リディアは机に突っ伏した。振動で巻物がゴロゴロと転がり、何本かが床に落ちる。資料室から持ってきた資料達だ。
これらの資料も全て目を通した。財政の動きはよく理解できたが、やはり現地に赴いてみないことにはどうにもならない、という結論にまではいったのだが。
神出鬼没の外務部政務官にほとほと困っていた。害があるわけではないが、害がないからこそ、逃げる理由も見つからないのだ。
コツコツと足音が近づいてきて、床に落ちた巻物を拾った。まさか外務部政務官ではあるまいな、とリディアはひたすら突っ伏すことに専念する。
巻物を拾ったらしい人物は、机にそれを置くことなく、リディアの横に立つ。是が非でも動かないつもりのリディアに何をしようというのか。
ポスン、と軽く頭を打たれる。
「――なんですか!?」
こんなことをするのは一人しかいない。勢いよく顔を上げて隣に立つ人物を見上げると、深緑の瞳とぶつかった。リディアの頭を打ったであろう巻物を握り、きょとんと見下ろしている。
「おや、起きていたのですね。執務室で寝るとは何事かと思いまして」
「執務室で寝る不真面目な奴が、財務部にいるわけがないでしょう」
「机に突っ伏す文官はいるようですが」
リディアは口を噤んだ。人間、生きていれば机に突っ伏したくなる時もあるだろう。その原因が、自分よりも目上の階級で、目の前の人物と同じ地位であるならば。
恨みがましく、無表情で見下ろしてくる上司を睨む。アンリとギルバート、どちらが上司としていいかと問われても唸り悩むだろう。あまりにも極端すぎやしないか。
外務部も哀れなり。
「聞いております。ストーカー被害にあっているとか」
「そこまで深刻な話でもないんですけどね……」
リディアは疲れたように、視線を逸らした。
ストーカーというには言い過ぎな気もする。例えるならば、構って構ってしてくる子の子育てに疲れた母親の心境が近い。
ギルバートは嘆息した。
「だから言ったでしょう。あれには関わるなと」
「関わる関わらない以前の問題じゃないですか?」
リディアは別に、自ら探されに行っているわけでも、コンタクトを取りに行っているわけでもない。例え、ギルバートの言うことを聞くつもりがあったとしても、結果は変わらなかっただろう。
そんなことをもそもそと言いながら、崩れてしまった巻物の山を整える。ギルバートはそれに協力する気はなさそうで、拾った巻物は握られたままだ。
「馬鹿と鋏は使いよう、という言葉をご存知ですか?」
「はい?」
訝しげに眉を潜めて顔を上げると、顎に巻物を充てて小首を傾げている上司。嫌に艶然としている。
普通の女性ならば、間近でこんな表情をされてしまえば卒倒もののはずだが、リディアは更に眉間にシワを寄せて、次の言葉を待った。
何が言いたいのか、全く理解が出来ないのだ。使い手の技量を問うような言葉のはずだが、今この状況に馬鹿も鋏もないだろう。
政務官とはどうしてこうも、不可解なことばかりするのか。
「あれでも政務官です。上手く使いなさい」
もう一度、今度は軽く、リディアの頭が叩かれた。
使うのがリディアで、使われるのが政務官らしい。ここでいう政務官とは、ギルバートのことではなく、アンリのことだろう。
(使うって、なんだ?)
まさか、いち文官が政務官に何か指示をしろというわけでもあるまい。思考を巡らせたところでギルバートの考えには辿り着かない。
質問していいですか? と手を挙げれば、ギルバートはリディアを見据えて顎をしゃくった。
言ってみろということだろう。
「政務官という役職は、友人が少なくないと就けないものなんですか?」
またしても、先程の五倍の威力で巻物がリディアの頭を打った。そのまま流れるように、巻物はギルバートの肩へと着地する。
「馬鹿を言いなさい。私は友人が百人いますよ」
「いや、それは絶対嘘……」
「そもそも、今の流れであなたの気になることは、それなんですか? 嘆かわしい」
ギルバートは伏し目がちに、ゆるく首を振る。完全に呆れ顔である。
決してそんなことはないのだが、八割方気になっていたのは本当だ。ギルバートに友人がそう何人もいるとは思えない。
それに、残りの二割を聞いたところで、曖昧に逃げられる気しかしない。
ただなんとなく、使い方によって毒にも薬にもなると言いたいのだろうという推察はできる。時が経てば分かるだろうと、戦略的に隅に置いただけだ。分からなかったら分からなかったでその時だと割り切るべきだ。
リディアにはリディアなりの、関係の築き方がある。
ギルバートは懐疑的な表情を浮かべているが、リディアの知ったところではないのだ。