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あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。
翌朝、執務室に片足を踏み入れた瞬間、リディアは頬を引き攣らせる事になった。
まだ文官が出勤していない、いつもと変わらぬ、スッキリとした机が並ぶ朝。普段自分が仕事をしている場所だけが、異様な存在感を放っている。
あれは壁か……いや、要塞といっても頷けるだろう。それくらい、資料が積み重なっていた。
大きな仕事は昨日終えたはずだというのに、一体何事か。これは間違いなくあいつの仕業だと、リディアはそのまま真っ直ぐ足を進めた。
「クソじょ……ギルバート、様。私の机の上がおかしな事になっているのですが、これは一体……?」
誰が見ても二度見はするような光景の執務室を一望できる場所に、涼しい顔をして座っているギルバート。この状態を作り上げたのは自分だと、両手を挙げて叫んでいるようなものだろう。
歪な笑みを浮かべて問うてくる部下に、視線だけ寄越した。
「次の仕事です。よろしくお願いします」
「なんっ、もうちょっとこう、なんて言うんですか!? ないんですか!?」
当然のように投げかけられた言葉に、リディアは何とも言い難い感情に襲われ、両手だけが無闇に宙を行き来する。
これが文官の仕事なのだから、仕方ないといえば仕方ない。ただ、暗黙の了解として、大きな仕事を終えた次は軽めの仕事、というのが今までだ。
大きな仕事、大きな仕事、と連続するのは、文官の負担等も含め如何なものかと思う。部下に対する労りというものは無いのだろうか。無いのだろう。
まさか昨日紙飛行機を投げたからなどという理由で、こんな嫌がらせをするほど小さな男ではないと思いたいが。
「ここ数年、孤児院の予算や財政状況が手付かずでした。なので過去の情報もまとめ、現状と今後の案について提出してください」
「あの、そういうことじゃなくて」
「期待しています」
リディアは不意を打たれたように、口を閉ざす。
朝、足を踏み入れてからずっと、焦点の合わないような表情を浮かべていた。なのに今、顔を上げてリディアだけを映して放たれた言葉は、心からの確かな激励だった。
中に浮かせていた両手が、重力に従って静かに下がっていく。
そのまま何も返せないでいると、複数の足音がバタバタと近付いてくる。文官が出勤してくる時間だ。
未だ真っ直ぐに見つめてくるギルバートから入口へ、ついと視線を滑らせる。人影が見えたのを確認すると、そのまま踵を返して、要塞と化している自身の仕事机に着いた。
座ってしまうと、資料の壁により頭が見えなくなる。
出勤してきた文官らが、その要塞を視界に入れるなり、思わず声を出したり二度見三度見したりなど、様々な反応を示す。だがそれがリディアの席だと分かると、納得の表情を浮かべて自席に着くのだ。
それが、『またギルバートに何かやらかしたんだな』なのか、『リディアの仕事ぶりを認めて』なのかは分からないが。
そんななんとも言い難い空気を流す要塞を見ながら、ギルバートは頬杖をついた。
リディアは優秀だ。
王宮に勤めるようになってそんなに年月は経っていないが、周囲より抜きん出ているのは確かだ。外務や他の部署からも、引き抜きの声がかかるくらいには。
資料の壁の中から手が伸び、一番上の一つを取って戻っていく。壁が崩されていくスピードも、とりわけ優秀とされる財務の文官でも、追いつけないものだろう。
しかも、ただ読み流しているのではない。リディアの場合は、それらが全て頭の中に入っているのだ。
リディアは少し特殊な能力の持ち主で、『完全記憶脳』とでもいうのだろうか。見聞きしたものを忘れない、誰もが喉から手が出るほどに欲しがる力に違いないものを持っていた。
――その代償に、あんな残念な性格に仕上がったのかは不明だが……。
「貴女なら出来ると思って、お任せするんですよ」
壁の向こうで不満そうな顔をしているであろう部下に、聞こえないように、独り言のように声をかけた。
(くっそ、あの鬼上司!!)
そんなギルバートの期待の声など聞こえるはずもなく。リディアを襲うのは、この膨大な資料を投げてきた上司に対する怒りか、たったの一言で反撃するのを止めてしまった自身への後悔か。
言い難い感情に襲われるものの、資料を読む手は止めない。
この仕事を投げてきたギルバートには腹立っているが、リディアは馬鹿ではない。多少の違和感は感じているのだ。
大きな仕事を振られることはあった。けれど、こんな風に資料を初めから用意されていた事など一度たりともないのだ。
「しかも、的確すぎる……」
『ここ数年の孤児院の予算や財政状況』とはよく言ったもので、エトランダ国にある孤児院の数年の情報から、孤児院のある地域の財政状況や出生状況まで、今回の業務内容に沿った的確な資料が用意されている。
一日二日で用意できるような資料の量ではない。
元々ギルバートが処理をしようとしていたものを嫌がらせで投げたのか、大きな仕事が続いてしまうためにその労いとして資料は用意してくれたのか――
(いや、それはないな)
考えて一秒で首を横に振る。ギルバートに限ってそんな気遣いがあるとは思えない。この資料の多さは、どちらにしても気遣いとは呼べないが。何かしらの意図はあるような気がしてならないのだ。
とはいえ、どんな理由があろうと、リディアにとっては嫌がらせに過ぎないけれど。
なんとなくモヤモヤとする部分はあったが、それについてとやかく言える立場でないことは分かっていた。
「孤児院の状況ねぇ……」
用意されていたのは約三年分だった。
リディアらが住まうエトランダ国には、三つの孤児院が存在する。今リディアが目を通しているのは、そのうちの一つの孤児院だったが、経済的に困っているような情報も、おかしな子供の動きもなかった。むしろ、子供の数は若干減っていて、余裕があるようにも思う。
つまるところ、特に問題なく運営できていると推測できる。
リディアは頬杖をつき、親に叱られたかのように口をへの形にする。
ギルバートはこれを一体どうしろというのか。まさか予算を減らせなどということはあるまい。
気に食わない上司の意図など汲み取れるはずもなく、リディアはひたすらに要塞を崩す作業に戻るのだった。
「……ん?」
そうして何時間たった頃か。要塞も五分の一ほど崩れかけた時に、とある帳簿を開いて、リディアは手を止め僅かに眉を寄せた。
大したことではないのだが、少し引っかかる部分があった。
今回リディアが目を留めたのは、港に近い場所に建つテトラ孤児院だ。
この孤児院だけ、やけに数字が大きい。
場所によって、子供の数や財力にバラツキが出るのは承知している。テトラ孤児院の周りには、裕福な家庭も多く存在しているため、他の孤児院より数が大きくなるのは当然といえば当然なのだが。
しかしながら、そのことを考慮しても今まで見た二つの比べてかなり数字の動きが大きくなっている。
腕を組んで、首を傾げる。
「子供の出入りがやけに多いな……」
テトラ孤児院以外の二つの孤児院の帳簿を思い出してみるが、これらは互いに周辺が似たような状況なので数字に驚くような差はない。
周辺に裕福な家が多く、働き口である港町が近いと、ここまで大きな変化が出てしまうのか。
近辺の店の帳簿を見る限りでも、子供の数に影響を与えるような財政の動きが起こっていることはなさそうである。
だが、帳簿だけでは分からない何かが、テトラ孤児院の周辺で起こっている可能性は大いに有り得る。
とにかく、三年分の資料では状況が掴みにくいということはよく分かった。もう少し集める必要がありそうだ。
「……ディア、どうかしましたか?」
「は」
考え込みすぎていたせいだろうか。あの鬼上司の気配に全く気づけなかった。
リディアが顔を上げれば、すぐそこにギルバートの端正な顔立ち。
「う、わっ!」
ざわざわとした感情が体全体を駆け巡り、リディアは思わず今開いていた巻物を目の前の端正な顔へと叩きつけた。バシッと強めな音が出たのは気の所為だろう。
ずるりと巻物が落ち、苛立ったように眉を寄せた鬼の顔が現れる。若干鼻先が赤くなっている。
「ほう……? いきなり上司の顔に物を投げるとは、随分と偉くなったものですねぇ」
「ひひゃいひひゃい!!」
ギルバートは、女性の顔を扱っているとは思えない手つきで、リディアの両頬の肉を引き伸ばした。
「よく伸びますねぇ」なんて口元に笑顔を浮かべながら楽しそうに言う。間違いなく鬼だ、悪魔だ。
ギルバートの両手を引き離そうと掴んで数秒、満足したのか頬から手が離れた。じんじんと疼く両頬を、リディアは慰めるように撫でる。痛すぎて若干涙目だ。
涙目のまま、リディアは視線斜め上のギルバートを睨んだ。
「レディの顔に対してなんてことするんですか」
「いきなり人の顔に物を投げる人を、レディとは呼びません」
ああいえばこういう。お互いに常日頃から思っていることだろう。
そこで漸くリディアは気づく。目の前に立つギルバート以外、周りに誰もいないのだ。
「これは、一体どういう状況で?」
「昼休みの時間です。なんならあと十分で終わりますが」
「んん!?」
呆れ顔でリディアの問いに答え、それを聞いたリディアの反応を見て更に呆れた表情になる。
慌てて時計に視線を投げると、確かにギルバートの言っている通り、午後の始業開始時刻まであと十分となっていた。流石に十分で食堂まで行って食事を済ませて戻ってくる自信はない。
「ギルバート様はもうお食事を済まされたのですか?」
「いいえ」
「えっ、まさか、呑気に昼寝して気づいたらこんな時間で食べ損ね」
言う前に、リディアの顔は広げられていた巻物に沈んだ。そして沈んだままの頭の上に、なにかが落とされる衝撃があった。
「私の頭は的ではないのですが――」
平然として起き上がったリディアは、目の前に転がっている――先程頭に落とされたであろうもの――を視界に入れて固まった。
「昼休みの時間丸々はあげられませんが、それを食べるくらいの時間は差し上げますよ」
ギルバートはそれだけ言って、自分の席へと戻っていく。
「これを食べるくらいの時間って」
リディアの手の中に収まっているのは、乾かしたフルーツと小麦粉を混ぜて、手のひらサイズに固めて焼いた、エトランダ国では携帯食として親しまれている食べ物だ。
そしてこの商品の売り文句は『忙しい日でも安心!三分で食事が完了します!』という、まさに社畜のための食べ物である。
(私に与えられた時間は三分なのか?)
残りの昼休みの時間よりも少ないが、昼食は抜きでもいいかななんて思っていたくらいなので、食べるものがあるだけありがたい。
リディアは包装紙を破った。
――だがこれを食べる前にひとつ、確認しておかなければならない事がある。
「――因みに、毒や刺激物などは混ぜてないですよね?」
その後、正面から額に向かって一直線にペンが飛んできたのは、言うまでもない。