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リディアら文官の職場である執務室は、王宮内二階のとある一角にある。財務や外務等の仕事内容で部屋が分かれているが、情報共有をしやすいようにするためか、国政を行う部署が集まったスペースとなっている。
そんな清閑としたスペースに、子猫が親猫に引き摺られるような図。その様子に驚く者など、ここにはいない。日常の一部と化してしまっている。
荷物を置くように、雑に席へと戻され膨れっ面は収まらないが、こと仕事には真面目である。散らばった書類を手早く片付け、リディアは再度書類の作り直しにかかっていた。
内容自体は問題ないと言われていたため、直すべきは恐らく『鬼上司』だろう。このくらい誰も気付くわけがないのに。
今度は何をやらかしたのだと、興味津々に見てきた隣の人物に見せても、はてと首を傾げるだけだった。答えを教えれば、信じられらないというように再度書類に目を落としていた。
答えを知ったところで、見つけるのがまた一苦労だったらしい。普通はそのはずだ。何枚にも渡っている中でたったの三文字なのだから。
財務に勤める者は、国の金銭を扱うこともあって優秀な人物が多い。そんな優秀な人物でさえ気付かない程度の『悪戯』なのに、なぜ鬼上司は気付くのか。
人間は、自分に関することには敏感になるという。やはり、自分が鬼上司だと自覚があるのではないだろうか。
リディアは、一番前でこちら側を向いて座る鬼上司をバレないように睨んだ。
五列中三列目の端の方に座っているため、見ようと思わなければそこまで視界には入ってこない。ただ、一列目の人――特に真ん中――は可哀想だ。何をしてもアレの姿が目に入ってしまうだろう。
以前そのようなことを一列目の人に話したことがある。同じく悲痛な思いを延々と聞かせてくれるのかと思いきや、返ってきた回答は「いつでもギルバート様のお姿を近くで見られるんですよ!?こんな幸せなことってないです!」と言われ、リディアはドン引きした。
隣の人物も、「みんな、財務に入りたくて必死なんだよ。私達は幸せだね」と言っていて、リディアは手に持っていたペンを折った。
そんなに財務に来たいならいくらでも交換してあげるのに。いっそ、進言してみるか。
「いっ!」
突如として、おでこに痛みが走った。
音を立てて机の上に落ちたのは、これでもかと小さく丸められた紙。これがリディアの額に飛んできたのだ。犯人は分かっている。
「頭ではなく手を動かしなさい」
もちろん、あの鬼上司だ。
なぜいつもいつも額を狙って物を投げてくるのか。
リディアは机の上に落ちた、固く丸い物体を拾った。どう考えても、悪意しかない丸め方だ。
とういかこれは紙か? もはや何かの武器なのではないか。何か筒のようなものにピッタリとはめ込み、反対側から強い衝撃波を送れば、人間に簡単に穴が開くような凶器へと変貌を遂げそうな――今度試してみるか。
くるくると手の中で弄んだあと、他の文官に当たらないよう気をつけながら、この紙の持ち主へと勢いよく投げ返す。やはりリディアの力では穴を開けるほどの威力は出ないようだ。
もちろん、当然のようにひょいと避けられて終わるが。しかもリディアの方を見てすらいなかったような気がする。
悔しさに震えつつ、いい加減仕事をしようと筆を動かし始めた。何だかんだで、リディアは優秀有能な文官である。さらさらと描き進めるリディアを邪魔するように、右隣の文官がコソッと声をかけた。
「いいなぁ。私もギルバート様と仲良くなりたいよ」
「え? これが仲良く見える? 目がおかしいんじゃないの?」
リディアは赤くなっているであろう額を指さした。どこをどう見て仲良しに見えるんだ。それにあの鬼上司と仲良くなりたいなんて、本気で頭がおかしいんじゃないかと顔を歪めて、声をかけてきた人物を見る。
ふわふわとしたオレンジの髪を揺らすのは、マーガレット・ディオン。リディアと歳も近く、隣同士の席ということもあって仲良くしている。
リディアは眉を寄せるも、書類を書く手は止めない。マーガレットは開く口を閉じない。
「だって私達にはあんなことしないもん」
「いや、むしろそっちの方が羨ましい……」
一日の中で攻撃を受けない日がない。自分が助長している自覚はあるが、それにしたってやりすぎではないか。
しかも、リディア以外の文官にはこのようなことはしない。鬼上司と言うだけあって、もちろん叱ったり書類を突き返したりはするが。
「というか、ギルバート様にあそこまで突っかかるのもお前だけだしな」
今度はリディアの後ろから、からかうような声が飛んでくる。頬杖をつきニヤニヤとしながら栗色の髪を揺らす男は、シャルテ・ロット。
リディアが配属された当初は、先輩の意地なのか無駄に対抗心を燃やして、やけに突っかかってきてきていた。今ではリディアの能力を認め、何だかんだでマーガレットと同じく友人となっている。
「なんでリディアはそんなにギルバート様に突っかかるのかな」
マーガレットの疑問に、リディアは視線で宙をなぞった。
はじまりはなんだっだろうか。思い出せるような、思い出せないような――とにもかくにも、一緒に働いていく上で、お互いにお互いが気に食わなかったのだと思う。運命レベルの話だろう。犬猿の仲、水と油、氷炭、まさにそんな感じ。
よくあることだ。
「いや、普通はギルバート様に嫌がらせしないから」
「だからね、一部では噂になってるの。政務官のギルバート・ブルクハルト様と財務官のリディアは恋仲なんじゃないかって!」
「は!?」
あまりにも衝撃的かつ不愉快な話を聞いた気がして、思わず手を止めて大きな声が出てしまう。慌てて両手で口を抑えた。後ろからも、巻物ではたかれた。鬼上司よりは全然優しい。
書きかけの書類がインクの染みで使い物にならなくなったが、それどころではないのだ。聞き捨てならない、場合によってはインクをぶちまけるのも辞さない内容である。
もちろんこの叫びを鬼上司が見逃すはずもなく。うるさいと言うように玉のように固められた紙は、リディアの額に直撃した。どうしていつも額を狙うのか。
何事もなかったというように、マーガレットは気にした様子もなく会話を続ける。
「違うの?」
「どこをどう見てそうなるの。普通に考えて関係最悪でしょ」
ギルバートにはいくらでも、喜んで嫌がらせをするのだが、他の文官達に迷惑をかけるのはリディアの本心ではない。先程の叫びを反省し、固められた紙とインクで滲んだ紙を端に避けながら、今まで以上に小声で答えた。
マーガレットは、逆になんでそんな回答がくるのか分かっていないようで、目を瞬く。
「やり方はどうであれ、ギルバート様があんな態度を取るのはリディアだけだもの。ほら、喧嘩するほど仲がいいとか言うじゃない」
そんな特別感もなかよしこよしも求めていないのである。
思わず、先程やり直しを受けた書類と同じ悪戯を仕込む所だったが、何とか堪える。ペンがミシミシと音をたてているのも気の所為だろう。
逆を返せば、ギルバートにこんな風に当たるのもリディアだけである。尊敬や憧憬や、時に恋情といった眼差しばかり受けている彼にとってはさぞかし不愉快な存在なのだろう。
しかし仕方ないのだ。ギルバートがリディアの『悪戯』を拾う限り、リディアも止める気などさらさらない。癖のようなものなのだ。どちらが先に諦めるかの我慢比べのようにすらなってしまっている。
「なら、マーガレットもシャルテも、私の真似をしたらいいじゃん。同じような反応が返ってくると思うよ」
それを聞いた途端、マーガレットとシャルテは「まさか」と大きな瞳をこれでもかと開いた。
「ギルバート様に、そんな普通じゃないことできるわけないじゃない」
「お前だけだよ、あの方にそんなこと出来るのは」
「それ、遠回しに私がおかしいって言ってる?」
返事はなかった。つまりそういうことだろう。全く不可解なことである。
マーガレットも満足したのかそれ以上会話を続けることはなく、シャルテも突っ込んでくることなく、リディアも「その噂は否定しておいてね」と伝えて終わった。いや、ほんとに頼むよ。
時間を見れば、あと一刻もしないで終業時間。リディアは、先程インクを零して使い物にならなくなった紙を丁寧に丁寧に折りこんでいた。よく飛ぶ折り方というのを以前本で読んでいたので、それを実践してみることにする。
迷うことなく折り進め、立派な紙飛行機が出来上がる。終業後、当然それは政務官の元へと勢いよく飛んでいくのだが、何故か丸い塊になってリディアの額へと返ってきた。今日で何度目か分からない反撃である。
頑張って折ったのに!