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一年中、平均して温暖な気候であるエトランダ国。気候に恵まれ、作物も豊富に育つこともあり、穏やかな人柄の国民が多い。
しかし、そのエトランダ国の中心に聳え立つ白亜の王宮内に、国民の穏やかな人柄に反して怒りを顕にする女性がいた。
「くっそ、あの鬼上司……!」
痛む額を抑えながら、大股早歩きで廊下を通り抜ける。
年頃の女性がそんな歩き方をしてははしたないとか言われるけれど、周りに気をやる余裕などないほど、エトランダ国の文官であるリディアは苛立っていた。
通り過ぎる人もぎょっと、早歩きをする人物を振り返るが、それが額を抑えているリディアだと分かると「ああ、またか」という顔をして通常業務へと戻る。それほどに、この王宮では見慣れた光景となってしまっていた。
リディアが勤めているのは、王宮の財政を主に担当する部署である。
文官であるにも関わらず、なぜかペンが異常な速さで飛ぶ。なぜか紙束が吹雪のように激しく飛ぶ。
文官はそんなアグレッシブな職業だったか。
制服である、生地の薄い空色のロングスカートを捌きながら、ぶつくさと呟く。
「書類を顔面に投げつけて、挙句の果てにはペンまで飛ばすかね? 私、女なんだけどなぁ?」
そう、リディアの額は、上司にペンを(物凄い勢いで)投げつけられたために痛みを生み出していた。「絶対赤くなってるよ……」など先程から愚痴が止まらない。
原因は、鬼上司に提出した予算についての書類だった。内容は、国民の意見も取り入れつつ予算内に収めるという非常に優秀なものだったのだが、リディアがこっそりと仕込んだ『悪戯』に気付いたためにペンが飛ぶ紙が飛ぶなどの事態が起こった。
(あんな細かいことに気付くか、普通?)
分厚い書類に隠した『悪戯』は、たったの三文字。少しだけ他の文字とは字体を変えて、『鬼上司』とバラバラに仕込んだのを見事にその鬼上司は見つけ出したのだ。
書類で遊ぶなと怒られた。反省として、資料室から指定のものを持ってこいと命令を受け、廊下を苛立ちながら歩いている次第である。
「資料室がどんな場所か知っているのかアイツは……」
知っているからこそ、リディアに命令しているに違いない。
普段から、リディアとその上司の間にはこのようなやり取りがたびたび為されている。それはもう、同じ職場の文官のみならず王宮中に広まるほどに。やり取りというか、主にリディアが突っかかっているだけなのだが。
収まらない怒りを足で表しながら歩き続けていると、少し先で柱に寄りかかっている人影があった。
「随分とお怒りのお姫様がいるって聞いてたんだけど、リディだったんだね」
「ジェフ様!」
不機嫌にその声をした方に視線をやったが、声をかけてきた人物が誰だか分かると、リディアはぱっと顔を輝かせた。そしてジェフと呼ばれた人物に駆け寄る。
薄い金色の髪に、新緑のような瞳を持った男性は、柔和な笑みを浮かべてリディアを側へと招き入れた。
「サボりかい? またギルに何か言われるんじゃないの?」
「資料室にお使いを頼まれたから良いんです」
資料室は逆方向じゃ……という言葉は聞かなかったことにする。
ジェフリーの言う通り、リディアが向かった場所は資料室ではなく、王宮の騎士が集まる鍛錬場だった。
目的は、目の前の人物に会うため。ジェフリー・オルグレン、王宮騎士の第二騎士団長。リディアの五つほど上で、兄のような存在であり癒しである。鬼クソ上司の苛立ちをおさめてくれる避・鬼上司スポットなのだ。
そんな癒しの口から聞きたくもない鬼上司の名前が出てきて、笑顔で対応できるはずもあるまい。リディアは隠す様子もなく顔を歪めた。
リディアの鬼上司、ギルバート・ブルクハルト。現宰相の息子にして次期宰相候補。現在は宰相の補佐かつ、リディアのような財務を担当する文官を取り纏める財務・政務官をしている。
漆黒の髪とジェフリーと同じ緑の瞳を持っているが、ジェフリーの癒しの新緑のような印象に対して、ギルバートは様々な毒草を煮てできた禍々しい煮汁のようだ。
あくまでも、二人を一緒くたにはしたくないリディアの印象である。
「そんなこと言うの、リディくらいじゃないかなぁ。ギルって女の子に人気なんだよ?」
「皆、あれの本性知らないだけですよ! 紳士は女性に向かってペンや紙束を投げません!!」
見てくださいこれと、リディアは前髪を持ち上げて、抑えていた額を見せる。相当強く打ったのか、一部が赤くなっていた。
ジェフリーは何がおかしいのか、くすりと笑ってリディアの額を撫でた。これにはリディアも、ぴっと固まるしかない。
「今度はなにしたの?」
「……提出した書類に、暗号を」
「仕込むリディもリディだけど、ギルもまぁよく気付くよね」
敢えて『暗号』と伝えたが、ジェフリーはあまり気にとめなかったようだ。何をしたかある程度は想像がついているのだろうか。
ぽかぽかと暖かい日差しのような笑顔に、リディアの先程までの怒りも少しながら収まってくる。鬼のような冷たい風を吹かれれば殻に閉じこもるしかないが、暖かい日差しに包まれたら怒りの外套も早々と脱ぎ捨てるだろう。
リディアは漸く、ここに来た本題を思い出す。
「ジェフ様、私に稽古をつけてください」
「え? ギルに資料室に行くように頼まれてたんじゃないの?」
「資料室に捜し物をしに行かせるってことは、暫く戻ってこないのは承知の上でしょう。ちょっとだけですから!」
この王宮の資料室は、エトランダ国の建国当初の文献から保管されており、最近はあまりの量に物置状態。どこに何があるのか分からなくなっている。
なぜそのような状態になったかは不明だが。よく使用する資料はまた別の新資料室に保管されるようになっている。
つまるところ、資料室は開かずの間。滅多に人は入らない。
捜し物をするために入りたくない場所ナンバーワンだ。いくら時間があっても足りない気がする。
あの鬼上司は本当にこの資料が必要なのか。
どっちみち遅くなるならば、ジェフリーに剣の稽古をつけてもらおうという魂胆だ。いつか鬼上司を滅多打ちにするために。
いつもならば、仕方ないなぁと言いながら付き合ってくれるのだが。何故かジェフリーはギュッと眉を寄せた。
「ジェフ様……?」
不思議に思って彼の名前を呼ぶが、代わりに返ってきた返事は背後からだった。それも、すっごく聞きたくない声の気がする。
「リディア、資料室はこちらではないですよね?」
地を這うような声に、ギギギ……と、ブリキ人形のように振り返る。
そこには、鬼のような形相をした鬼上司が立っていた。何故ここにいるのか。まさかこちらの方に用事でもあったのか。とにかくリディアはダラダラと冷や汗を流す。これはまずい。
逃げるが勝ち。リディアはパッと顔を正面に戻し、慌ててジェフリーの横を走り去ろうとする、が。
「ぐえっ」
女として有るまじき声と共に、脳天に衝撃が走り頭を抑えて蹲る。
ゴロゴロ と可愛くない音を立てて、蹲るリディアの横を転がったのは巻物だった。ギルバートが投げ、リディアの頭にクリーンヒットしたものである。
あまりの痛みに動けないのをいいことに、ギルバートはツカツカと歩み寄ってリディアの襟を引っ張った。
「ギル……リディアは女の子なんだから、もう少し丁寧に……」
「サボるコレが悪い。ジェフリーもあまり彼女を甘やかさないでください」
「離せ!」
復活したリディアは、襟を掴んでいたギルバートの手を払って立ち上がる。そして足元を転がっていた巻物を手に取り、首を傾げる。そしてなにか分かった瞬間、これでもかと眉間に皺を寄せた。
巻物に書かれていたのは、つい先程聞いたばかりの題名。まさかこんな短時間で、あの資料室から見つけてきたとは考えにくい。
巻物を見て固まるリディアに、ギルバートは「ふん」と鼻で笑った。
「実はあなたに頼んだ資料なのですが、驚くことに手元にありました。なので頃合いを見て声をかけに」
聞き終わる前にリディアは素早く蹴りを入れる。が、ギルバートにはあっさり避けられてしまう。
今、頃合いを見てと言ったか。つまり、リディアが真っ直ぐ資料室にいってギルバートの言われた通りにしていたら、有りもしない資料を泣きながら探すハメになっていたことだろう。
そしてギルバートはそんなリディアの姿を笑うつもりだったのだ。きっとそうに違いない。
今ほど自分の性格に感謝したことはない。正直者は馬鹿を見るとはこのこと。(鬼上司にのみ)捻くれ者バンザイ。
「最っ悪」
せっかくジェフリーに癒されていたのに、一気に気分は急降下だ。
いっそどこかに異動できないか。財務でなければどこでもいい。法務でも外務でも、なんなら武官でも。鬼上司がいないところならばどこでもいい。
悪態をつくリディアの様子に、ジェフリーは朗らかに笑った。
「リディがいいなら、僕のところに来てくれてもいいんだけどね」
「えっ!」
とても甘美な勧誘である。
期待を含んだ輝かしい瞳で、ジェフリーへと視線を注ぐ。
「ダメですよ。リディアがいないと困ります」
えっ。
しかし思わぬ言葉がギルバートから発せられ、リディアは耳を疑う。ジェフリーも予想だにしない発言だったのか、僅かに目を見張った。
当の本人であるギルバートは、とくに動揺する様子もなくため息を吐いた。
「あなたに投げつけた書類が散らばったままですから。さっさと片付けて全て書き直してください」
「そんなことだろうと思ったよ!」
「ギル……」
流石に哀れだと思ったのか、ジェフリーはギルバートに咎めるような視線を投げた。
もっとやってやれ! とリディアは心の中でジェフリーを拳を持ち上げて応援するが、ギルバートはそれを見透かしたようでリディアを睨む。
「部下を労る事を言うのも、上司の仕事だよ」
これに労りの言葉……? と眉を寄せつつも、ジェフリーの言葉にも一理あると感じたのか、目を閉じて考える素振りをする。
ギルバートはリディアに対しては全くと言っていいほど『上司』らしくないが、リディア以外に対しては誰もが憧れるような上司そのものであった。例えリディア相手であっても、上司の仕事と言われてしまっては考える必要がある。
思いついたように目を開き、リディアの事を真っ直ぐに見た。
「あなたの事、離し難いとは思っていますよ」
おや。
素直な感想にリディアは目をぱちくりとする。
物を投げるしか脳のない人間かと思っていたが、案外部下を褒める言葉も知っているのではないか。普段からそうであればいいのに。
感心するのも束の間。次の言葉にリディアは、今度は拳を投げることになる。
「頭脳だけでいいんですがねぇ」
それは、リディア自身はいらないということか。
思わず出た拳も容易に避けられ、募る怒りを隠すためニッコリと微笑んだ。
「ギルバート様、一言余計ってよく言われません? モテませんよ」
もう一度、巻物が降ってきた。
「離し難い頭脳がたった今叩き潰されたのですが……」
「あなたの頭脳はこんなものじゃ潰れませんので大丈夫です」
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。
いや、怒るべきだ。
痛む頭を抑えるリディアは、苦笑いするジェフリーに見送られ、ギルバートに引きずられながら職場へと戻っていった。
新連載です。
明日明後日と更新し、その後はストックがある分に関しては3日に1度の更新としていきます。よろしくお願いします。
☆前作「視える令嬢とつかれやすい公爵」の方もよろしくお願いします。こちらは完結済みです。