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夜更けとデーア

作者: 都の錦


 こんなの映画かなんかでしか見たことないよ、と、どこか冷めた頭で思いながら、髪から顔から滴る水滴を拭った。

 コップの水をぶっかけられるなんて、人生のうちにそうそう何度もあることじゃない。

 目の前の敵意に満ちた目でこっちを見つめる女の子は、グラスを持つ手をまだわなわなと震わせている。せっかくコップに一杯の水を浪費したのに、怒りがおさまった様子も見えない。一体何のために尊い水をぶちまけたんだか。

「あれ、バレちゃった?」

 女の子に顔がいくつもあるのは知ってるでしょう?

「ふぅん。勘がいいんだ」

 恋人の数だけ顔がある。それは誰だって同じ。

「いいよ。話してあげる」

 でもそれだけじゃ足りなくなって。幸せを掴むために、昼の顔と、夜の顔も飼い慣らしてみようと思った。

「君が誰であろうとそんなことどうでもいいよ」

どこまで嘘をつけるか、試してみたかったのだ。どこまで嘘をつけば、世界が変わるのか、見たかったのだ。

「ねぇ、遊ぼう?」

 そして君に尋ねたい。

 夜は誰のものだと思う?

 って。



 月曜日のアタシ、中里美枝子。

「ごめんなさい。待ちました、よね?」

 肩ほどまでの柔らかい髪がわざとらしくない程度に揺れる。清潔感のあるあどけない笑顔は、完全に十九歳の少女のそれ。

「大丈夫。それよりほら、行こう?」

 目の前の男がたどたどしく手を差し出す。初めての恋人に浮かれる真面目な大学生。 

 ――つまり、冴えないガキ。

 初々しくてこそばゆい、アタシの大事な月曜日の恋人。

「今日はどこに連れてってくれるんですか?」

 洗練された白のワンピースが歩く度にふわふわと揺れる。狙ったとおりの効果。

 昼のアタシにぴったり。 

 二人で手をつないでショッピングモールをだらだら歩いて喫茶店でお茶をして。学生らしい学生のデートを楽しむ。

 そしてあっという間に

「今日は楽しかったね」

 夜がやって来る。

「本当にありがとうございました。駅まで送って頂いて」

「あ、あのさ」

「何ですか?」

「これ」

「・・・映画のチケット?」

「チケットって言うか……」

 所在なさげに伏せた目線が地面をうろつく。そんなところに台詞が書いてあるの?

「ペアチケットなんだけど……」

 クラシカルなテクニックは嫌いじゃないわ。あなたはずっとあなたでいて。

 でも、

「今週の日曜日、もしよかったら」

 ばーか。

「ごめんなさい」

 日曜日には日曜日のカレがいるのだから。あなたの出る幕はない。

 せいぜい舞台袖で口を開けて見てなさい。

「また月曜日に、会いましょう」

 急いで帰らなくちゃ、夜が来る前に。

 夜はアタシのものではないから。


 火曜日。アタシ、志田千冬。

 下を向くと大きな眼鏡がずれる。手にいっぱい抱えた分厚い本のせいで眼鏡を直せずむず痒い・・・フリをする。

 表情から筋肉の緊張具合から何から完璧な芝居。

「お困りですか?」

 誰かの細く長い指が千冬の眼鏡を持ち上げた。

 登場だけはベストタイミングのヒーロー見参。

 顔を上げると、火曜日のカレがいたずらっ子のような笑みを浮かべて立っていた。

「えへへ、今解決しました」

 ウィスパーボイスでそう返す。

 すっぴんに近い無防備な顔に無防備な笑顔を浮かべる、さっぱりとした美人。

「あと五分で休憩入れるから」

 ――三枚目なカレは少し気取り屋。

「了解です。頑張れ図書館員さん」

 ――まあ背伸びしてる感じが好きなんだけど。

 志田千冬。二七歳

 図書館通いが趣味のフリーライター。

「お待たせ、外行こっか」

「うん!」

「ところで、今日の夜暇?もしよかったらご飯でも」

 アナタも違うの。

「ごめんね。今日中にやっちゃいたい仕事あるから」

 夜はアナタのものじやないの。

「また火曜日にね」


 水曜日のアタシは木内梨子。

 気が強く何をやらせても優秀な、大手出版社の女性社員。

「ごめんなさい。忙しいのに呼び出したりして」

 彼氏は小さな劇団の役者。

「いいんだよ。そっちこそ今日は大事な会議があるって・・・」

 真面目一辺倒な堅物に見えて

「どうしても・・・会いたくなったの」

 甘え上手の小悪魔である。

 伸びやかな声を急に掠れさせて囁くのも、計算ずくのテクニックだ。

「迷惑だったかしら?」

 センスのいいパンツスーツを完璧に着こなす姿は女が見ても惚れ惚れするほどで。

「そ、そんな迷惑なんて・・・」

 すごく良い女だし演じていてとても気持ちがいいけれど・・・

「あの、よかったら今から」

「ありがとう。あなたの顔見たら元気出てきた」

 残念ながら、この子だって『昼の顔』。

「わざわざ来てくれて嬉しかった。午後からも仕事頑張るわ」


 木曜日はアタシ、山田麻。

「ねぇ、アタシのこと好き?」

 一度も日に当たったことがないかのように白い肌はもう病的の域。

「うん。好きだよ」

 ドラマチックで派手な演出が好きな彼には

「じゃあ一緒に死んでよ」

 ピッタリのメンヘラ美少女。

 世界には絶望しかない。未来には闇しかない。誰も私を必要としていない。

「それは、無理だよ」

 月曜の彼と同じくらい冴えないくせに、百倍めんどくさい彼。

 でも、めんどくさいことは嫌いじゃないの。

「・・・帰る」

 これがアタシだけの体ならあなたと一緒に溺れてあげたいわ。

「待てよ」

「夜はどうしても、一人になりたいの」

 なんて言って、夜まで病んでるのも退屈なだけ。


 金曜日、アタシ上村雪。

「あと何回会えるかわからないわ」

 儚い笑顔と少女らしい無邪気さのバランスは絶妙。

「そんな」

「あたし怖いの」

 誰でも一度は憧れるものでしょう?

「大丈夫。僕がそばにいる」

 サナトリウム文学のヒロインって。

「ありがとう」


「あんたにはお仕置きが必要なようだね?」

 土曜日のアタシ、ルミ女王様。

「ヒィイ!!ごめんなさい!!こめんなさい!!」

 に至っては説明の必要もないかも。

「誰が顔上げて良いって言った?」

 なんて言うか、ただただやってみたかっただけの遊び。

 明らかに夜っぽいけれど、彼女も勿論昼の顔。


 そして日曜日。アタシ、榎本和歌子。

「よっしゃラスト一球来いや!!」

 ショートパンツから伸びるカモシカみたいな足にいやらしさのない、少年のような女の子。

「和歌子いけー!!」

「任せろー!!」

 グラウンドで少年野球チームに混ざって本気になって遊んじゃうような十六歳。


 どのアタシも愛してる。目の前の男はアタシの持つ他の顔なんか知らずにアタシを見てる。相手にとってアタシは「リアル」だから本物の芝居ができる。

 セットも照明も音響も全て本物。その高揚感は一度知ってしまったら抜け出せない。

 だから嘘を吐いた。世界を変えたかったの。

 美枝子の初恋も千冬の優しい午後も梨子のプライドも麻の衝動も雪の切ない出会いもルミの楽しいお仕事も和歌子の頬に受ける風も他の誰のものでもないから。本当の自分じゃどんなに頑張ったって手に入れられないものばかりだから。

 本当のアタシは。


「じゃあ、また来週」


 ラジオパーソナリティのようにお決まりのフレーズでその日のカレにそう告げると、誰も上げたことのないアタシの家へ早足で帰る。夜を振り切るくらいに早足で。本当のアタシが目覚める前に。

 家へ帰ると大急ぎでウィッグを外してシャワーを浴びる。淹れたての紅茶よりももっと熱いシャワーを。

 天使の羽に触れるように優しくメイクを落とす。

 浴室から出るとすぐに化粧水をつける。一日でも長くアタシがアタシでいられるようにと念を込めて、肌の手入れは丁寧にする。

 そして体が冷える前に着替え。夜の制服は特別で、他には変えられないのだ。洗い立ての体に、冷たいスーツが馴染んでいく感覚に集中する。一目でただ者じゃないとわかる、でも簡単に街に溶け込んでしまう。着崩しているように見えて最も守りの堅い着こなし。

 今日も完璧だ。

 そう確信できたら、ドレッサーの姿見に向かう。

 三面鏡に三つの像が映し出される。

 王子様のように美しく、魔法使いのように不敵で、軍人のように粗野な男が、そこには立っていた。

 こんばんは。ご機嫌いかがですか?

 鏡の中で細身の男が自嘲的な笑みを浮かべる。 

 オレは確信した。これなら今日も一日生き延びられる。 

 ウィッグにも化粧にも頼らない、ある意味最も無防備で、ある意味最も強い姿。

 誰も昼の顔と夜の顔を結びつけられはしない。

 と思ってた。


「で、君に気付かれた」

 今、オレは一人の女と対峙している。

「っていう具合なんだ。笑えるでしょ?」

 夜の街でオレに声をかけてきた女。何曜日のカレだかの恋人を名乗るそいつは、やっと突き止めたカレの浮気相手の顔にオレがそっくりで、たまらずオレに声をかけたと言う。

「大丈夫。君のカレからお金巻き上げたりはしてないよ」

 昼の顔のことを言われ、オレは悟った。

 アタシの寿命は今日までなのだ。と。

「本当に、楽しみたかっただけなんだ普通の人と、普通の時間を」

 不器用なオレを笑ってよ。

「オレの話・・・いや、アタシの話はこれで終わり。ところで、さっきも聞いたけど」

 どのカレだって愛してた。目の前の男が対峙するアタシはいつだってきっとリアルだった。

「ちょっと遊ばない?」

月曜日も火曜日も水曜日も木曜日も金曜日も土曜日も日曜日も。

「下心しかないよ? でも別にいいよね」

 役名、オレ。

「お代なんて君が決めればいいよ」

 借金、暴力、汚いこと、目を背けたいようなこと、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。

 男でも女でも、命を繋ぐために必要なら誰の靴だって舐めた。

 血液でも感情でも金になるのなら何だって売った。

 この街の夜は全部オレのもんだ。そう口の中で何度となく呟いて全てを耐えてきた。

「わかるでしょ、一人になりたくない気分なの」

 そうしてやっと今、オレは此処まで登ってきたのだ。

 羨望の目、欲望の目、嫉妬の目はピンスポットのようにオレを照らし出す。

 夜に生きる役者で、オレのことを知らない奴なんかいない。オレがこの街を掌握してるんだ。そう思うようになった。

「今夜は誰かに踊らされたい」

 これでゲームコンプリート。大満足の万々歳。って、高笑いしてた。

 だけど、まだ手に入れられていないものがあるのだと、ある日知ってしまった。

 日溜まり、笑い声、生きがい、学校、会社、友達、恋人。これまで目も向けなかったような全てが欲しくて欲しくて狂ってしまいそうだった。 

「君のカレよりオレはきっと器用だよ」

 でもオレはこれ以外の生き方を知らないから。

「別に文句ないでしょ?」 

 昼の街でオレは生きられないから。

 昼の街じゃこの顔で生きられないから。

「さあ、行こう」

 オレが取りこぼした幸せは、アタシが拾えばいいやって。嘘を吐き続ければいつか世界が変わって、昼のアタシが本物になるかもって。

 舞台と客席の境目をなくすぐらいにがむしゃらに演じた。なりたい自分と欲しいものを探した。

 七人のアタシは皆可愛くて愛しくて幸せだった。

 でもそれだけじゃ生きていけないから、オレは未だに誰よりも高い地べたで這いずり回ってる。

 世の中そんなに甘くなのだ。

 だからオレは今日も呟く。 

「夜はオレのもんだ」

 共演者は君。舞台はこの街。

 さあ、楽しい演劇の始まりだ。


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