10
広い寝台の真ん中でまるまるように眠っていたクメルの白銀の毛に包まれた猫耳がピクリと動き、長い尾がゆっくりとうねった。
この世界にガラスなどあるわけがなく、細木で組まれた格子戸を夜に閉めるだけである。それがゆっくりと横に動いていた。
乾燥してるはずの砂漠の空気がゆっくりとした風とともに生ぐさく体にまとわりつくような不快なものに変化していた。
……… ずるり ぺちゃり ……… ぴと、ぴと、ぴと………ずるり、ずるり、ずるり……
粘ついた液体を滴らせながら部屋の中をのそりのそりと歩くその音はクメルが寝ている寝台の手前で止まった。
クメルの敏感な鼻に魚類の腐臭のようななんとも言えない汚穢な匂いが感じられた。そして、焦げた匂いと共に百合のような強い甘ったるい香りが漂ってきた。
クメルはそれが教わった催眠の香であることに気がついた。彼女はそっと寝台に敷かれた布で鼻と口を塞いだ。
しばらくすると侵入者は部屋の中を探索しだした。
「……ここに…ない……どこ…だ………」
ずるずる、ぴちゃぴちゃといった汚らしい音に紛れて無理やり人の言葉を話したような声がかすかに聞こえてきた。
侵入者の動きが止まった。
気配がクメルの頭の上に色濃く漂う。
「あれ………どこ、だ………」
クメルは弾かれたように後方に飛び跳ね、部屋の床を数回転がり、クリスを構えた。
「お前、何を言っているか、わからん。何を探している?」
「われら、が王の、タネ……おま、え、たち……持って、いても、いい、ものでない。」
「おうのたね?何だそれは?」
「しら、ぬ、のにもって、いるのか。この不敬、者め………」
「…関係ない。この宿は、気に入っているから、もめ事を起こしたくない。」
そう言うとクメルは侵入者が入ってきた窓に駆け寄るとそのまま外へと飛び出した。ぴたっ、ぴたっとそれまでよりも早い足音が聞こえ、侵入者が窓に近づき、逃げ出したクメルの後を追うためにフードに包まれた頭を窓から出した。
ブワッ
何か、白い塊が窓の横を落ちた。
フードにチリっとかすめたと瞬間、侵入者は急激な力に引きずられ、強い力で侵入者は硬い路面に叩きつけられた。
クメルは窓から逃げたふりで宿屋の屋上に上がっていた。そして侵入者が窓に近づき顔を出したところで飛び降り、自分の尾で引きずり出したのだった。
フードが外れ、夜の月明かりに照らされたその顔は夕にまぎれて襲った邪神教徒とそっくりな平べったい魚のような顔をした男だった。
「やはり邪神教徒。」
クメルはそう呟き、ためらいもなくクリスで邪神教徒の目を切り裂き、返す刃で喉をかっ切った。吹き出る血しぶきを避け、最後に心臓に一突きした。
少し離れたところでしばらく死体を観察していたクメルは消え失せないことを確認したのち、死体の両足を掴んで人目のつかないところまで引きずっていった。そこで検分をはじめた。侵入してきた男も邪神教の印を首にかけていた。生臭い匂いは変わらず、服からのぞく首は蛇族のように鱗があるわけでなく、なまずのようにヌメヌメとした粘液に包まれていた。
男の身元を明かすようなものはなく、価値のある宝石や刀などもなく、腰の袋に薬の小袋がいくつか入っていた。
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早朝、南部の砂漠では珍しい霧が立ち込めていた。その中を満足したような足取りで宿屋に戻ってきたパーンの背中に小石が当たった。
「うん?」
振り返ると道を挟んで建物の間からクメルの顔が覗いていた。
「どうしたんだ?」
「パーンが楽しんでいる間に、いろいろなことがあった。こっち。」
手まねきに応じて道を渡ると血の匂いが濃くなった。
クメルの奥には死体が転がっていた。
「何があった。」
「邪神教徒。奴ら、おうのたねというものを探しているらしい。」
「おうのたね?なんだ、それは。」
「知らない。パーンはなにか掴んだ?」
「特に何も。奴隷商人の縁者だという女が怪しいのではないかとなった。」
「ああ。そんなのもいた。ともかくギルド?それとも衛士隊?どっちに行く?」
「ギルドだ。金をもらうぞ。」
「だね。パーンが持って。」
「お前の獲物だろ?」
「ギルドまで引きずって行くの?無理。」
パーンは転がっている邪神教徒の死体と小柄なクメルを見比べた。そして、肩をすくめ、徐々に硬くなってきたそれを担いでギルドに向かった。
朝から縁起の悪いものを担いで現れた二人に仕事を探しに来ていた冒険者たちは遠巻きに見つめていた。カウンターにははじめにあった態度の大きな男がいた。
「なんだよ、それは。」
「邪神教徒だ。受け取れ。」
「おいおい、ありえないだろ。」
「開けてみろ。」
男は死体を包んでいたフード付きのケーブを開いた。彼は中の物を覗き、絶句した。
「……… おい、まじかよ。誰か、衛士隊に行け!!数年ぶりの大物だ!!」
どっとギルドのホール内が湧いた。
言葉少ないパーンとクメルの調書をやっとのことでまとめた衛士隊の隊長はパーンに呼び出しがありうることを硬い声で伝え、ギルドから去った。
衛士隊とはまた別に王直轄の魔術師が邪神教徒の死体を検分に来た。
甲高いかすれ声の老人は男とも女ともつかない皺に埋もれた顔に背が曲がった体をしていた。魔術師は杖の先で死体の粘液を確かめたり、人から外れたその容貌を確認していた。
「紛れもなく、邪神教徒じゃな。」
「なぜわかる?」
「まずはこの顔じゃな。魚のようじゃろ。『帝国』時代の古文書にな、邪神の一柱は海の支配者であったと書かれておる。奴らは邪神を崇めるために自分自身を人族から徐々に魚のようなおぞましい体に変わってゆく呪いを嬉々として受けるのじゃ。」
「…奴らは、もともとは人族なのか。」
「そうじゃ。彼奴らは元は『帝国』臣民だったと言われておる。
『帝国』が没し、中原が人の手から魔獣に移った時、そこにいた人族たちは魔獣たちの蹂躙にそれまでの文明を捨て、猿人族のように退化していったと言われておる。
人族たちが信じる神々は彼奴らを中原の魔獣や理不尽な死から守ってくれるだけの力を持たず、それに憤った臣民たちが邪神にすり寄ったと言われる。
邪神は力と引き換えに人族から禍々しい神々の支配しやすいものへと変化を促したと言われておる。」
「魔術師よ。なぜそのようなことを知っているのだ?『帝国』はレコードマニアだったと聞いたが、『帝国』が亡くなった後からは記録がないだろう。」
「人や獣人、亜人の一部にとって邪神は相容れない。仇敵そのものじゃ。『帝国』がその寿命を遂げ、次代に渡しても邪神の脅威に関しては連綿と言い伝えておったのじゃ。」
「魔術師よ。聞きたいことがある。なぜ、魔術師には伝えられているのだ。」
「我々は南部ハイパースフィア大陸でも最古の王国、ウパイドゥスの誇りある王都の魔術師。『帝国』の魔導師直系の魔術師じゃ。お前らの知らぬ事もわしらにとっては当たり前のことじゃ。」
パーンは唸り声をあげた。
「魔術師さま。私たちには身に覚えはない。だが、こいつは私に『おうのたね』をどこにやったと言いがかりをつけられた。」
「なぬ!?王の胤とな!!そ、それは…そのようなことを語ったのか!?」
「俺は知らぬ。子猫がそう言われたと話していた。」
「クメルだ。」
「クメルよ。何か、心当たりはないのか!?」
「そもそも、『おうのたね』とは何だ?」
「ウゥムムム…。それを語ることは許されておらぬが、一つ言えることは脈打つ血のような色をした琥珀のような石じゃ。」
「知らない。」
「俺もわからん。だがしかし、宝石のようなものであるのならば、あの商人が持っていてもおかしくはないだろう。俺たちが襲われはじめたのも、盗賊の征伐に行ってからだからな。」
「もしくは、盗賊かも。」
「それもありうるな。」
パーンとクメルの会話を聞いていた魔術師は深く頷いた。
「盗賊が盗んだ財宝に関しては衛士達に尋ねるとしよう。その商人は今はどこにおるのじゃ。」
「今頃、エレシュキガルのしもべであるナムタルにこき使われているだろうよ。」
「盗賊に襲われて死んだ。」
「むぅ…そのものの持ち物はどうした?」
「家族を名乗るベールをつけた女がすべて持って行ったらしい。商人がつれていた女奴隷はそのようなものを見た事がないと話していた。」
「そうか。それも衛士達に調べてもらおう。
あいわかった。お前たち、ご苦労であった。報奨金はギルドから受け取るがいい。」
魔術師はそう言い残し、邪神教徒の骸を衛士たちに運ばせて去った。
「しばらく働かなくてもいいだけ儲けた。」
「だが、納得いかない。」
「?」
「襲われたのは俺たちだ。なら、俺たちが全て平らげるべきだ。」
「あぁ、腹の虫が収まらないってことか。でも、同意する。」
「で、どうする。」
「は?」
「お前は子猫だが、学があるようだ。お前の考えも聞きたい。」
「うにゃ…」
思いもよらない時にパーンから頼られてしまい、気がつかずに幼い頃の口癖が出てしまったクメルは腕を組んでしばらく考えていたが、やがてパーンを見上げた。
「とりあえず、金を持ってナンナのところに行きな。そして、『王の胤』と呼ばれる琥珀のような宝石に見覚えがないか尋ねるといい。」
「お前も行くか?」
「わたしがついていったら、パーンはわたしを売りに来たと思われるだろ?嫌だよ。」
「そういえば、お前、メス猫だったな。」
「メス呼ばわりか!?」
クメルは激怒したが、パーンは彼女がなぜ激怒したのかわからず、また意にも介さなかった。
「では、お前はどうする。」
「宿に戻って寝るよ。ずっと寝ていないから眠い。」
「わかった。ではここで別れよう。」
「ちょっと待った。金を持っていってもいいと言ったが、パーンの分の全額を持っていっていいとは言ってない。金1枚あっても一人なら遊びきれない。残りは私が預かる。」
「お前が持ち逃げしないとは限らないだろう。」
「だったら、前回の盗賊征伐の金の時に、とっくに持ち逃げしているだろう?いいから渡せ。パーンはどう見ても金の使い方をまだよくわかっていない。奴隷戦士の時に持ち合わせなんか必要なかっただろ?」
「ああ、だが、俺が稼いだ金だぞ。」
「やったのはわたしだ。パーンはあのデカ物を運んだだけじゃないか。」
「うぬっ…」
しぶしぶパーンは腰にぶら下げていた皮袋から金一枚を取り出し、残りをクメルに預けた。