ジャドキンは小包を運ぶ
茶封筒の束を運ぶ、薄ぼんやりとした毛織物の人影が一つ。その男の名はジャドキンと言った。私たちはドーセットシャーのぬかるむ小路の曲り角で偶然出会ったのだ。
男の傍にいた葦毛の牝馬がこちらをジロジロと眺めてくる。そして、しばらく考え込んだ後、牝馬はお辞儀でもするようにハッキリと頭を下げたのであった。無神経で鈍感なようにも見えるが、この牝馬は人見知りならぬ『路見知り』なのだそうだ。しかしながら、どの路は大丈夫でどの路は駄目というのは全く以て分からないらしい。私たちはこの牝馬のことをレッドフォードと呼んでいた。
そんな風にして私とジャドキンは出会い、二度目に会ったときも同じような状況だった。同じようにぬかるんだ小路。少し申し訳なさそうな感じの、以前と同じツイード姿。同じような……いや、正確には違うのだが、とてもよく似た……小包の束。ただ、この時に限っては、葦毛の馬は真っ直ぐ前を見つめていた。
この馬の飼主が教えてくれたのか、それとも私が訊いたのかは覚えていないが、とにかく色々とあって、私は徐々に徐々に、この足取りの重い馬の一生を識ることとなった。間違いない、一昔前の優秀な騎兵連隊の兵士や、著名な騎手のような、稀にしか世に現れぬ人々と全く同じような道程を、この馬とその主は歩んできたのだ。東洋の神秘に胸を膨らませ、その吐息を肺腑の奥に深く押し込めた者達が、舞踏会を巡り楽しく跳ね回る。愛馬を駆けて総督杯に突撃し、アデン湾の辺りで桜を愛でて舌鼓を打つ。
だがしかし、金色の小川もやがて渇き果て、陽光は忽然と消え去る。神々は頷きながら「先に進め」と命じたことだろう。だが、今も昔も彼らは歩みを進めることはなかった。その代りに、ぬかるむ小路や陳腐な別荘、人生を安売りするような苦しみの隘路へと引き返していったのである。それもひとえに、梨の木が育つのを見届けるためであり、卵を産ませるために鶏を柵の中に囲い込むようなものだった。かつての人々と同じく、ジャドキンは歩みを進めず、ただただそこで立ち止まった。人生という盃から突如として零れ出すワイン。賢い者であれば零れた酒など捨て置くものであるが、ジャドキンはそのたった少しの酒の雫を啜るために、その場に留まったのだ。ジャドキンは大抵のことに軽蔑の目を向けて、ただただ日々という日々を過ごしてきた。牝馬にも目を向けてみるが、レッドフォードは全く以て賢く気取ることもなく、クルリと踵を返した。その様子を見て、ジャドキンは葡萄酒が凍りつくような錯覚を覚える。それはさながら、薄布の裏を覗いたときに、目にした醜女にその身を凍らせるような感覚であった。
そして今、ジャドキンは禁欲を誓い、泥沼の中を歩み始めたのである。毛織物のスーツを身に纏い、とうとう庭師の子供のように泥だらけになってしまった。だが、おそらく、その泥だらけの姿が彼にはピッタリなのだと思う。万物が創み出される前から、この世の全てを見通してきた神様が、今日の今日までずっと育てておいでになったのは、とどのつまりジャドキンという小さな小さな庭師だったのかもしれない。それは、どこでも似合うような服を着た小さな庭師である。結局のところ、ジャドキンは神様たちの庭園の片隅に棲まう庭番にすぎなかったのだ……という風に私は考えてはいるけれど、おそらくきっとそれは十中八九間違っていることだろう。とにもかくにも、ジャドキンのその服はどんな宗教よりもよく身に馴染み、骨肉の争いなど比べ物にならぬほどに、神聖なものに思えた。
そして郊外の自宅に帰り着き、自分と小包を待つ妻の下へ、その荷物を送り届けたことだろう。……ただ私たちの想像とは違い、彼の奥様は昔と変わらぬ面影を残し、そしてきっとあの頃と変わらない金色に輝くの魂を持っていた……そう、9カラットの金色の心である。ただ、少し言わせてもらいたい。そんな彼女の魂も、所詮は紐のように薄っぺらいものであった。荷物運びを続けてきたジャドキンは、これからどうやって愛する妻と暮らしていくのかということについて説き伏せることだろう。仮に粗悪な砂糖の山や糸の束を持ってくる羽目になっても、彼は甘い言葉で彼女の鉛色の顔に浮かぶ不愉快さを消し去ってくれることと思う。パティシエールが、古くなったパンに集る金蠅を追い払うようにして、彼女の不安を消し飛ばすのである。苛立つサラブレッドを宥めすかすのはお手のものであったし、落馬するくらいグラグラと揺れる心やダラダラと流れ落ちる汗をどうにかする方法も存じていた。躍動は擦り傷を作り、筋肉が煌めきを見せるように、ジャドキンの手に掛かれば、者どもは皆、彼の下で喜び踊るのだ。
思えば、これまで彼は荒れ果てた裸の大地のような世界に暮らしていたのだろう。荒涼たる獣どもが鼻を鳴らし想像もしたくないほどの讃美歌を謳い、その上、真夜中になると獣の瞳は星の光を反射してギラギラと輝く。……だからこそ、彼は温かな孵卵器の奥へと己が身を沈めていったのである。それ恐ろしくもあり、また悪しきことでもある。通りで彼に会うと未だに退屈そうな色を浮かべている。それでいて、さも幸せそうであるかのような上機嫌な顔をしてみせるのだ。小包運びのジャドキンは人生の絞り滓の中に一体何を見つけたというのか。流れる水が絶えず行き交う中、私が今まで見過ごしてきた人生の滓に何を見たのだろうか。彼の悪知恵というものは、果たして気の狂った賢者よりも賢いものなのだろうか。その答えは、神のみぞ知る。
そして三度目の邂逅だ。よもや三度もジャドキンに会い見えることとなろうとは予想だしていなかったし、それも出くわすのはいつものあの路なのである。空一面を雲が覆っていたあの日、葦毛の牝馬はあの重い足取りで私を駅へと運んでくれた。
その道すがら、どんよりとした見た目の邸宅を通り過ぎる。飼主が教えてくれたのか、それとも本能で悟ったのかは忘れてしまったが、そこはジャドキンの家であったのだ。鬱蒼と茂るニワトコの垣根を越えると、ドシンという物音が聞こえてくる。踏み鋤が大地を踏み進む鈍い音である。金属と金属が擦り合う音が聞こえた、かと思えばまたしばしの静寂。まるで、誰かが小石を拾っては投げるような間隔で音が鳴り響く。実際、ジャドキンは何かよく分からないものを梨の木の根元に向かって運んでいた。そのとき気付いたのだが、ジャドキン脇には大きくて薹の立った瓜が横たわっていた。その大きさと年季の入った風貌は、昼食の席の話の種ぐらいにはなるだろう。ただ、その大きな瓜は収穫祭の宴席を彩ってくれるとは思うが、世間様の目から見ればとても十分なものとは言えないだろう。しかしながら、祝宴の席に必要なものを農家に全て用意させるというのも不公平な話である。
それから、私は垣根伝いに、街の方へと足を早めた。一方、ジャドキンは瓜と籠一杯のダリアを抱えて、牧師館への道をトボトボと歩き始めていた。きっと彼の手元に戻ってくるのはその籠だけだろう。
原著:「Reginald in Russia and Other Sketches」(1910) 所収「Judkin of the Parcels」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
翻訳者:着地した鶏
底本:「The Complete Saki」(1998, Penguin Classics)所収「The Saint and the Goblin」
初訳公開:2015年10月12日
【訳者のあとがき(2023.9.23追記)】
この短編は難解で本当に意味が分からず、翻訳中も終始歯車がずれたままだった。誤訳だらけだと思うが、初稿を投稿した2015年10月の時点ではこの短編は未訳作品であったので参考にする書籍はなかったので仕方も無い。いつか再度翻訳しなおそう。