先生、好きだよ
夕暮れの教室。二つの机を向かい合わせにして、その片方の席に先生は座っていた。
焦げ茶色の長い髪を右耳の下で一つに束ねた先生。俺の好きな、人。
「春子ちゃんお待たせ!」
部活に休むと連絡しに行って、俺は陸上部で鍛えた自慢の走りで教室に戻ってきた。
今日、少し残ってと俺を呼び出し、教室で待っていた先生は、溜め息を一つ吐きながら俺を見た。
「春子ちゃんじゃない。松本先生って呼びなさいっていつも言ってるでしょう」
「ごめんごめん、じゃあ春子先生」
「……まあいいわ。じゃあ蒼井君、そこ座って」
手を顔の前で合わせて謝ると、先生は向かいの席を指差して俺に座るように促した。
俺が先生のことを勝手に名前で呼ぶようになって、三ヶ月程経つだろうか。それにはある理由があったからだけど、きっと先生は気付いていない。俺が先生を困らせようとして、そうしていると思っているんだろう。
「春子先生、俺は先生に陽平って呼んでほしいんだけど」
椅子を引きながらそう言ってみると、先生はむっとした顔で右手に持った赤いペンで机をトントンと叩いた。先生を苛立たせている原因は紛れもなく俺な訳だけど、そんな怒った顔も可愛くて、険しくなる先生の表情とは裏腹に俺の顔は緩む一方だ。
「ふざけてるんじゃないの。何で呼ばれたかわかる?」
「放課後に女の子から呼び出される理由なんて一つしか思いつかないんだけど」
「放課後に教師から呼び出される理由も一つしか無いわよね」
春子先生は脇に置いていたファイルから定期テストの答案用紙を取り出し、机の上に並べた。一番上の用紙の科目は数学で、一番上の俺の名前の隣には赤ペンで『3点』と書かれている。
「春子先生、眉間に皺寄ってる。なんでそんな難しそうな顔してんの」
「誰のせいだと思ってるの。ほんとどうするの、これ。赤点どころの話じゃないわよ」
一応気にしたのか、眉間の辺りを指で摩りながらも先生は真剣な顔で俺を見つめる。
俺は先生が見つめてくれるのが嬉しくて、にやついてしまうのを必死で抑えるのに必死だったけど、段々と先生の視線が鋭くなるのを感じて表面だけ落ち込んでおこうと下を向いてみた。
「あー……。次で挽回するよ」
「もう無いわよ、次」
「……そうだっけ」
春子先生は腕組みをして椅子の背に凭れ、今日一番の深い溜め息を吐いた。
「何言ってるの、蒼井君もう卒業するのよ」
卒業。その言葉は今俺が一番嫌いな言葉だ。だって先生に会えなくなってしまうんだから。
「卒業、かあ……。卒業したくないなぁ」
ポーズのつもりだったのが、本当に気分が落ち込んでしまって俺は机に突っ伏した。すると顔の横に手が伸びてきて、俺の肩を掴むと優しく身体を起こした。
先生が俺に触れた時、ふわっと優しい匂いがした。香水の匂いじゃなくて、石鹸みたいな清潔感のある香り。白くて細い指が俺の肩から離れて、その時先生の左手の薬指に嵌められた真新しい指輪が見えた。
それはもう何ヶ月も前からそこにあって、もちろんクラス中が知っている。
松本春子先生は、もうすぐ結婚してしまう。
「心配しなくても、このままだったら卒業出来ないわよ」
先生は机の上の答案用紙をずらし、重なっていた紙の点数が見えるように並べる。そこにある数字は、綺麗に一桁が並んでいた。
「授業はちゃんと出てるのに、どうしてこんな点数取っちゃうの? 私が教えてる数学、一番悪いじゃない。私の教え方が悪いから?」
顔の前に突きつけられた答案用紙の後ろで先生の眉が下がったのが見えて、俺はそれをひったくるように取ると大きく首を横に振った。
「数学の時間はちょっと考え事してるから」
春子先生の授業はわかりやすいと学年でも評判だ。断言してもいいけど、俺は先生の授業だけは居眠りなんて一度もしていない。
「集中してないんでしょう。数学嫌いなの?」
「……好きだよ」
好きだから、頑張ってるんだ。だけど、どうやったって届かないんだ、この頑張りは。
先生は俺の「好き」の対象を履き違えたまま言葉を続けた。
「好きならもうちょっと頑張りなさい。ほんとに留年よ?」
「留年、してもいいよ。俺春子先生の授業大好きだから」
あと一年でも二年でも、先生の授業が受けられるなら望むところだ。
「そんなに数学が好きならもう少し点数にも反映させてほしいんだけど」
「だって数学は嫌いだから」
はぁ? とでも言いたそうな顔で先生は俺を見る。俺は何も適当なことを言っているわけじゃない。至って真面目に先生と言葉を交わしているつもりだ。
「……ふざけてる?」
「……うん」
でもきっと、本当のことを言ったら先生を困らせてしまうから。これから幸せになる先生の未来に、気がかりなことなんて欠片も残したくはない。
「私は真面目に話をしたいんだけど」
「俺も先生に真面目な話がある」
「何?」
俺は春子先生の顔を見つめて、暫く考えた。本当に、このままでいいんだろうか。何度も考えた末の結論ではあったけれど、もうこんな風に先生と二人きりで話が出来る機会は果たしてあるのだろうか。先生が生徒を呼び出すのは簡単なことかもしれないけれど、その逆はそうはいかないのだ。
「俺……、やっぱり、なんでもない」
「しっかりしてよ。もう卒業するんだから、蒼井君も、私も」
「……え?」
俺の卒業は勿論わかっていたことだ。高校三年生は三月になれば卒業するのは当たり前だから。でも、先生まで卒業というのはどういうことなんだろう。俺ははっとして、先生の指輪に視線を走らせた。
「来年は私、もういないからね」
「学校、辞めるの?」
鼓動が急に速くなった。この気持ちはずっと言えなくても、ここに来れば先生には会えるんだと思っていた。そのつもりだった。
「まあね、ずっと前から決めてたことだから」
ずっと前から、先生はそう言うけれど、俺にとっては寝耳に水だ。そんな大事なことを、どうしてこんなにあっさり言うんだろう。頭の中にそんなことがぐるぐると廻って、血が昇ってくるのを感じた。
「何で、俺達には教えてくれなかったの」
「それはまあ、タイミングとか色々……って、私のことはいいのよ」
「……ない」
え? と先生が首を傾げた。もう限界だった。十代の自制心がどれほどのものかなんて、高校の教師である先生ならきっとわかっているだろう。
「よくない。……俺に隠し事するなよ!」
先生はすごく驚いた顔で、そして少し戸惑いを含んだ声で言葉を発した。
「どうしたの、急に」
「……ごめん。何でも無い」
「恋人みたいなこと言わないの。追試もすぐなんだから、今から数学だけ見てあげる。ほら早く、問一解いて」
先生が自ら話題を逸らしてくれたおかげで、俺は平常心を取り戻した。やっぱり、先生は大人で、俺は子供なんだと、こういう時嫌でも思わされる。でも、だったら、子供の特権で、少しくらい大人に甘えたっていいはずだ。
「わかんない。春子先生教えて」
「……あのね、やってもみないでそういうこと言わないの。まずは自分で解く努力をしなさい」
春子先生は、俺達を甘やかすような人じゃ、先生じゃない。それは先生が俺達を見てきたのと同じ時間、俺も先生を見ていたんだ。ずっと。だから、俺だってわかっている。
「……努力、したよ」
春子先生のことが好きだって気が付いてから、何度も、何度も気持ちを伝えようとしたり、先生の気を惹こうとしたり、怒られるとわかっていても先生のことを『春子ちゃん』と呼んでみたり。俺はたくさん努力した。
けれど俺はもうすぐ卒業して、先生はもうすぐ結婚してしまう。そう、どんなに努力したところで、何も変わりはしないんだ。
俺が卒業してしまうことも、先生がこの学校からいなくなってしまうことも。
「努力したってどうにもならないこともあるってことだよ」
「どうにかなるわよ」
俺がつい口に出してしまった本音に、春子先生はきっぱりとした口調で応えた。
「私がどうにかするわよ。最後に受け持った生徒が卒業出来ないままじゃ、辞めるに辞められないじゃないの」
そりゃ蒼井君の点数はひどいものだけど、と言いながら先生は数学の教科書を開き、ページをめくる。
下を向いたままの俺の視界に、先生のいつも使っているシャープペンシルが差し出された。
「だから蒼井君も諦めてないで、もう少し頑張りなさい。ちゃんと私が卒業させてあげるから」
「……うん」
やっと顔を上げた俺を見て、先生はニッと笑った。『ちゃんと、私が卒業させてあげるから』。先生の言葉が、俺の心の中で木霊する。
「春子先生、俺、卒業する」
俺は大きな決心をして、先生にそう言った。
俺がこの学校から卒業する時、その時は、この想いからも卒業しよう。
「おっ、やっとやる気になったわね。じゃあ今日から毎日居残りで、追試で何とか三十点は取るのよ」
「毎日先生が居残りで教えてくれるの?」
「当たり前でしょ。あなたは私の生徒なんだから」
この想いからは卒業する。そう決めたばかりなのに、俺の心は相変わらず先生の言葉に一喜一憂している。
先生の貸してくれたシャープペンシルを手に取り、椅子をしっかり引いて曲がりきっていた背中を伸ばした。俺がそうすることで、先生が嬉しそうにしてくれるのが、俺も嬉しい。
「手の掛かる生徒でごめんね、先生」
「いいのよ。どんな手の掛かる子も優秀な子も、私の大事な生徒なの」
「……俺も、春子先生のこと好きだよ」
褒めても点数は上げないわよ、なんて、俺の精一杯の告白は聞き流されてしまったけれど、俺の心は不思議と前向きになっていた。
「先生、結婚式には呼んでね」
「あら、来てくれるんだ。……なんかちょっと照れくさいけどね」
「行くよ。……絶対」
春子先生のウエディングドレス姿はきっと素敵に違いない。まだ俺の心は先生でいっぱいだけど、でもきっと、卒業できる。そんな気がした。
胸は相変わらずじくじくと痛んだけれど、俺はそれを飲み込んで精一杯の笑顔で言った。
「ありがと、先生」