望月さん、ひっぱられる
森さんはトイレから出てくると、強い花の匂いから少しでも遠ざかろうとやや急いで階段を下りて駅のコンコースに出て行きました。
匂いが特に気になるのは、空腹だからだと気づき、以前望月さんが教えてくれた『いんたーなしょなる』な食料品店目指すことにしました。
駅ビル一階の北口には大きく三ヶ所くらいのバスターミナルがついており、その時間にはバス待ちの客は数える程度しか見られませんでした。
急に鼻に香ばしい香り飛び込んできて、森さんはつい背筋を伸ばしました。香りは駅の東端にみえる店の出入り口から漏れて来るようでした。大きなはめ殺しガラスに覆われた店からちょうど誰か出てきたところで、香りは更に強くなりました。
黒地に黄色の太いライン、豆を思わせるような六個の白と黄色の文字が入った看板をかけたその店は何か食べ物を扱っているようです。
そちらに向かってみようとした時、店の向こう側の角あたりから見知った影が近づいてくるのが見えました。
望月さんです。
彼はポケットに手を突っ込んだまま背中を丸めて歩いていました。
こちらに近づいてきますが、下を見ていたのと風上にいたので、森さんにはまだ気づかないようです。
と、急に彼は立ち止り、足もとに頭を近づけました。くんくんと、何か一生懸命足もとのにおいを嗅いでいます。匂いを探るのにあまりにも夢中になり過ぎて、その場をぐるぐると回り出しました。
森さんは離れた位置からそれをじっと見守っておりました。
ついに、望月さんは引きつけを起こしたようにその場に横倒しになりました、そして、仰向けに近い感じでそのあたりの地面に身体をむやみやたらとこすりつけ出したのです。
目を細め、大きな口を半開きにして、ちょうど店の前で倒れた状態のまま地面に背中や脇をこすりつけて転がり回っています。
店の中から黄色い悲鳴が複数あがりました。まだ距離があったにも関わらず森さんはあまりの悲鳴にあわてて耳を塞ぎました。
ちょうどガラスを挟んだ向う側のカウンター席に、制服姿の女子高生が数人いた模様です。彼女たちはバラバラと店外へと駆けだしてきて、望月さんを遠巻きにしながら口々に叫んでいます。ヘンタイ、ヘンシツシャだぁ、キモイ、声が錯綜します。
店のスタッフもモップを手に駆け出してくるわ、近くの店からも数人走りだして来るわ、そのうちに、制服姿の警官が三人駆けつけてあたりは騒然となりました。
警官らは、まだ背中を地面にこすりつけて転がりまくっている望月さんを手際よく捕まえると、後ろ手(まあ、前脚なので後ろ前脚なんですが)に手錠をかけ、ご丁寧に首輪と口輪までかけてぐいぐいと引っ張って連れて行こうとしています。
彼らがちょうど森さんの前を通りかかる時、女子高生のひとりが
「店の外から寝転んでウチらのスカートの下、のぞいたんです、アイツ」
と顔を赤くしながらボードを持った警官に説明しているのが耳に入りました。
スカートの下を覗くだけでなぜ騒がれるのか、森さんには全くぴんときませんでしたが、そのまま黙って、彼らが駅の斜め向かいにある交番に吸い込まれるまで見送っておりました。
人びとの姿がすっかり消えてから、森さんは望月さんが転がりまわっていた場所まで歩いていって、そっと、その場の匂いを確かめてみました。
ほんのかすかに、乾いたミミズの匂いが残っていました。
どうもオオカミはそういう匂いには我慢ができず、身体をこすりつけて本能的にニオイカクシしてしまうようです。望月さんはかなりニンゲンの中で暮らしているようでしたが、つい、おかしなところで癖が出てしまったのでしょう。
森さんは、また交番の方を見やりました。すでに駅周辺には先ほどの騒ぎなど誰も気にしていないような、どこかのどかな光が注いでおりました。