子ウサギまるごの家出
森さんは、残り少ないお金を節約できるように、毎晩遅くになると駅周辺のゴミ箱をひとしきり漁りに行きました、しかしロクな食べ残しは見つかりませんでした。
それでもしんぼう強く、ゴミを漁って歩き、なにもない時にはしずかに暗い住みかのソファに寝転んでいました。
空腹がひもじさに変わっていった、ある朝のこと。
窓をふさいだ板の隙間から、また少しずつ高さを取り戻しつつある朝日がさしこみ、暗い部屋の片隅を照らしているのに森さんはふと気づきました。
飾り棚の隅に乗ったものが、朝の光にきらめいています。
望月さんからもらった五百円玉でした。
ここしばらく、望月さんはおろか、少女の姿も見かけませんでした。
置いていたのも忘れていたお金でしたが、せっかくなので、と望月さんは五百円玉を握って出かけました。
駅の反対側にある小さな魚屋が安くて旨い、と聞いていたので、とりあえずカツオのあらを大量に買いこみました。そして、帰りはずっと小走りで口は半開き、つばがじゅわっと湧き上がるのをどうにか抑えて家まで倍の速さで駆け戻りました。
以前少女が出してきてくれた古い鍋に、隣の庭から汲んだ水を入れてあらをざっと湯がいて、冷めた端から食べていきました。久しぶりに、腹に溜まる食事でした。
視界の片隅に、何か白いものがちらりと動きました。
目をやると、ぼさぼさになった茶色の茂みの中に何かがちょうど飛び込みました。
しばらく知らないふりをして歯をせせっていたところに、そっと、長い耳が立ちあがり、薮の隙間を縫うようにピンク色の鼻づらがのぞきました。
稲葉上さんところの子ウサギのひとりのようです。
鼻づらはひくひくと小刻みに揺れ、ずっと空気の匂いをかいでいるようでした。
森さんが黙って座っていると、ついに、子ウサギが草かげから姿を現しました。
「うう、行きたい」子ウサギが前脚を胸元に揃え、二本脚で立ったままうめくように言いました。かなりの早口です。
「行きたい、こわい、行きたい、こわい、でも行ってみたい、何たべてるのって聞いてみたい、こわい」
「くればいい」
ようやく森さんが声に出すと、ウサギはびくりと跳ね上がりそうになりました、それでも好奇心には勝てなかったらしく、斜め飛びしながら、顔はやや森さんからそむけた角度のままこちらにやって来ました。
「へんなにおい、へんなたべもの、何たべてるのか聞いてみたい」
「さかな、頭とか骨とか少し身がついてる」
「へえ」
子ウサギはまた軽く跳ね上がり、ちら、と森さんを見てから鍋をみて、また目をそらして言いました。
「ぼくもたべてみたい、へんなにおい」
だいじょうぶかな、と思いながらも森さんは「どうぞ」と言って、鍋から少し離れました。そのままでは子ウサギが近づいてきそうもなかったからです。
「その中、お湯ばっかり。へんなにおいのお湯。さかな、たべてみたい」
しかたなく、森さんは前脚でまだ熱い湯の中に手を突っ込み、ゆっくりとかき混ぜました。ほんの少しの骨と、そこについたほんの少しの身が浮き上がってきたので、爪を使って拾い上げ、子ウサギの前に追いてやりました。
子ウサギはちょっとなめて、「やっぱりまずい。へんなあじ」と言って大きく後ろに飛び退りました。
「なまえは」
森さんが訊ねると、子ウサギはしきりに口周りの毛づくろいをしていましたが、かすかにぴくりとなって、「ま、まるご」と答えました。
森さんは、ほんのひと月かその位前にみたのよりも、子ウサギがずいぶん大きくなっているのに気づきました。
以前のようにまるっきり物おじしない、まるまるした子ウサギの時代は過ぎてしまったようです、でも、遠くに逃げようとはしません。
「ほかの子は」
今度はそう聞いてみた森さんに、『まるご』は耳を両前脚でこすりながら早口で答えました。
「まるいちにいさん、出ていった、山にいくって。やってられねえよ、って。まるににいさん、くるまにはねられた。まるさんねえさん、としょかんきんむ。ねえ、としょかんきんむってなに? まるよんねえさん、ひきこもり。ぼく、いえでしたの」
「家出?」
森さんは、あたりを見回します。家出と言っても、彼のうちは隣です。そう指摘すると
「いえでなの!」
思いのほか、むきになってそう答えました。
「このおにわに、すんでるの。何でもたべる、ってきめたんだ」
「いつから」
「おにわで、ひとつ、ねたんだよ」
つまり昨日から、家出は始まったようでした。