シカマさん夫妻の投げ銭
彼らが今出てきたばかりの現場からやはり、出てきたところのようです。
騒いでいる望月さんの脇をゆるゆると走りぬけよう、というところで車は音もなく停止しました。
後部座席の窓が滑らかに下がり、ひづめのついた前脚が優雅に伸びてきました。
「何ごとでしょう」
シカマさんの奥さんの声でした。
まつ毛のながい間延びした顔が窓から覗きます。
「狼さんでしたの」
隣の席に座っていたのは、旦那の白鹿のようです。
「何かお困りごと? こんな所で大声を出して」
「金が必要なんだよ、金が!! ……つうか、何なのアンタたちは。誰」
望月さんがそう訊ねると、シカマ氏が車の中から答えました。
「このマルサン設備をまるごと買い取ったのだ。敷地とウワモノもコミで」
「えっ」
ちょっと思いもかけない規模の話に森さんも望月さん同様目を丸くしました。
「ならば……」
森さんが言おうとしてまた言葉がもつれ、ごくりとつばをのんで望月さんに向き直ります。
ほら、言ってやれ、というふうに目をしばたかせると、望月さんもようやく気がついて、彼らに早口で言いたてました。
「だったら、オレを雇ってくれよ、ここの仕事なら一通り分かってるし。アンタらの力で狼だろうとちゃんと賃金がもらえるように、さ、そんで」
望月さんの目の前に、何かが転がりました。丸い銀がくるりと回転して、すぐ足もとに光ります。
望月さんは車窓からのぞいている夫人から目を離さないように、注意深く拾い上げました。
真新しい五百円玉でした。
「とりあえず、今晩の食事代の足しになるでしょう」
シカマ夫人が言うと同時に、向こうのドアが開いて、大きな白い角が流れるような弧を描いて車の外に現れました。
いったいどうやって車内に収まっていたのか、というようなどでかい頭が出てきて、濡れたような瞳がじっと望月さんを見つめました。
「キミは確か……ビャッコくんの援助を受けていたのだったかね?」
「エンジョ?」
シカマさんは軽くこう言い足しました。
「彼は失脚したのだよ」
「シッキャク?」
望月さんは、オウムみたいに繰り返すのみです。
コインを投げ棄てようとしながらも同時にしっかりと指の間に挟みこもうとして、前後に細かく脚を踏みかえ、ぎりりと牙を鳴らしました。
もうどうしていいのか分からないようです。そこへ
「だったら、」
シカマ夫人がゆったりとした声で誘います。
「ワタシたちと一緒においでになれば? アナタに合ったお仕事ならすぐ見つかるわ」
望月さんは、声に導かれたかのごとく、よろめきながら車に近づきました。
森さんが肩を掴むと、はずみで軽く身をひねり、彼の顔を見上げました。
その目は途方にくれているようでもあり、まるきり澄み切っているようでもありました。
「も、ちづきさん」
ようやく森さんがこう声に出すと、望月さんは肩に乗った彼の手に五百円玉を預け、
「じゃあ、オレ、行って来るわ」
軽くそう言って、そのままシカマ氏の方側から車に入ってしまいました。続いてシカマ氏が車に乗り込みます。
「クマさんは、いかがかしら」
車の中から更にゆったりした声が響きました。
森さんは自分のことだと最初気づかずにあたりを見回しましたが、誰もいません。
そう言えば、少女の姿も消えています。
「クマさんも、うちで働いてみる?」
「……」うまい言葉が見つからず、仕方なく、森さんはただ黙って首を横に振りました。
とりあえず、決める前に少女ともう一度話してみたくなったのです。
ドアが重々しい音と共にしまり、車は夜の闇の中に滑りこんで行きました。