望月さん、取りっぱぐれる
結論から言うと、望月さんはどこの現場に行っても、責任者や監督たちから非常に愛想よく迎えてもらえました。
しかし、一銭も回収することができなかったのです。
「もっちゃん、ひっさしぶりー、遅くなっちゃったけど、あけおめー」
どこでも誰かがそう笑いながら望月さんの肩を抱いて、あるいは背中をどんと叩いてぺらぺらと近況をまくしたてたりオヤジギャグをぶちかましたりしてきました。
しかし、望月さんが一言でも「こないだの賃金……」とでも言おうものならば、
「うちのカアちゃんがまた遊びに来いってさ、鍋ご馳走するよ」
だの
「ふとんが吹っ飛んだー」
だの、お金とは全く関係のない話にすり替えてしまうのです。
一番説明が長かったのが、黒いヒートテックの上から赤いテロテロのシャツを羽織り紫のサングラスをかけた油臭いオジサンで、通帳を見せながら、つまりは望月さんだと口座が開設できないので代わりに作ったものに望月さんの稼ぎを貯えている、しかしそれを引き出すにはまず望月さんの保証人である白狐のビャッコさんの判が必要で、しかしビャッコさんは近頃どこにいるのか消息不明なのだ、とのことでした。
望月さんはその脇にぴたりと寄り添っていましたが、差し出される通帳に鼻面を近づけようとするたび、オジサンはひょい、とそれをひっこめ、そのたびに望月さんはべろんと出した舌をかみそうになっていました。
脇で見ていた少女がその度に叫びます。
「何よ! アナタさんざん金は支払ってもらってる、なんて言ってたけどちゃんと受け取れてなかったんじゃない。ちょっとそこのオヤジ、聞いてるの!?」
少女の姿はもちろん現場のオヤジたちには見えていないようだし、声も聞こえないようでした。
「不払いで訴えるからね! アンタ達、相手がオオカミだからっていいようにこき使ってたんだ? どーゆーこと?」
「ちょっと待てよ」
望月さんがふり返って小声で諌めます。森さんは少し離れたところからそれをただ黙って見守っていました。
「モノゴトにはまず段取りっつうものがあるんだ、待てよ」
「もっちゃん、だれと話してんのよ~」
オジサンがいぶかしげに望月さんの後ろをうかがいます。
「いえ別に」
望月さんは早口でそう答えますが、少女は更に後ろで騒いでいます。
「訴えてやる!! キーーーッ!!」
結局、そこまで一銭も受け取れずに彼らは最後、『マルサン設備』という工場に向かいました。
そこでは、痩せてうらぶれた監督が作業着のまま事務所から出てきて、ただこう言っただけでした。
「ああ……年末にアンタの上司の白狐さんが来て、アンタの分も持ってったけどね、もらってない?」。
足を引きずり背を丸め、望月さんはとぼとぼと門を出ます。
後ろから少女が下駄を鳴らして時おり腕を振り回し、
「全くどいつもこいつも……何て奴ら、信じらんない」ブツブツつぶやいています。
ようやく人通りの途絶えた工場裏で、少女は望月さんの前に立ちはだかりました。
「ちょっとさ」
望月さんはぼんやりと少女を眺めています。
「ちゃんと訴えた方がいいと思うわ、働きに見あうかどうかは人間であろうと動物であろうと権利があるわ。私が知恵を貸してあげるから、まずね」
少女が言いかけたことばを望月さんは前脚で遮り、息を吐くように静かに笑いました。「対価に見合う、見合わないなんてことは問題じゃない」
望月さんは目の底に夜中の光をたたえたまま、ことばを継ぎました。ちなみに、夜中の光と言っても単に暗いというわけではなく、どことなく、月明かりを感じさせる澄んだ青白さがしずかに浮かんでおりました。
「とりあえずその日その日が暮らせればいいんだ、そんなに少しでも多く稼ぐとか少しでも豊かになりたい、なんて俺ら獣にどう関係がある?」
「でもね」
少女はくい、とあごを上げてみせます。
「そういうのを求めて貴方たちは町に降りて来たんじゃなくて?」
少女は続けます。
「文明って何? 気どった暮らしがしたかっただけなの? あの可哀そうな兎ちゃんたちみたいに。びくびく怯えながら少しの隙間に稼いでそのお金をあたふたと使って、揃えたものをちまちまと並べて束の間満足する、その繰り返しでいいの?」
「ビクビクはしてねえ」
狼の誇りをもって、望月さんが同じようにあごを上げて言いました。
「オレが金を稼ぎに行くのは、単に、ニンゲンどもが築き上げた文明というものが一体どんなものか一通り経験してみようかという高尚な思いから発せられたものなのよ、わかる? 別に、金額がごまかされていようがどうしようが、とりあえず欲しいと思うものがその場で手に入れば別にどうでもいい、流れ的につかめればな、うん、そうさ……」
だんだんと小さくなる声でしたが、ちらっと望月さんは森さんを見て、また声を励まします。
「それによ、お前さんが言ってることはそのまんま、ニンゲンたちにも当てはまるんじゃねえのか?」
今度は少女がとまどったような表情を浮かべました。
「別に動物だからってニンゲンだからって、びくついているヤツはまるっきり同じことさ。何やかんや怯えながら苦労して稼いで、その金をあたふたと使って、束の間満足する、その繰り返しってのは、まさしくニンゲンの暮らしそのものじゃあねえのか?」
黙ったままの少女に、望月さんは一歩踏み出して指を突き出しました。
「それよりお前が死んでいるってことが問題なんだよ、わかる? ただでさえトラブルになりがちなのにさ、お前みたいな死人が急にノコノコと現れて生きてる奴らにあれやこれや文句を垂れるとか指図するとか、って……そもそも、死んだヤツに何か変える力があるのか? 俺や森さんがたまたまアンタを存在するものとして捉えられるからいいようなものの、生きてるニンゲンどもが『見てない』とお前らは鏡にも映らないんだろ? お前がいくらベラベラと減らず口叩いて俺に説教しても、俺がそこらのニンゲン同様、まったく聞く耳持たなくなったら、それって何の意味もなくなるんだろ? ちと考えてみ? 何かマズくないのか?」
確かに、死者の干渉ばかり多くなったら世間は混乱しそうです。森さんも黙ったまま考えました。
しかし少女はあっさりとこう言いました。
「なんで? 住民として登録されてないアナタたちに言われても説得力ないわね。死んでいて何がマズいの? 主義主張があればそれは正々堂々と訴えるのがいけないこと?」
「あーうるせえ!!」
望月さんがとうとう切れました。
「オマエみたいなの本当にムカつくわぁぁっ!!」
オオカミらしく最後に吠えて少女に掴みかかろうとした時、ちょうど黒塗りのセダンが通りかかりました。