シカマさん夫妻
森さんは駅から少し西に外れた広い道路の向うに、ようやく目当ての店を見つけました。
雑然とした構えで、奥に少し長く伸びた平屋の建物でした。輸入食料品を主に扱う卸売専門店のようです。
中に足を踏み入れると、つんと鼻を刺す香辛料の匂いで、森さんはくしゃみをひとつ、またひとつ、そしてまたひとつ……止まりません。レジにいたどこの国出身か分らない妙に黒い髪の人が露骨に嫌な目を向けました。森さんは十一回くしゃみを連発してから、ようやく長く垂れた透明な水洟をだぶだぶのトレーナーの袖で拭いて、少し落ちついて店内を見渡してみました。
いらぢゃいませ~、棚の向う、見えない辺りから女の人の鼻にかかったような少し不思議なイントネーションの挨拶が聞こえてきました。その声に導かれるように森さんは奥へと進みます。
棚の一番奥に背中を向けて立つ姿がまず目に入りました、馬のようです。
馬といっても、やや小柄な部類のようで、森さんより上背はなさそうです。毛色は白でタテガミは濃い灰色、自分用に仕立てたらしきぴったりとした着物に白いかっぽう着をつけて、前脚の途中にエコバッグではなく籐で編んだ買い物かごを下げていました。そして、両前脚の蹄で上手に一キロくらいの大きな包みを挟んで、目の前に掲げてまじまじとみつめておりました。
いらぢゃいませー、と声を出したのは少し影にかくれるように馬の隣に立っていた女性、頭に黄色っぽいかぶりものをして、黒い長いドレスを着ていましたがドレスの下にはまた黒いモンペのようなズボンがのぞいておりました。店員さんのようです。馬に向かって身振り手振りで何か説明しています。馬は優しくいななくような声で話しています。
「だからわたし、もっとアラビキのお粉がほしいの」
「ともろこし、これ、ともろこしのこなで一キロ入てるの」
スカーフの店員が身振り手振りをまじえて馬に説明しています、が、馬は納得していない様子でした。
「だから、これでもまだ細かすぎるのよ、粒が半分くらいに割れたくらいの大きさがほしいの」
「大きい? 十キロ入てるのある」
「違うのよ、アラビキよ」
待ちたまえ、と森さんの背後から柔らかくも深い声が響き、馬と店員さん、そして森さんも思わず後ろを振り返りました。
そこには大きな鹿が、仕立ての良いスーツに身を包んで立っておりました。こちらも毛並みはまっ白で、角も白く立派です。
「あらアナタ、どこかに車お停めになったのね」
馬はぶはあ、と鼻で大きく安堵の吐息をついてにっこりと白鹿に笑いかけました。
白鹿も爽やかに歯をみせて笑います。
「駐車場がなかったので、近くの公園を買い取って入口を壊してもらって、中に停めてきたよ」
森さんはその二頭をかわるがわる眺めておりました。
急に気づいたように、白馬が森さんに向き直りました。
「そう言えば、珍しいわね、クマさんがこんな街なかにいらっしゃるなんて」
「本当だ」
存在自体がもっと珍しいだろう白鹿もそう言いました。「キミ、名前は」
偉そうな態度だったのですが、森さんは謙虚に「森です」とだけ答え、後はすぐ脇の棚から中国産ハチミツの大瓶と小麦粉の十キロ入り袋を取り上げ、カゴに入れました。
「どこにお住まい?」
白馬が白鹿に寄り添うように立ち、ぶはあ、とまた鼻息を吹きます。
その隙にかぶり物をした店員さんは素知らぬ顔をして奥に消えて行きました。
森さんは、まだ住んでいる町名まで確認していませんでしたので、何となく無言のままその方向をあごで指しました。それでも彼らには分ったようで
「駅前ね……ウサギの一家が住んでいるお近くかしら」白馬が言うと
「ああ、狼もね」白鹿が少し鼻を鳴らしてかすかに笑いました。森さんは黙ったまま軽くうなずきました。白鹿が続けます。
「稲葉上、って言ったかなあのウサギ。オオカミが越して来てから、実はあの夫婦、怖くて遠くに引っ越したいんだが、妙な見栄を張っていてね」
他にも何か含みのある物言いでしたが、ふと用事を思い出したように
「私ら、シカマ、と言うのだけれどもね」
森さんより更にあごを上げるように、別の方向を指して
「山の手の、住宅街に住んでますがね、まあよろしく」
「ちょっと、その上の方に」白馬も急に背筋を伸ばして「よろしくね、クマさん」
すでにクマの苗字は頭から抜けてしまったようでした。すっ、と差し出す前脚というか手も握手を求めているというより臣下に差し出す女王のごとく、ひづめを下に向けていました。
仕方ないので、森さんは軽くその手に触れながらわずかに頭を下げました。
それを認め、白馬はすぐさま優雅に手を引っこめました。
「面倒だからキミ」白鹿は白馬に向き直りました。
「とうもろこしの粉を買うのはやめて、長野にあったトウモロコシ畑を全て、買おうではないか」
「まあ素敵」白馬はぱこん、と両ひづめを打ちあわせるとくぐもった音がしました。しかし白馬はすぐに長いまつ毛を伏せて困ったように言いました。
「でも管理が大変ですわ」
白鹿は自信満々に言い切りました。
「地元の農民に管理させればいい、ニンゲンに」
「言う通りやってくれるのかしら」
「任せたまえ」
やはり貴方は頼りになりますわね、白馬は前脚をぐるりと白鹿に回し、もたれかかるように店の外に出て行きました。森さんのことはすっかり忘れてしまったように。
森さんは、出て行く二人の後ろ姿を少し見送ってから、おもむろに買い物の続きを始めました。気づくと、脇に先ほどの店員が立っています。その顔を見るともなく見て、彼女はひとこと
「ま……あのヒトたちはいつもああだから」。
妙に訛りのないきれいな言い方をして、大きな黒い目で出口を見ておりました。