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第三話

「始めるか……。スラナ、刃先を俺に向けて渡すなんてことはするなよ。いくら長い間手術に立ち会ってないからって」

「そんなヘマするか」

 あんまり緊張されても困るから、こうやって少しほぐしておいたほうがいい。別にやつを信じてないわけじゃないが。

「じゃあ頼むよ。患者は五十代男性。肝硬変から肝がんに進展している可能性がある。どちらにしろ肝臓切除術になるだろう。術式開始。スラナ、メス一本」

「随分とてきとうだな。年齢は見た目、手術方法も、何だその言い方は。いちいち言わなくてもいいだろう、俺しかいないんだから。それに、メスを一度に二本も使うやつがあるか」

「今の医者にとやかく言われたくないよ。歳は聞いてないんだから仕方ないだろう。堅苦しい手術宣言なんか忘れた。それでも言っとかないと完全に忘れそうだからな。“メス一本”はおふざけだよ。ほら、メス」

 やつは渋々といった感じで、俺にメスを渡した。皮膚に赤い筋が走るのを、やつはじっと見ている。

「やってみるか?」

「いや、いい。俺がやったら失敗しそうだ」

「失敗したっていいんだろう? お前は殺す気だったんだから」

 少し嫌味を含めて言ってやった。

「俺は……こういう形で死なせるのは好きじゃない」

「お前の好みの問題かよ。まあいい。鉗子」

 ……見えた。色としてはまともなほうだ。お目当ての病巣は、すぐ見つかった。

「やっぱりガン化してる。大きさは……ぎりぎりってとこだな。この程度なら、肝機能が弱っていたとしてもなんとかなる。よし、腸鉗子」

 かなり弱っているように見える患者だが、今のところ心拍数に問題はない。この調子なら助かる。もしどこかに転移していたとしても、生き長らえることができるのは確実だ。

「電気メス。これで……助かる」

 ガンの部分を、大きめに切り取る。切り取った病巣を、やつはしばらく見ていた。

「なんだ、ガン細胞がそんなにかわいそうか」

「いや、別に……」

 一通りの手術は終了だ。あとは閉腹して…………終わり。

「ふうっ……。これで……」

 縫い合わせていた糸を、切ったその時だった。

 規則的なそれに代わり、電子音が一直線に鳴り響いた。

「なっ……!」

 反射的に顔をあげる。同じ形の山を何個も作っていた白い線が、今はなだらかな平野を成していた。

「ユウシ、心臓が止まったぞ!」

「んなこと言われなくてもわかってる! くそっ……」

 この緊急用手術室は、大方の器具は揃っている。だが、電気ショックがないのが大きな欠点だった。こうなったら、心臓マッサージをするしかない。こうな状況になったのは何年ぶり…………いや、なかったかもしれない。手術が成功した途端に、心臓が止まるなんて。

「スラナ、酸素吸入器を!」

 俺が叫ぶと、やつはすぐに行動した。やはり昔の医者だっただけはある。俺は休まずマッサージを続けながら、思った。

 なぜだ? 俺は腹を開き、腫瘍を取り除いただけだ。呼吸に関することには何一つ手を出していない。それなのになぜ心臓が止まった?

 いまだに、線も音も変化はない。手術のときにさえ出なかった汗が、目にしみた。

「…………」

 その汗のせいでぼやけてはいたが、やつが俺の反対側にいて、そして患者に何かを注射しているのが見えた。

「……ユウシ」

 どのぐらいたったんだろうか。俺は手の疲労を全く感じていなかった。まるで何か別の部分かのように、腕は心臓マッサージを続けていた。

「もうやめろ。患者は死んだ」

「お前は諦めが早いんだよ! まだ望みは……」

「心臓マッサージを始めて、何分、いや、何十分経ったと思ってる? いくらなんでも、ここまできたらもう蘇生はありえない」

 何十分経ったかなんて、俺にはわからなかった。やつが俺の腕を掴んでいなければ、ほぼ機械的に動いていた腕は止まらなかっただろう。

「どうして……心臓が止まったんだろうな」

 マスクを取って、俺は大きく息を吐いた。横に垂らした腕に、今頃疲れが伝わってきた。

「この世界の人間は、昔の医者にしか治せない病気に陥ったとき、生きる気力をなくす。この患者は、もう生きたくないと思っていた。その強い感情が、生き長らえさせるという行為に反発したのかもな。人の想いってのは強いもんだ。自身の願いどおりにするために、心臓を止めることを選んだ……っていうのは考えすぎか?」

「科学的根拠がゼロだな」

 そう言ってはおいたが、今まで健康そのものだった心臓が、突然機能を停止することに、科学的根拠を見い出すこと自体難しい。そう思うと、やつのいうことが本当のように感じた。

「お前が納得するように言えば、この患者は寿命だったんだ、きっと。そのほうがお前にとってはしっくりくるだろう?」

「まあ、な……」

 俺は、この世界の人間に避けられているのだろうか。自分が正しいと思っていても、世の流れに逆らうことは、やはりだめなのか。

 俺は、患者の顔に布をかぶせた。なぜか、とても安らかな表情に見えた。

 生から開放されたことを、喜んでいるかのように。



「お前は帰るのか」

「ああ。時間がかかったとはいえ、俺の仕事は終わったからな」

 俺とやつは、後部の手術室と運転席との間にある、小さなスペースにいた。手術を始める前も入った、着替えの場所だ。

「じゃあ、俺はその辺でもうろうろするか。ああ、お前ん家の近辺には行かないから安心しろ」

 顔はちゃんと見ていなかったが、目の端でにらまれたような気がしたのでそう言っておいた。一旦止まっていた、やつの服を着ようとしていた腕が、再び動き出した。

 ふと、壁にかけていたやつの上着の中に、何かを見つけた。「これは何だ?」と言って取り上げたら、何なのかわからないうちにすぐ取り上げられるのは目に見えていたので、俺はさりげなく近づいて、口を開いた。

「スラナ、そういえばお前、俺が心臓マッサージしているときに、患者に何か注射してたろ」

「……いや、何もしてないが?」

「その間が怪しいな。何をした」

 にらんでやったら、少しの間、困ったような嫌そうな顔で見返していたが、ため息を一つついて、俺の問いに答えた。

「俺の職業柄、わかるだろう。毒薬だよ。さっきはああ言っておいたが、見られてたんじゃしかたない」

 なるほど、じゃああのビンっぽいのはその毒か。それしか見えないからな。こいつ、なんだかんだ言っておいて、やっぱり患者を殺す気だったのか?

 ………………いや。

「そうかい。全く、やっぱり心の奥で考えてることは殺しのことだけかい」

 ふと、やつが俺から目をそらした隙に、俺は素早くやつの言う毒薬を取り上げた。見ないですぐポケットに入れたので、何と書いてあるのかはわからなかったが、とりあえずビンだということは確認した。

「手術を知ってたとしても、俺はきっと失敗して、結局殺すことになるだろうよ。だからやはり、俺はこの仕事のほうが向いてるんだ」

 何も知らないまま、やつは上着を着た。俺のほうが出口側に立っていたので、戸を開け、先に外に出た。いまだに砂嵐が続いている。

「じゃあな。また会おうぜ、殺し屋さん」

「別に俺は会いたくないが……。もう俺の仕事に手は出さないでほしいな」

「ははっ、そいつは無理だ。じゃ」

 やつはため息をついて、砂嵐の中に消えた。この黄土色の中では結構目立つはずの濃い紺は、あっという間に見えなくなった。

 俺はやつのどこの砂嵐に慣れていないから、こうやってフード付きの体を覆うコートを着たり、細長い布で口元を隠していたりする。それでも、やはりずっと立っているのは辛い。やつが見えなくなって少ししてから、俺はトラックの運転席に乗り込んだ。

「さて、あいつの使った薬は何だったのかな……」

 懐にしまっておいたビンを取り出す。そして、ラベルに目をやった。

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