第二話
「兄さん……。あの人も医者なの?」
「ああ」
返事のあとに、あくびが聞こえた。
「昔からの医者さ……。あいつが本当の医者だ」
「え? じゃあ兄さんは何の医者なの?」
不思議な言葉に、僕は寝返りをうって兄さんのほうを向いた。枕側にある窓からの月明かりで、部屋は真っ暗じゃない。兄さんの影だけが見える。
「俺は、新たに生まれた種類の医者だ。昔の医者はみんなあいつみたいだった」
「兄さんの今の仕事と同じようなことするの?」
兄さんが、大きく息を吐いた。
「いいや、全然違う。昔の医者は病気を治す医者だった」
「え……どうやって?」
治せる病気があるのは知ってる。でも、そういうのは医者じゃなくても治せるものだ。
「メス……ってのがあってな。…………はは、懐かしい名前だ。まあ、小さいナイフみたいなもんだ。患者を眠らせて、そのメスで病気の元がある部分を切るんだ」
「切る……? 体を切るの!?」
僕は本当に驚いた。患者を切る? それじゃあ、よけい悪くなっちゃうじゃないか。
「ああ。そして体の中にある、腫瘍だったりなんだりを切り取るんだ。そうすると患者の病気は治る」
「でも、そんなのひどいじゃないか! なんともない部分も切るんでしょ? 人を切るなんて殺人だ!」
僕には考えられない。余計なところを傷つけられてまで助かるなんて。
「サシ、患者はその間痛みを感じないんだぞ? 体を切るったって、そういう傷はすぐ治る。医者はそういった手術で、患者の命を延ばしてきていた……」
「え、シュジュツ?」
聞いた事のない言葉だ。
「ああ、サシは知らないんだったな。そのメスとか、そのほかの器具を使って人の病気を治す行為のことを、手術って言うんだ。もうその手術をする医者はほとんどいない。俺が知ってる限りでは、あのユウシだけだ」
「あの人が……。…………ねえ、あの人“昔の医者のよしみで”って言ってたけど、あれはどういうこと?」
しばらくの沈黙の後、兄さんが口を開いた。
「わからないか? サシ……。俺も昔は、その手術をする医者だったのさ。だが、この世界の人間は、手術までして生き長らえたくないっていうのが五万といる。そんな人間に、俺は諦めたのさ。生きることを望まない人間を生かして、何になるんだ……ってね」
「…………」
兄さんが元“昔の医者”だということを、僕は初めて知った。でも、この世界の人間がそういう人たちばかりだなんてことも、初めて知った。
「だがやつは……ユウシは諦めていない。ごくわずかにいる、生きたいと願っている人間たちを、手術で救い続けている。やつのいる場所は、現在では避けられる場所だ。人間を無理に生かそうとする、悪者に見られている。それでもやつはやめないんだ。命を延ばし、少しでも長く生きることが、本当に人間が求めていることなんだと。たとえ意味がなかったとしても、生きたいと願うのが、人間の本来の姿なんだ……。そう言ってたっけな。いつだったか」
「そう、なのかな……」
もしかしたら、それが本当なのかも。それが当たり前だという環境で育っていないから、僕には異質に見えるだけなのかもしれない。手術に頼らなければ生きられないとき、僕たちは躊躇なく死を選んでる。静かな死を。そんな世の中でも、生きたいと言う人はやっぱりいるんだ。
「ねえ、兄さんは今でも手術ができるの? 器具がそろってれば」
「どうだろうな……。ほとんどが研修医の時の手術だからな。…………やっぱり無理だ。頼れる助手がいれば別だが、そうでない助手がいたり、一人だったら、絶対患者を殺しちまう」
自嘲気味に小さく笑って、兄さんは僕に背を向けた。話は終わりだというサインだ。僕も兄さんに背を向けて、目を閉じた。
いた。
偶然といえば偶然だが、こいつとはどうやら腐れ縁があるらしい。砂嵐の中、一軒の家に、やつが入っていくのが見えた。多分、また助かる患者を殺しに行ったんだろう。すぐ近くでそんな人間を殺されるのは、生かす医者として放ってはおけない。
「お願いします、先生……」
年配の女性の声。無駄に手っ取り早いやつだ。俺は衝動的にドアを開け放っていた。声の主の、やはり年配の女性が少し驚いたように俺を見ている。こっちに背を向けていたやつは、振り返ってやはり目をむいた。
「っ、ユウシ!?」
「十日も経たないうちに再会たあ、ずいぶんとめずらしいな。また殺しか」
「ふん、お前には関係ない」
少し歩を進めると、やつの前にはベッドに横になっている、女性と同じくらいの年齢に見える男がいた。多分、この男が患者だろう。いや、被害者か?
「ところが関係なくはないんだなあ。偶然にしろ、俺は生かす医者だ。目の前に命を絶たれそうな人間がいて、黙ってると思うか?」
「俺の仕事を横取りする気か」
「それで命が助かるんなら、そうするね」
いつもよりも低い声で言われて、少し驚いたが顔には出さない。気づかれないよう、普段どおりに軽くあしらった。
「奥さん、ちょっと体を見てもいいですか?」
「え? ……あ、ええ、どうぞ……」
俺がどういう人間なのかは知らないらしい。もし俺が殺人者でも、いずれ死ぬ運命だからと、旦那に近づくのを許すだろう。まあ、俺は殺人者じゃないが。
俺は眠っている男の腹を見た。……これか。
「スラナ、とりあえずは診察ぐらいしたんだろう? 病気は何だい」
「現役の医者が何を言う。……肝硬変だ。見てのとおり腹はふくれ、静脈が浮き出ている。ガンになっている可能性もある。どちらにしろ、手術はひつよ……」
やつが慌てて口を押さえるのを、俺は見逃さなかった。つい笑声が漏れる。
「ははっ、スラナ、お前なんだかんだ言っといて、結局は助けたいんじゃないのか? 手術の話を持ってくるとは」
「お前がいるから昔の状況を思い出しただけだ……。今は意識はないが、その患者も安らかな死を願っていた。彼女もだ。俺は患者の意思を尊重するからな」
まただ。
こいつは患者の意思とかいうのを盾にして、いつも逃げる。意思を通してばかりいたら、医者の意味がない。助かったところで、新たな生きがいが見つかることだってある。
とりあえず、俺は患者の服を元に戻し、後ろで腕を組んでいたやつを振り返った。視線に気づいたのか、半分伏せていた目がこちらを向く。
「スラナ。お前、逃げるな」
やつの目に、訝しげな光が灯ったのがわかった。
「不完全な理由を押し付けたって、俺には効かん。俺はこの患者を手術で治す。お前にも手伝ってもらいたい」
「なん……だと? 貴様、俺の仕事を本気で奪う気か?」
あ、本気で怒った。腕を解いて、こちらに詰め寄ってくる。
「この男は死を望んだんだ。病に苦しみたくないというのもあるが、生きがいというものが見つからなかったのも理由の一つだ! それなのに生かして、そのあとどう生きろというんだ!」
「俺はそうは思わないね! 命を助けられた患者には、また違った視点で世界を見る事ができるようになるやつもいる。そうなれば、生きがいが見つかるかもしれない。俺はそれに賭ける」
しばらく沈黙が続いた。俺がにらんでるやつの目の色は、俺と同じ黒だということを、俺はガキの頃から知っている。
「…………わかった。手伝ってやる」
観念したような、諦めも混じった声だった。本当にこいつが純粋な死なせる医者だったら、折れはしなかっただろう。
「よし、じゃあ早速始めるか」
「おい、お前ここでやる気か? いや、その前に器具は……」
俺はやつの言葉を遮るように、小さな物体をかかげて見せた。
「何だ? それは」
「手術室呼び出し機」
笑って言ったが、やつにはさっぱりわからないらしい。
「まあ見てろって。ここいらは砂嵐がひどいから、あんまり動かさないようにしてるんだ。だけどこういう緊急時には仕方ねえ」
俺は、手に持った物体にあるボタンのひとつを押した。小さく機械音。
「手術室が来るのか?」
「まあそんなとこ」
しばらくして、小さな異変に気づいたのはやつだった。
「……ユウシ、何か変な音がするぞ。砂嵐の音に混じって」
「ほお、やっぱりここいらでの生活が長いやつは違うな。俺にはさっぱりわからん」
言いながら、俺は戸口に向かった。二人で外に出ると、ちょうど真正面から影が迫ってくるのが見えた。
「よし、そろそろだな」
その影の正体がはっきりと確認できる位置で、俺は再度ボタンを押した。影――――大型のトラックは、俺たちの数メートル手前で止まった。
「これは……」
呆けたように、やつはトラックを見ている。
「懐かしいだろ。病院まで患者を運ぶのとはまた違う、緊急手術用のトラックだ」
医者たちがどんどん患者を死なせる道に走っていた頃、どうせ使わないからと譲り受けたものだ。病院らしい病院もほとんどない中、俺が人を生かすことができているのは、こいつのおかげもある。
「スラナ、俺はトラックの後部を玄関に近づけるから、お前は患者を運んでくれ。病人を砂嵐に当てて、いいことなんてないからな」
言って、俺は運転席に乗り込んだ。やつはうなずいて、家へと戻っていく。俺はトラックを逆向きにして、後部のドアが家の入り口にぶつからない程度の距離まで、トラックを近づけた。
「よし、入れろ」
患者を抱えて来たやつを見て、俺はドアを開けた。トラックの荷台に当たる部分が、全て簡易手術室になっているトラックだ。中央に据えられた手術台に患者を乗せてから、やつは中を見回した。
「そんなに懐かしいかよ」
「ああ……。自分が今の医者だということを忘れそうだ」
「いっそのこと忘れちまえよ」
またにらまれるのは予想済みだったので、俺はすぐに背を向けた。そしてこの患者の妻だろう女性に、説明をすることにした。
「奥さん、突然で本当に悪いんですが、これから旦那さんを手術します」
「しゅ、じゅつ……。助かるんですか?」
今の女性の“助かる”という言葉の意味は、生きられるかどうかということだろう。
「助けるつもりです。……保証はできませんが」
保証できるんだったら、患者はみんな生きてる。
「ただ、全力は尽くします」
保証などできない。けれど、全力を尽くして救おうとしていることだけは伝えたい。
「それでは」
手術室に乗り、俺は扉を閉めた。




