寝落ちするたび悪役令嬢になる300円の中古ゲームが私の人生を変えたんですが、これって返品できますか?
「懐かしいな…これ。昔流行ってたっけ」
そう小さく独り言を言いながら手に取った中古ゲームソフトは、コンビニでお菓子を買うより安く買えるような値段になっていた。
そのパッケージと、今では珍しいカセット型のゲームがなんとなく懐かしかった。
帰り道にある古本屋…というか、古本と中古ゲームと埃っぽいフィギュアが雑多に並んでる店。
私には部活もないし、寄り道する友達もいないから、たまにこうやって学校帰りに覗きにくるのだ。
棚の隅の方に、見覚えのあるパッケージがあった。
薔薇の絡まる学園の門。
金髪の令嬢と、銀髪の王子。背景には派手なドレス姿の少女たち。
「……あ、これ」
タイトルは『薔薇と誓いの学園』。
小学生のとき、クラスの女子が休み時間にキャーキャー言ってたやつだ。
私はやったことなかったけど、攻略対象がどうとか、推しがどうとか…そんな会話だけは頭の隅の方だけど覚えていた。
……最近暇だし、三百円だし、なんとなくすることもなかった私は気が付くと、そのゲームソフトをレジに持って行っていた。
家に帰って、押し入れからゲーム機を引っ張り出した。
電池はまだ生きてた。ソフトを差し込んで、電源を入れる。
動きが少ないタイトル画面。薔薇が散る昔のアニメーション。
ちょっとだけ、懐かしい気持ちになった。
主人公、もといプレイヤーの名前を入力する項目がある。
入力すると、ゲーム内のキャラクターに自分の名前を読んでもらえるものだ。
「えーっと……名前は、飯田マリ、ライバルの名前入力?まあこっちはデフォルトで……ヴィクトリア・ランベール?…長いな」
名前の入力が終わると、オープニングが始まる。
画面に映るのは、豪華な屋敷と使用人の列。
プレイヤーで主人公であろうキャラクターの隣に立つ金髪の少女。
……きれいだな、この子。
…目が重くなってきた。今日、体育で持久走やったし。
布団に寝転がったままゲーム機を持ってるのが悪い。
そんなことを考えていると、だんだん画面がぼやけていく。
視界は暗くなって、音楽が遠くなる。
……。
ぱっと目を開ける。
「寝落ちちゃったか…」
そう言って頭をぽりぽり搔きながら、起き上がると…見覚えのない光景が目の前に広がっていた。
天井は記憶の中の自分の部屋より圧倒的に高く、寝ていたはずのベッドにはお姫様のような白い天蓋があって、窓にはレースのカーテンがかかっている。
その窓の外に広がっているのは、美しい薔薇の庭園…。
「……は?」
びっくりしてとりあえず立ち上がる。お、思ってたより身体が重い…。
というか、なんか知らない服着てる…なにこれ?こんなパジャマ持ってないと思うんだけど…
なんかさらさらしててめっちゃ触り心地いいな…シルク?
いや…なんで私がこんな豪華なパジャマを…いやそもそもここは…?
あたりを見回していると、美少女が写る鏡があった。
鏡には、金髪のそれは美しい、美少女が写っていた。
「…………え」
そこにあるのは、碧い目、陶器のような白い肌。
そう、あのゲームのオープニングで見た…
「ヴィクトリアお嬢様、おはようございます。もうお目覚めでしたか」
大きな扉が開いて、メイドが入ってきた。
銀のトレイに紅茶のセットを載せて、にこにこ笑っている。
「あ、あの…えぇと…」
「本日のご予定ですが、今日は午後から学園での授業でございます」
「いや、あの…ち、ちょっと待って」
「何かございましたか?」
メイド…らしい人が首をかしげる。
……夢だ。
こんなの夢に決まってる。
昨日は疲れてたし、ゲームやりながら寝落ちしたし。
ゲームに引っ張られて、脳が変な処理してるだけだ。
そう思うことにして、私はいっそのこと夢の中を満喫することにした。
「いいえ、なんでもないの、寝ぼけてたみたい。紅茶をもらえる?」
お嬢様ってこんな口調で喋るのかな…なんて考えながら、ヴィクトリアを演じていた。
紅茶を飲むと……普通においしかった。夢にしては、やけに味も匂いもリアルなの、すごいなあ…。
◇
午前はごはんを食べて、準備して学園に行った。
まさかの、制服がドレスだった…あのパッケージのイラスト、制服だったのか…。
廊下は大理石で、窓にはステンドグラスで…まるでお城みたいだった。
……夢の割に情報量が多すぎない?
「ヴィクトリア様!」
廊下で声をかけてきたのは、三人の令嬢。
多分私の取り巻き、というやつだ。
「あの新入生、また殿下に話しかけてましたわ!新入生のくせに…生意気ですのよ!」
「そうですわ! ヴィクトリア様から何かおっしゃってくださいませ!」
その新入生は、多分ヒロインのことだ。
男爵令嬢、清楚で控えめで、王太子に見初められるヒロイン。
そして私…ヴィクトリアは、そのヒロインに嫉妬して嫌がらせをして、最後に舞踏会で断罪されるキャラクターらしい。
おおまかなゲームのストーリーだ。
小学生のとき、クラスの子が話してたのを断片的に覚えてる。
「……別に、いいんじゃない」
「え?」
「誰が誰と話しても、自由でしょ」
取り巻きが目を丸くして、黙っている。
……まあ、そうなるよね。今までそんなんじゃなかった悪役令嬢がそんなこと言ったら驚くよね。
でも、嫌がらせなんてする理由がない。
だって私はヴィクトリアじゃない。ただの田舎の、さえない女子高生だ。
だってこれも夢なんだし、夢の中くらい好きにさせてよ。
◇
また眠ってしまっていた様だった。
ふと目が覚めたら、次は本当に自分の部屋のベッドの上だった。
散らかった机、窓の外は田んぼが無限に広がっていて、夢の中とは大違いだった。
「……あー、夢だったか…」
夢だった。やっぱり夢だった。
安心したけど、少し寂しい。
安心して、学校に行って、いつも通りの一日を過ごした。
授業。昼休み。授業。
帰りのHRの後、隣の席の子に頼まれて断れなくって、日直の仕事を変ってしまった。
「ごめんねー、飯田さん。今日バイトでさー助かったよ」
「……うん、まあいいよ」
いつもの返事。いつもの笑顔。
いつもの、何も言えない私。
いつも一人の帰り道。
毎日見慣れてる夕焼けと、田んぼの上を飛んでいるトンボ。
ずっとこのまま、死ぬまでこの田舎で生きる…。ずっとこのまま…。
本当に?
本当に、いいの?
わからない。わからないけど…考えるのもめんどくさい。
家に帰って、ごはん食べて、お風呂入って。
今日はゲームをせずに、すぐに布団に入った。
疲れていたのか、すぐに眠気がくる…。
また目を開けたら、昨日の夢と同じ天蓋が見えた。
「……う、嘘」
また、ここだ。
メイドが紅茶を持ってきた。
「お嬢様、おはようございます。今日のお紅茶はお嬢様の好きなダージリンですよ」
「えっ、ああ…あ、ありがとう…」
「お嬢様、昨日のお続きですが——」
昨日の続き…?
どうやら、この夢の世界は私が寝ている間、眠っていたことになって、時間が止まっていたらしい。
私が目を閉じた瞬間のまま、時間が止まって、私が戻ってきた瞬間から動き出す。
まるで、ゲームのセーブデータみたいに。
今日の夢の世界も、昨日とあまり変わったことは起こらなかった。
朝ごはんを食べて、ドレスの制服を着て、取り巻きと学校で授業を受けて、帰って晩御飯を食べて、大きな豪華なベッドで眠る。
こっちの世界の方が煌びやかに見えるけれど、現実の私とあまり大差はなかった。
ゲームの設定で存在しないからなのか、母親や父親は丸々いないような扱いになっており、家ではメイドを二人きりだ。
ゲーム外のことを詮索しようとしてみても、それ以上進まない、会話もできない。まるで、そこに元々何もなかったのかのように。
また現実の方で目覚めてから、ゲーム機に差しっぱなしだったソフトを抜いてみた。
そして、ゲーム機ごと押し入れに突っ込んでみた。
でも、何も意味がなかった。
私が眠れば、必ずあの世界に行く。起きれば、ここに戻ってくる。
止められない。
……止められないなら。
せめて、断罪だけは避けないと。
~後編へ続く
ゲームの知識を必死に思い出した。
断片的だけど、覚えていることはある。
舞踏会の夜、ヒロインが王太子に泣いて、ヴィクトリアに嫌がらせをされていると訴える。
王太子はヴィクトリアをきつく睨み、「この女は許されない」と宣言する。
また、ヒロインの取り巻きも証言をする。
そして悪役令嬢ヴィクトリアは…爵位を剥奪されて、最終的に国を追放される。
それがこのゲームのクライマックスだ。
だからこの結末を知っている私は、ヒロインに近づかないようにした。
極力王太子とヒロインを避け、本来発生する嫌がらせイベントも全部スルーするようにした。
でも…だんだんとおかしなことが起き始めた。
「ヴィクトリア様の名前で、リリアナ様に手紙が届いたそうですわ。『この学園から出ていけ』って…怖いですわねぇ」
「…私、そんなもの書いてないけれど?」
「で、でもあれは確かにヴィクトリア様の筆跡でしたわ!見間違えることなんかありません」
取り巻きの一人、カミラが言った。
…そんなこと言いながら、目は泳いでいる。
きっとあなたが書いたのね。何が理由かはわからないけれど、きっと私の名前を使ってリリアナに嫌がらせがしたかったんでしょう。
現実の私は、人の顔色をうかがうことだけは慣れているから…。
「ヴィクトリア嬢。少し話がある」
廊下で歩いていた時に呼び止めてきたのは、銀髪の高身長の青年。
彼はアレクシス王太子。
ゲームの攻略対象の中で、初めて出会うキャラクターだ。
…顔はいい。びっくりするくらい顔がいい。
…でも目は笑っていなくって、なんだか怖い。
パッケージやゲームの画面で見たときの表情とは全然違う…なんだか冷たい顔をしている。
「王太子、ご機嫌よう。何のお話でしょうか?」
「リリアナが怯えている。君の取り巻きが彼女に嫌がらせをしているそうだな」
「…私は何もしてません」
「だが、君の名前で行われていると耳にした」
「だから、私は…」
「責任は名前を使われていたとしても君にある、そうだろう?」
…ああ、そういうことだったのね。
私が何もしなくても、周りが勝手に「悪役」を作っていく。
取り巻きがヴィクトリアの名前で嫌がらせをして、王太子がヴィクトリアを責めて、ヒロインがヴィクトリアに怯えて。
誰もヴィクトリア本人に「あなたはどうしたいの」って聞かない…。
…これ。
現実の私と、同じじゃない?
頼まれたら断れない。押しつけられたら引き受ける。
みんなが期待する「都合のいい子」を演じて、本当の気持ちは…
「…まあ、いいけど」
ポロっと口から出た言葉に、自分でびっくりした。
こっちの世界でも、同じこと言ってる。
同じだ。ヴィクトリアも、私も。
誰かに都合のいい役を押しつけられて、それを黙って引き受けてるだけ。
◇
ある日、不思議なことが起きた。
現実で、授業中に眠気がきて…油断して目を閉じた瞬間、頭の中にヴィクトリアの記憶のような映像が流れ込んできたのだ。
幼いヴィクトリアが、書斎の前で立っている。
見るに父親か何かの書斎だろうか。
その扉は閉まっていて、幼いヴィクトリアは扉をノックしようとした。
…でも手が止まる。
「…きっとお忙しいよね」
くるっと踵を返す。
影で見守っていた使用人が何か言おうとしたけど、ヴィクトリアはそれに気づいて笑ってみせた。
「私は一人で大丈夫、寂しくなんかないわ」
…大丈夫じゃなかったでしょ、この子。
記憶の中の時間は進む。
ヴィクトリアの婚約が決まったとき、父は「よかった」と一言だけ言ったらしい。
母はその記憶の時点でもういなかったみたい。
…誰もヴィクトリアに自分の気持ちや意思を聞かなかった。
誰も、ヴィクトリアのことを本当に気にかけていなかった。
だからどんどん大きくなるにつれて、気も強くなり、声も大きく、手段を選ばずに目立つようになった。
彼女はただ、誰かに自分を見てほしかっただけだった。
…涙が出た。
これはヴィクトリアの涙じゃない…私自身の涙だ。
泣いていることに気付くと、急に現実に戻ってきた。
授業は全然進んでいなくて、ほんの数分居眠りしていただけだったようだ。
(ヴィクトリアも、私と一緒だ…)
その日の放課後。
学校で、また頼まれごとをされた。
「飯田さん、悪いんだけど文化祭の買い出しがあって、人手が足りなくてよかったら手伝ってほしいんだけど…」
「…ご、ごめん。今日は、ちょっと…予定があって無理…ごめんね」
小さい声だった。手も声も震えてたと思う。
でも…自分で嫌って言えた。
相手の顔がちょっとだけ曇った。
でも、ただその相手は「あ、そう?じゃあ他の人に聞くね」と言ってすぐに去っていった。
それだけだった。
…なんだ。
こんな簡単なことだったんだ。
◇
夢の世界では、舞踏会の日が近づいていた。
そう、舞踏会終盤で発生する断罪イベントだ。
ヒロインが涙ながらに訴えて、王太子が正義の剣を振り下ろして、悪役令嬢が全てを失い、ヒロインは好きなキャラクターと結ばれる。
このゲームのクライマックス。
毎日、取り巻きたちがやたら張り切っている。
「ヴィクトリア様、当日のドレスはもうお決まりですの?」
「殿下がリリアナ様をエスコートなさるそうですわ。きっと何かございますわね」
この子たち、最近嬉しそうだな…きっと「何か」が起きることを期待してる。
ヴィクトリアが断罪されるのを…たぶん、どこかで楽しみにしてる。
最初から、誰も味方なんかじゃなかった。
「…ねえ」
「はい、ヴィクトリア様?」
「あなたたちは、私がどうなってもいいの?」
三人は笑顔で顔を見合わせた。
「何をおっしゃっているの、ヴィクトリア様」
「そうですわ、私たちはいつでもヴィクトリア様のお味方ですもの」
きっと大嘘だ。
顔色を読むのだけは得意なんだ、私は。
「…そう、それじゃあ安心ね」
◇
迎えた、舞踏会の夜。
シャンデリアがきらきらしてて、楽団の演奏が聞こえて、色とりどりのドレスの令嬢たちが歩いてて…磨き上げられた大理石の床が全部を映してた。
きれいだな、と思った。
もちろん夢の中の景色だけど、きれいなものはきれいだ。
ヒロイン…リリアナが、広間の中央で泣いていた。
「わたし…ヴィクトリア様に…ひどいことをされて…」
涙声。震える肩。
周囲はざわめきだし、顔を見合わせ同情の目を向ける。
そして次第に、私は周囲から鋭い眼差しを向けられるようになった。
その中で王太子アレクシスが一歩前に出た。
「諸君。今夜はひとつ、明らかにしなければならないことがある」
広間が静まり、視線が集まる。全部、私に…ヴィクトリアに。
「ヴィクトリア・ランベール。君は…」
「あ、あの!」
口が動いた。
手が震えてた。
心臓がうるさかった。喉はからからだった。
でも、言わなきゃ。
この子のために。ヴィクトリアのために。
ずっと黙って、空回りして、見てもらえなくて、それでも笑って「大丈夫」って言い続けた、この子のために。
「あの。少しだけ、よろしいでしょうか、きっと私の話ですよね」
広間が、しん、と静まった。
深呼吸した。吸って、吐いて。意識すると手汗がすごい。
「申し訳ございません」
声が震えている。でもいい。
震えていても、声が出れば十分だって…昨日の私が教えてくれた。
「悪役令嬢の私は、本日をもって辞めさせていただきます」
「…辞める?何を言っている」
アレクシスが眉をひそめた。台本にない展開に、明らかに戸惑っている。
「辞めるとは、どういう意味だ、ヴィクトリア」
「そのままの意味です。嫌がらせも、嫉妬も、逆恨みも。そういうポジションの感じ…全部、辞めます。と言いますか…そもそも、私は何もやっていませんでしたけれど」
「しかし、リリアナは貴様に嫌がらせをされていたと言っている、嘘を言っているとでも言いたいのか?」
「リリアナ様…」
振り向いた。ヒロインの目を見た。涙で濡れた、大きな瞳。
可愛そうに見える被害者のような、守りたくなる表情。
でも、そんな演技も今日でおしまいにしてもらう。
「私があなたに何かした日を、具体的に教えていただけますか?一体、私に何をされたんでしょうか?そもそも…リリアナ様と私はあまり接点がありませんよね?」
「…え」
「何月何日、どこで、何をされたのか…もちろん、本当に何かをされたのであれば…覚えていらっしゃいますよね?」
リリアナの目が泳いだ。
見逃さない。
だって、人の顔色を読むのだけは…ずっと、ずっと、得意だったから。
「…あ、あの、それは…」
「手紙は私の筆跡だったそうですね。でも、そんな手紙、私は書いていません。そちらにいらっしゃるカミラ様が書いたものです。カミラ様、違いますか?」
カミラが青ざめた。
「な、何を…言っているんですか!そんなの…こじつけですよね!?」
「あなたのその指の、インクの染み。そう…三日前からずっとついていますよね?ご自分ではなかなか気づかれていなかったようですが…。そう、あの手紙と同じ色のインクですね、たまたまでしょうか?」
広間がざわめいた。
アレクシスがカミラを睨むように振り返る。
カミラは後ずさっていく。
リリアナの涙が…止まっている。
「…殿下」
もう一度、王太子を見た。
「私は悪役を辞めます。嫌な女の役も、嫉妬する元婚約者の役も、全部。誰かに押しつけられた役を演じるのは、今日で終わりにします」
「…ヴィクトリア」
「それと…リリアナ様。あなたが本当に辛い思いをされていたのなら、ごめんなさい。でも、泣けば誰かが悪者になってくれる仕組みに頼るのは、もうやめたほうがいいと思います。あなた自身のためになりませんから」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
手汗もすごくて、身体も震えていたと思う。
でも…言えた。
ヴィクトリアの声で、私の言葉で。
広間が静まっている。
シャンデリアの灯りが、磨かれた床に反射して揺れている。
アレクシスが何か言おうとしていたけれど、言葉が出てこないみたいだった。
当たり前だ。「正義の断罪者」は、断罪する相手がいなくなったら何を言えばいいかわからない。
悪役がいなくなったゲームは、もう「ゲーム」じゃない。
「では…お話はそれだけです。私はここで失礼いたします」
スカートの裾を持って、お辞儀をした。
ゲームの中のヴィクトリアが毎日やっていた、完璧なカーテシー。
踵を返し、舞踏会の会場を後にする。
誰も追いかけてこなかった。
広間を出て、長い廊下を歩いた。足音がこつこつ響いた。
ステンドグラスの月明かりが、床に色を落としていた。
外に出ると、庭から薔薇の香りがした。
夜風が頬に当たった。冷たくて、気持ちよかった。
「あはは…言っちゃった」
…笑ってしまった。
涙が出た。今度は嬉し涙だ。
「言っちゃったよ、ヴィクトリア。あなたがずっと言いたかったこと、私が勝手に言っちゃった」
返事はない。当たり前だ。
ヴィクトリアは私で、私がヴィクトリアなんだから。
でも…聞こえた気がした。
…ありがとう。私の代わりに、辞めてくれて。
「…うん」
鼻をすすった。
令嬢の身体で鼻をすするのはたぶん行儀が悪い。
でもいい。もう悪役令嬢じゃないんだから。
夜空を見上げた。星がきれいだった。
現実の田舎の星空とは違うけど、きれいなものはきれいだ。
「…ねえ、ヴィクトリア」
胸に手を当てた。
「辞めた後って、何すればいいのかな」
答えは出なかった。
でも、焦らなくてもいい気がした。
辞めたばかりなんだ。次のことは、ゆっくり考えよう。
◇
目が覚めた。
いつもの部屋、散らかった机、窓の外は広く広がる田んぼ。
朝日が差し込んでいて、まぶしかった。
「…おはよう」
誰に言ってるかわからない挨拶をして、起き上がった。
顔を洗おうとして鏡を見た。
金髪じゃない。碧い目でもない。
どこにでもいる、さえない顔。
でも今日は、昨日とちょっとだけ違う顔をしている気がした。
学校に行った。
いつもの教室。いつもの席。いつもの空気。
「飯田さーん、今日の放課後、委員会の議事録まとめてくんない?私、用事あってさー」
隣の席の子。いつもの面倒ごとを押しつけたいときの笑顔。いつもの「ちょっとお願い」。
前の私なら…昨日までの私なら、反射的に「まあ、いいよ」と言ってしまっていた。
「…ごめん。それ、私は嫌」
手のひらに汗をかいてた。心臓がばくばくしてた。
相手がきょとんとした。
「え?あ、そうなんだ。じゃあ他の人に…」
「うん。ごめんね」
「ううん、全然。ごめんねこっちこそ、いつも頼んじゃって」
それだけだった。
世界は壊れなくって、誰も怒らなかった。
…なんだ。
「嫌です」って言うのって、こんな簡単なことだったんだ。
舞踏会の広間で、何百人の前で「辞めます」って叫ぶより、ずっと怖かった。
たった一人のクラスメイトに「嫌」って言うほうが、ずっとずっと怖かった。
でも、言えるようになった。
ヴィクトリアが教えてくれた。
放課後の帰り道。いつもの田んぼ道。見慣れた夕焼け。
なんとなく足を止めた。
カバンから、あの携帯ゲーム機を取り出した。
今朝、なんとなく持ってきてしまっていたみたいだ。
電源を入れた。
画面にはセーブデータが残っている。
最終セーブは、「舞踏会の夜…」。
今夜眠ったら、また会えるのかな。ヴィクトリアに。
…ヴィクトリアっていうか、私に、だけど。
田んぼの上を、トンボが飛んでいた。
稲穂が風に揺れていた。夕焼けがきれいだった。
こっちの世界には魔法もないし、シャンデリアもないし、薔薇の庭園もない。
でも、こっちでもきれいなものはきれいだ。
ゲーム機を鞄に戻して、歩き出した。
明日も学校がある。宿題もある。そろそろテスト勉強もしないと…。
テストが終わったら、部活を始めてみるのもいいな。
でも今夜、眠ったら…もう悪役令嬢じゃないヴィクトリアとして、あの世界で何をしようか。
少しだけ、楽しみだと思った。
「…まあ、悪くないかな」
今度の「まあ」は、飲み込んだ言葉じゃなくて、初めて自分の本音で言えた「まあ」だった。
~完~




