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日和の、溶け合う黄色  作者: ジェミラン


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2/2

後編

時計の長針が、六時を少し回ったところを指している。

鍋の火は、ごく弱く。時折、木べらで鍋の底を撫でると、「ボコッ、ボコッ」と深い眠りから覚めたような音が、厚みのある重さを伴って返ってくる。

日和はキッチンカウンターに腰を預け、リビングで遊び疲れて床に転がっている息子たちの背中を、薄闇の中で眺めていた。


「……静かになった」


さっきまでの騒々しさが嘘のように、換気扇の低音だけがキッチンを支配している。

日和は自分の手に残った、野菜と肉と、そして蜂蜜が混じり合った甘い匂いを嗅いだ。

かつて母が作っていたあの「辛口」の鍋。

父が黙々と、時に額の汗を拭いながら食べていたあの色。

今の自分にとって、それはまだ「遠い未来」の話のようにも思えるし、あるいは「遠い過去」に置き去りにしてきた宝物のようにも思えた。


「いつか、あの子たちも『辛口がいい』なんて、生意気なことを言うようになるんだろうな」


独り言が、湯気に溶けて消えていく。

今は、リンゴと蜂蜜の優しさに包まれて、小さな口を一生懸命に動かしている子供たち。

けれど、あと十年もすれば。

部活動で泥だらけになって帰ってきて、「母さん、もっとガツンとしたの作ってよ」と冷蔵庫を開ける背中を見せるようになるのだろうか。

その時、自分はまた、あの棚の奥で眠っているスパイスの缶を取り出すことになる。

クミンを、コリアンダーを、ターメリックを。

あるいは、あの時の母のように、二つの鍋を並べて。


「お母さんは、あの子たちの成長が、寂しくなかったのかな」


ふと、そんな疑問が頭をもたげた。

子供が辛いものを食べられるようになるということは、守られるだけの存在から、少しずつ「大人の入り口」へ足を踏み出すということだ。

それは喜ばしい成長であるはずなのに、今のこの、家中に漂う「甘口」の香りが消えてしまうことを想像すると、日和の胸の奥は、ほんの少しだけ締め付けられるような感覚に陥った。


母が二つの鍋を作っていたのは、単に家族の好みが分かれていたからだけではない。

父という「大人」の時間を尊重しつつ、自分たちの「子供時代」を、一秒でも長くこの甘い香りの温室の中に留めておきたかったからではないか。

二つの鍋は、家族の歴史を、同時に走らせるための装置だったのかもしれない。


「……もし、拓也が今、『やっぱり辛いのが食べたい』って言ったら」


日和は、コンロのスイッチを見つめた。

今からでも、小さな小鍋を出して、この甘口のルーを一部移し、そこにスパイスを足すことはできる。

激辛とまではいかなくても、夫がかつて愛したあの刺激を、今夜の食卓に並べることは可能だ。

けれど、日和は動かなかった。


今、この家が必要としているのは、刺激ではない。

仕事で神経をすり減らして帰ってくる拓也が、玄関を開けた瞬間に、あの子たちの笑い声と一緒に吸い込む「変わらない安らぎ」なのだ。

「ただいま」の後に、一口食べて、「ああ、落ち着く」と一息つけるような。

そんな、波風の立たない琥珀色の海。


日和は、少しだけ冷めてきた鍋を温め直すために、火力を一段階上げた。

再び、「フツフツ」と活気が戻ってくる。

この鍋の中にあるのは、妥協ではない。

今の、この一瞬しかない「家族の形」そのものなのだ。


窓の外に目を向けると、駅の方から歩いてくる人々の列が見えた。

家々の窓に明かりが灯り、それぞれの家庭の匂いが、夜の空気の中に混ざり合っていく。

どこかの家でも、同じようにカレーを作っているのかもしれない。

あるいは、一足先に辛口のステージに上がった家族が、みんなで同じ鍋を囲んでいるのかもしれない。


「……あ、拓也だ」


街灯の下、見覚えのある歩調で歩いてくる人影を見つけた。

日和は慌ててリビングへ行き、寝落ちしかけている息子たちの肩を揺らした。


「ほら、パパが帰ってきたよ。もうすぐカレーだよ」

「……んん、パパ?」


目をこすりながら起き上がる子供たちの姿。

日和はキッチンに戻り、最後の一混ぜをした。


木べらを通じて伝わってくる、具材の柔らかな崩れ具合。

ジャガイモの角が取れ、ルーの中に溶け込んでいる。

それは、日和の心の中にあった「尖ったこだわり」が、日々の生活の中で少しずつ丸くなり、家族の幸せと同化していった姿にも見えた。


「お母さん、私、今のこの味が好きだよ」


日和は、誰にも聞こえない声で、心の中の母に報告した。

二つの鍋を並べられるほど器用ではないけれど、この一つの鍋を、空っぽになるまで食べ尽くしてくれる家族がいる。

それだけで、今日の私は「正解」を求めて彷徨う必要なんてないのだと思えた。


玄関のチャイムが鳴る。

それと同時に、リビングの電気が一段と明るく感じられた。

日和はエプロンの紐を締め直し、少しだけ弾むような足取りで玄関へと向かった。

夜の冷気を連れて帰ってくる夫を、この甘い香りで、一番に包み込んであげるために。


「ただいま。……お、いい匂い。今日はカレーか」


玄関のドアが開くと同時に、冷たい冬の夜気とともに、拓也の少し掠れた、けれど聞き慣れた声が滑り込んできた。

日和はキッチンの入り口で、エプロンの裾を軽く整えながら「おかえりなさい」と声をかけた。


「パパ! おかえり!」

「パパ、きょうね、カレーなんだよ」


さっきまで眠たげに目をこすっていた息子たちが、弾かれたように玄関へと駆けていく。拓也は重そうなビジネスバッグを床に置き、屈み込んで二人を代わる代わる抱き上げた。


「おー、よしよし。お腹空いたな。パパも今日はカレーの気分だったんだ」


拓也がリビングに入ってくると、部屋の空気が一気に活気づく。彼はジャケットを脱ぎながら、ふとキッチンの方へ鼻を向けた。


「いい匂いだね。なんだか、すごく落ち着く匂いだ」


日和は、コンロの上の鍋を最後にもう一度だけかき混ぜた。

「お疲れ様。今日はね、隠し味にちょっとだけ牛乳と蜂蜜を入れたの。あの子たちが、パパが帰るまで頑張って待ってたんだよ」


「そうか。ありがとな」


拓也の言葉に、日和の胸の奥がじんわりと温かくなる。

以前の二人なら、帰宅後の会話はもっと刺激的だったかもしれない。「あの店のスパイスカレーがどうだった」とか「今度はもっと辛いルーを取り寄せよう」とか。けれど、今の二人の間に流れているのは、そうした高揚感ではなく、もっと穏やかで、厚みのある信頼だった。


日和は、お気に入りの白い大皿を並べた。

炊き立ての白米を盛り、その上からたっぷりと黄金色のルーをかける。


「さあ、みんな、手はお膝。いただきますの時間だよ」


家族四人が食卓を囲む。

中央には、湯気を立てる大鍋。

日和がそれぞれの皿にカレーを運び終えると、子供たちが待ちきれないといった様子でスプーンを握りしめた。


「「いただきます!」」


元気な声が重なり、小さなスプーンが皿の海へと迷いなく突き刺さる。


「おいしい! おかあさん、これ最高!」

「あまーい。でも、パパのもおんなじ?」


三男が不思議そうに拓也の皿を覗き込む。


「ああ、パパのも同じだよ。同じ、美味しいカレーだ」


拓也はそう言って、一口、大きめにカレーを運んだ。

日和は、夫の表情を盗み見るようにして自分もスプーンを手にした。

拓也の喉がごくりと鳴る。

彼は、ゆっくりと味わうように咀嚼し、それからふぅと、溜まった疲れをすべて吐き出すような溜息をついた。


「……美味いな。なんだろう、すごく沁みる味だ」


「……よかった。拓也には物足りないかなって、ちょっとだけ思ってたんだけど」


日和の言葉に、拓也は首を振った。


「いや、そんなことないよ。外では刺激の強いものばかり食べてるからかな、家で食べるこの『甘口』が、一番の贅沢に感じるんだ。なんていうか、自分の居場所に戻ってきたって感じがする」


日和は、自分の皿のカレーを一口食べた。

蜂蜜の柔らかな甘みの後に、野菜の旨味がゆっくりと広がっていく。それは、かつて母が作ってくれたあの甘いカレーの記憶と、今の自分が家族のために込めた想いが、見事に溶け合った味だった。


かつての母は、父のために「辛口」を、私たちのために「甘口」を作っていた。

それは、それぞれの個性を尊重し、誰一人として我慢させないという、母なりの完璧な愛の形だった。

けれど今の私は、一つの鍋を選んだ。

それは妥協ではなく、拓也の優しさと、子供たちの純粋さと、私の願いを、一つの味に統合していくという、もう一つの愛の形なのだ。


「お母さん、私は今、この一つの味をみんなで分かち合えることが、すごく幸せだよ」


心の中で再び母に語りかける。

二つの鍋を並べる器用さはなかったけれど、一つの鍋を囲んで「美味しいね」と言い合える時間が、日和にとってはかけがえのない財産だった。


「ねえ、パパ。いつか僕も、辛いカレー食べられるようになる?」


長男が、少し得意げに、でもどこか不安そうに尋ねる。


拓也は笑って、息子の頭を撫でた。

「ああ、きっとな。その時は、ママに内緒ですごいスパイスを買いに行こうか」


「あ、ずるい! 私も入れてよ」


日和が混ぜ返すと、食卓に明るい笑い声が弾けた。

いつか、この子たちが成長し、この甘い香りを「子供っぽい」と笑う日が来るだろう。その時、日和はきっと、棚の奥で眠っているスパイスの缶を取り出し、母と同じように二つの鍋をコンロに並べるのかもしれない。

あるいは、家族全員で、目の覚めるような辛口に挑戦しているのかもしれない。


けれど、今はまだ、この優しい黄色に包まれていたい。

外の冷たい風も、明日の仕事の不安も、この湯気の向こう側には届かない。

ここにあるのは、ただ、美味しいカレーと、大切な家族の体温だけだ。


「日和、おかわり、いいかな」


拓也が差し出した皿を受け取りながら、日和は微笑んだ。

「もちろん。たっぷりあるから、たくさん食べて」


お玉が鍋の底を叩く「トントン」という音が、一日の終わりを告げる穏やかなリズムとなって響く。

窓ガラスは湯気で白く曇り、外の世界からは遮断された、家族だけの小さな温室。

そこには、蜂蜜よりも甘く、スパイスよりも深く、そして何よりも温かな、日和だけの「幸せの形」が完成していた。


日和は、最後の一口をゆっくりと飲み込んだ。

喉の奥を通る温もりが、明日を生きる勇気に変わっていくのを感じながら。

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