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日和の、溶け合う黄色  作者: ジェミラン


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前編

午後五時。西日がキッチンのステンレス台に低く差し込み、乱反射した光が日和の瞳をわずかに刺した。

日和は目を細め、手元にある大きなジャガイモにピーラーを当てた。


「シュッ、シュッ、シュッ……」


規則正しく皮が剥けていく音が、静かな室内に響く。剥きたてのジャガイモは、水を含んで白く光っている。それを手際よく一口大に切り分け、ボウルの水に放つと、今度は「ポチャン」という小さな水音が返ってきた。


リビングの方からは、テレビのアニメの音がかすかに聞こえてくる。五歳と三歳の息子たちが、ソファに並んで座っているはずだ。彼らが静かにしているこの三十分間が、日和にとっての「戦場」へ向かう前の準備時間であり、同時に自分自身に戻れる数少ない時間でもあった。


「……さて、次は玉ねぎか」


独り言をつぶやきながら、日和は茶色の皮を指先で剥ぎ取った。玉ねぎを切るたびに、鼻を突くツンとした刺激が広がる。

日和はふと、吊り戸棚の一番端、奥の方に追いやられた小さな空き缶に目をやった。

それは、数年前に旅先で見つけた、海外製の本格的なスパイスセットだ。


かつて、日和と夫の拓也は、スパイスの効いた「激辛」のカレーを愛していた。

結婚したての頃、週末になれば二人でキッチンに立ち、クミンやコリアンダーを乾煎りして、喉を焼くような辛口のカレーを作るのが恒例だった。汗をかき、水をがぶ飲みしながら、「やっぱりこれだよね」と笑い合った。あの頃の二人にとって、カレーとは、刺激であり、冒険であり、自分たちの自由な時間を謳歌するための儀式のようなものだった。


だが、今は違う。

日和の手元にあるのは、スーパーで特売になっていた、箱に「甘口」と大きく書かれた市販のカレールーだ。パッケージには、にこやかに微笑む子供のイラストが描かれている。


「本当はさ……私も、拓也も、もっと刺激が欲しいんだけどね」


包丁の背で玉ねぎを寄せながら、日和は苦笑した。

子供が生まれてから、食卓の風景は一変した。

最初は離乳食。それから少しずつ幼児食へ移行し、今はようやく大人と同じメニューが食べられるようになった。けれど、味付けの基準は常に「子供が食べられるかどうか」にある。

カレーは特にそうだ。子供たちは、リンゴとはちみつの甘い香りが漂う「黄色いカレー」が大好きだ。彼らにとって、カレーはご馳走であり、安心の象徴なのだ。


子供たちに辛いものを無理に食べさせるわけにはいかない。かといって、自分たちのためだけに別の味を作るのは、あまりにも手間がかかりすぎる。

いつしか日和は、自分たちの「辛口」という欲求を、心の奥底にそっと仕舞い込むようになった。

それは仕方のないことで、当たり前のことで、決して不幸なことではない。

けれど、ふとした瞬間に、あのスパイスが焦げる香ばしい匂いや、舌を刺すような熱さが恋しくなることがあった。


「……お母さんも、そうだったのかな」


ふいに、記憶の断片が夕闇の中に浮かび上がった。

日和の実家でも、カレーは特別な日のメニューだった。

けれど、母の作るカレーは、日和が今作ろうとしているものとは少し違っていた。


日和の母は、いつもコンロに二つの鍋を並べていた。

一つは、日和と兄のための、明るい黄色の「甘口」の鍋。

もう一つは、父のための、深く濃い褐色の「辛口」の鍋だ。

母は、仕事から帰ってくると、息をつく間もなく台所に立ち、二つの鍋を交互に木べらでかき混ぜていた。


子供の頃の日和は、それを当然のことだと思っていた。

「お父さんは辛いのが好きだから」

母はそう言って、父の鍋には黒胡椒やガラムマサラを追加していた。

日和は自分の甘いカレーを頬張りながら、父の鍋から立ち上る異質な、少し怖いような匂いを嗅いでいた。


今の自分と同じ三十代だった頃の母。

保育士として働き、二人の子供を育て、家事をこなし、疲れ果てていたはずの母。

それなのに、どうして母は、わざわざ二つの鍋を作るなんていう面倒なことを続けていたのだろう。

日和は今、自分の家で「甘口」一択という合理的な選択をしている。それで家族は円満に回っているし、拓也も文句一つ言わない。

だとしたら、あの時の母を動かしていたのは、一体何だったのか。


「シュッシュッ」と、今度は人参の皮を剥く。

オレンジ色の鮮やかな色が、視界を彩る。

日和は、換気扇の回る規則正しい振動音を聞きながら、母の背中を思い出そうとした。

夕暮れの、蒸気に包まれた台所。

二つの鍋を使い分け、味見をし、それぞれの「美味しい」を追い求めていた母の指先。


「お母さん、あの時、何を考えてた? ……面倒くさいって、思わなかった?」


空っぽのリビングに、日和の声が溶けていく。

答えは返ってこないけれど、まな板を叩く「トントントン」という軽快な音が、まるで母の足音のように聞こえた気がした。

日和は、切り終えた野菜を深鍋に移した。

サラダ油を引き、火を点ける。

「チチチ、ボッ」

青い炎が鍋の底を舐め、すぐに香ばしい音が立ち上がった。


これから、日和は「甘口」のカレーを作る。

自分たちの好みとは少し違う、けれど今の家族にとって一番馴染みのある、優しい黄色。

野菜を炒めながら立ち上る湯気を見つめ、日和は心の中で、かつての母と静かに対話を始めていた。


鍋の中で、野菜たちが賑やかな音を立てている。

日和は木べらを握り、底からすくい上げるようにして具材を混ぜた。玉ねぎが透き通り、甘い香りが台所に充満し始める。続いて肉の色が変わり、人参とジャガイモが油を纏って艶やかに光る。


「……よし、お水」


計量カップで水を注ぐと、激しい蒸気とともに「ジュワーッ」という音が上がった。一瞬で視界が真っ白な霧に包まれる。その霧の向こう側に、いつか見た母の横顔が重なった。


「日和、カレーの具はね、角が少し取れるまで煮るのがコツだよ」


母の声が、換気扇の唸り音に混じって聞こえた気がした。

母はいつも、二つの鍋を前にして戦っていた。仕事着のブラウスの袖を捲り上げ、お玉を二つ使い分けながら。今思えば、あれは単なる「味の調整」ではなかった。

父は、寡黙で不器用な人だった。仕事から帰ると、ただいまの一言の後は黙って新聞を広げるような。そんな父が、唯一「お、今日はカレーか」と口角を上げるのが、あの辛口の鍋だったのだ。


母にとって、あの黒っぽい、喉を焼くようなカレーを作る時間は、夫という一人の男に対する、言葉にできない「敬意」の表明だったのかもしれない。

一方で、私たち子供に向けられた黄色い鍋。そこには、ただ甘いだけでなく、牛乳や擦り下ろしたリンゴ、時には隠し味の蜂蜜が贅沢に入れられていた。それは、学校で嫌なことがあった日も、転んで膝を擦りむいた日も、一口食べればすべてが許されるような「救い」の味だった。


「二つの鍋……。お母さん、あなたは二つの愛を、同時に守ろうとしていたんだね」


日和は、ふつふつと泡立ち始めた鍋を見つめ、アクを丁寧に掬い取った。

今の自分はどうだろうか。

拓也は優しい男だ。日和が「今日は子供たちに合わせて甘口にしたよ」と言えば、「いいよ、俺も最近、こういうのが落ち着くんだ」と笑ってくれる。その優しさに甘えて、日和は一つの鍋で済ませることに慣れてしまっていた。

それを「合理的な選択」と呼んでいたけれど、心のどこかでは、かつての母のような「熱量」を出し切れていない自分に、小さな後ろめたさを感じていたのかもしれない。


鍋の火を弱め、日和は市販のルーの箱を手に取った。

パキッ、パキッ。

プラスチックのトレイを割り、中の茶色いブロックを取り出す。それを一つずつ、祈るような手つきでスープの中に落としていく。

ルーが溶け出すと、水っぽかったスープは一気に粘り気を増し、あの「家庭のカレー」の匂いが完成した。


「……あ、そうだ」


日和は冷蔵庫を開け、奥から牛乳と、使いかけの蜂蜜を取り出した。

子供たちが「お母さんのカレー、世界で一番好き」と言ってくれる、その笑顔のために。

今の自分に二つの鍋を並べる余裕はないけれど、この一つの鍋を、誰にとっても「最高の落としどころ」に仕上げることならできるはずだ。


牛乳をひと回し注ぐと、濃い茶色だったルーが、少しだけ柔らかな、日だまりのような黄色に変化した。

そこに蜂蜜を小さじ一杯。

「美味しくなれ、美味しくなれ」

心の中で唱えながら、ゆっくりと木べらを回す。


すると、リビングから三歳の次男がトコトコと歩いてきた。


「おかあさーん、カレーの匂いする! おなかすいたー!」

「もうすぐだよ。パパが帰ってきたら、みんなで食べようね」

「わーい、カレー! カレー!」


次男がリビングへ戻っていく足音を聞きながら、日和はふっと肩の力が抜けるのを感じた。


確かに、刺激的なスパイスはない。

鼻に抜けるクミンやコリアンダーの鋭い香りは、この鍋には入っていない。

けれど、今この部屋を満たしているのは、それ以上に濃密な「平和」の匂いだ。

母がかつて、二つの鍋を交互に混ぜながら、結局はどちらの鍋からも一口ずつ味見をして、満足げに微笑んでいたあの理由。

それは、家族のそれぞれの幸せが、自分の手の中で形になっていく喜びそのものだったのではないだろうか。


「……お母さん、私も今、同じ気持ちだよ」


日和は小皿にルーを少しだけ取り、味見をした。

舌の上で広がる、まろやかなコク。後から追いかけてくる野菜の甘み。

それは、妥協の味なんかじゃない。

今の自分たちが、一番必要としている「優しさ」の味だった。


窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。

冷たい風が窓を叩く音がするけれど、キッチンの中は二つのコンロの熱気と、カレーの湯気で、春のように暖かい。

日和は、少しだけ焦げ付かないように火力を絞り、夫の帰りを待つことにした。


お玉を置いた指先に、カレーの匂いが染み付いている。

それは、かつての母の指先からも漂っていた、何よりも尊い「生活の匂い」だった。

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