本当の友達
相も変わらず、教室は戦場だった。
俺という獲物を中心に、二十人の女児たちが群がる。
「龍弥くんこっち向いて」「龍弥くん私のリボン可愛い?」という黄色い声の十字砲火。
俺は愛想笑いを貼り付けながら、心の中で「無」の境地を探していた。
「はいはい、みんな席に戻りなさい! 龍弥くんが潰れちゃうでしょ!」
佐藤先生の救いの手が入り、蜘蛛の子を散らすように園児たちが離れていく。
その僅かな静寂の隙間、ふと視界の隅に違和感を覚えた。
教室のさらに奥、絵本コーナーの影になったデッドスペース。
そこに、ちょこんと座り込んでいる小さな背中があった。
「ねえ、あの子は?」
俺は近くにいたミナちゃんに小声で尋ねた。
「あぁ、あれ? しずかちゃんよ」
「しずかちゃん?」
「うん。いつもひとりで本ばっかりよんでるの。ぜんぜんおしゃべりしないし、つまんない子」
ミナちゃんは興味なさそうに肩をすくめると、すぐに別の友達の方へ走っていった。
つまんない子、か。
だが俺の記憶を辿っても、あの子が俺に群がってきた覚えはない。
他の園児たちが血眼になって俺との接点を探している中、あの子だけが我関せずを貫いている。
この異常な世界において、その「無関心」はあまりに新鮮で、そして魅力的だった。
俺は先生が他の園児の相手をしている隙をつき、その隅っこへと足を向けた。
近づいても顔を上げない。膝の上に広げた絵本に没頭している。
ショートカットの黒髪が顔にかかり、表情はよく見えないが、その佇まいは幼稚園児にしては妙に落ち着いていた。
横には三、四冊の絵本が積み上げられている。
「ねえ」
声をかけてみる。
反応なし。聞こえていないのか、無視しているのか。
俺は屈みこんで、視線の先にあるページを覗き込んだ。
「……」
するとようやくこちらを向いた。
大きな黒い瞳。そこには、他の園児たちのようなギラついた好奇心や、媚びるような色は一切なかった。
ただ「なーに?」と問うような、純粋な光があるだけ。
「なによんでるの?」
俺は努めて穏やかに尋ねた。
すると一瞬、俺と手元の本を交互に見やり、また本に視線を落とす。
拒絶されたかと思ったが、違うようだ。
「……にんぎょひめ」
蚊の鳴くような、小さな声だった。
手元の絵本は確かに『人魚姫』だ。文字の多い、少し年長向けのやつだ。
「へえ、むずかしいのよんでるね。本、すきなの?」
俺の問いに、手がピクリと止まった。
長い沈黙。
そして、コクリと小さく頷く。
「……すき」
その一言に込められた熱量は、この騒がしい教室の誰よりも純粋に響いた。
積み上げられた本の山を見れば分かる。
この子は親に言われたからでも、誰かの気を引くためでもなく、ただ物語の世界に浸っていたいのだろう。
なんてことだ……
俺はこの幼稚園に来て初めて、言葉の通じる知的生命体に出会った気がした。
「そっか。ボクも本、だいすきだよ」
俺がそう告げると、バッと顔を上げた。
その瞳孔が少しだけ開き、初めて俺という人間に興味を示したのが分かった。
「……ほんと?」
「うん。本をよんでると、いろんなせかいにいけるからね。ここじゃない、どこかとおくへ」
俺が少し大人びた感想を口にしてしまうと、驚いたように目を瞬かせ、それから口元を綻ばせた。
それは花が咲くような、控えめだが美しい笑みだった。
「……わたしも、そうおもう」
そういって自分の隣のスペースを空け、ポンポンと手で叩いた。
座って、という合図だ。
俺は迷わずそこに腰を下ろした。
桜さんが遠くから鋭い視線を送ってきたが、俺は手で「大丈夫」と合図を送る。
「これ、つぎによむの」
積まれた本の中から一冊を差し出してきた。
『銀河鉄道の夜』の絵本版だ。
センスがいい。渋いチョイスだ。
「いい趣味してるね。いっしょによもうか」
「……うん」
それからしばらく、俺たちは言葉少なに、しかし心地よい沈黙を共有しながらページを捲った。
「男だから」「女だから」というノイズのない、ただ本好きな子供同士の時間。
俺は久しぶりに心からの安らぎを感じていた。
「ねえ、おなまえ、きいてもいい?」
チャイムが鳴る直前、俺は尋ねた。
すると本を閉じ、真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「……しずか。とこやま、しずか」
「しずかちゃんか。ボクはたつや。よろしくね」
常山 静。
名前の通り、静かで、そして賢い女の子。
俺の幼稚園生活における、最初の「本当の友達」ができた瞬間だった。




