幼稚園デビュー
車窓から見えたのは、幼稚園というよりは要塞、あるいは美術館と呼ぶべき威容だった。
白亜の壁に囲まれた広大な敷地。
門扉には最新鋭のセンサーゲートが設置され、警備員の姿もちらほら見える。
遊具一つとっても、プラスチック製の安物ではなく、安全設計が施された特注品らしきものが並んでいる。
『聖マリアンナ幼稚園』
金ピカのプレートが陽光を反射して輝いていた。
「……すごいね、さくらおねえちゃん。ここ、おしろみたい」
俺は車のドアから降りる際、思わず本音交じりの幼児語を漏らした。
庶民的な我が家とは雲泥の差だ。
母さんの稼ぎは悪くないとはいえ、こんな富裕層向けの施設に通わせるとなると、家計への負担が半端ないのではないか。
前世の奨学金返済に苦しんだ記憶が蘇り、背筋が寒くなる。
「ねえ、ママのおかね、なくなっちゃわない?」
俺はリュックの紐を握りしめながら、隣を歩く桜さんに上目遣いで尋ねた。
けど桜さんは俺の頭を優しく撫で、安心させるように微笑む。
「ご心配には及びません、龍弥様。当園の学費、給食費、その他の諸経費に至るまで、全て国庫負担となっております」
「こっこ?」
「はい。国のお金です。龍弥様の教育は国家の最優先事項ですので、ご家庭への請求は一円たりともございません」
なるほど。VIP待遇ここに極まれり、か。
俺一人のためにどれだけの税金が投入されているのか考えると胃が痛くなるが、タダなら文句はない。
親孝行な息子(というより国家孝行な息子)であることを誇りに思いつつ、俺は自動ドアをくぐった。
「お待ちしておりました! 東条龍弥くんですね!」
出迎えたのは若く美しい保育士の先生だった。
満面の笑みだが、声が若干上ずっている。
彼女の後ろには、さらに数名の職員が整列しており、まるでロイヤルファミリーの視察を迎えるかのような緊張感が漂っていた。
「さあ、みんながお部屋で待っていますよ。こちらへどうぞ」
案内されたのは『ちゅーりっぷ組』の教室。
可愛らしい装飾が施されたドアの前で、桜さんが俺の耳元で囁く。
「私は教室の後方で待機しております。何かあれば、目配せ一つで制圧しますので」
「……だから、なにもしなくていいからね」
念を押してから、俺は教室の中へと足を踏み入れた。
一瞬、静寂が訪れた。
二十人ほどの園児たち。
色とりどりのスモックを着た小さな子供たちが、おもちゃや絵本の手を止め、一斉にこちらを振り返る。全員、女の子だ。
当然だとは分かっていたが、実際に目にすると圧巻の光景だった。
「あ……」
誰かが声を漏らしたのを合図に、教室の空気が爆発した。
「ほんものだ!」
「おとこのこ! テレビでみたことある!」
「すごい、かみのけみじかいね!」
「おめめ、キリッとしてるー!」
ドタドタドタッ!
地響きのような音と共に、二十人の幼女たちが殺到してくる。
あっという間に俺の周囲は人間の壁で埋め尽くされた。近い。
石鹸の匂いと、子供特有の甘い匂いが充満する。
「ねえねえ、おなまえなんていうの?」
「わたし、ミナっていうの! いっしょにあそぼ!」
「ずるい、わたしがさきよ!」
「触ってもいい? ほっぺたプニプニしていい?」
四方八方から伸びてくる小さなお手て。
好奇心の塊となった瞳が、至近距離から俺を観察している。
これがロリコン趣味のある男なら、天国にも昇る心地なのかもしれない。
だが残念ながら、中身がアラサーの俺にとっては、単なる騒音と混乱の坩堝でしかなかった。
さすが幼稚園児……うるさい……
俺は内心で溜息をつく。
目の前の女の子たちは、将来美女になるポテンシャルを秘めているかもしれないが、現状では鼻水を垂らしたただのガキだ。色気もへったくれもない。
キャーキャーと甲高い声で騒ぐだけの小動物の群れに対し、俺の心拍数はピクリとも上がらなかった。
「ボク、たつやです。よろしくおねがいします」
俺は無表情を悟られないよう、極めて事務的な(しかし外面は可愛らしい)お辞儀をした。
ハーレムを作る夢はあれど、対象年齢はもっと上だ。
せめて義務教育が終わる頃に出直してきてほしい。
そんな冷めた思考を知る由もなく、園児たちは「きゃー! しゃべったー!」「こんにちわー!」とさらにヒートアップしていく。
教室の隅で、桜さんがスーツの内ポケットに手を入れているのが見えた。
頼むから落ち着いてくれ。ゴム弾を撃ち込むような事態じゃない。
俺はこれからの数年間、この喧騒の中で正気を保てるだろうか。
早くも胃薬が欲しくなる幼稚園初日だった。




