世界の真実
季節が巡り、窓の外の景色が淡い新緑に変わる頃には、俺も新しい生活に順応し始めていた。
桜さんのスペックは異常だ。
朝は五時に起床し、家中を磨き上げ、栄養バランスの計算された朝食を用意する。
俺が泣けば瞬時に駆けつけ、オムツ替えの速度はF1のピットクルー顔負け。
それでいて気配を消すのが上手く、家族の団欒を邪魔しない。
まさにプロフェッショナル。
「国家資格を持つ」という言葉に嘘はなかったらしい。
「彩ちゃん、このデザインどう思う? 来季の新作なんだけど」
「素晴らしいです奥様。特にこのウエストラインの処理が、女性の美しさを際立たせるかと」
「そうよね! やっぱり彩ちゃんは分かってるわ~」
母さんはリビングのテーブルにデザイン画を広げ、桜さんと楽しげに話している。
どうやら母さんはファッションデザイナーらしい。
しかも雑誌の表紙を飾るような、それなりに名の通った売れっ子だ。
仕事と育児の両立は大変そうだが、桜さんの完璧なサポートのおかげで、在宅ワークを続けられている。
二人は主従というより、仲の良い姉妹のように見えた。
母さんは桜さんを「彩ちゃん」と呼び、桜さんも時折、鉄仮面を崩して柔らかな笑みを見せるようになっている。
平和だ。
男がいないという違和感を除けば、驚くほど平和な日常。
だが、俺の中にある「知りたい」という欲求は日に日に膨れ上がっていた。
よし……今だ……
チャンスは不意に訪れた。
母さんは仕事をするために別室へ。桜さんは庭で洗濯物を取り込んでいる。
リビングには俺ひとり。
そして、ローテーブルの上には母さんが置き忘れたスマートフォンがある。
俺はベビーサークルの中で体勢を整えた。
この数ヶ月、ただ寝ていたわけではない。
筋力トレーニング(という名の手足のバタつき)を重ね、ついに俺は四つん這いで移動する術「ハイハイ」を習得していたのだ。
俺はサークルの柵に手をかけ、短い手足に力を込める。
ぐぬぬ……上がれ、俺の体!
赤ちゃん特有の頭の重さにふらつきながらも、なんとかソファによじ登ることに成功する。
そこからテーブルへ移動するのは容易いことだった。
……あった!
最新型の薄型スマホ。
俺は小さな指で画面をタップした。
ロックがかかっているか?
いや、顔認証か指紋認証か……と思いきや、スワイプだけでホーム画面が開いた。
セキュリティ意識が低すぎるぞ母さん。いや、今はそれに感謝だ。
俺は震える指でブラウザアプリを起動する。
検索窓に打ち込むべき言葉は決まっていた。
予測変換に頼りながら、たどたどしい手つきで入力する。
『男女比』
検索ボタンをタップ。
一瞬のロード時間の後、表示された検索結果の羅列が俺の目に飛び込んできた。
そこに並んでいた文字列は、俺の想像を遥かに超える絶望的な事実だった。
『世界人口統計2XXX年版:男性人口比率は1%台へ低下』
『Y染色体消滅の危機、国家存亡の時』
『特別保護指定男性リスト更新』
『男性精子の闇取引、摘発相次ぐ』
……は?
俺は画面を凝視したまま凍りついた。
1%……?
嘘だろ……?
記事をタップして詳細を読む。
どうやら百年前に発生した未知のウイルスによって、男性のみが極端に死滅しやすい環境になったらしい。
さらに、Y染色体の劣化により男児が生まれにくい体質へと人類全体が変異してしまった。
結果、男は絶滅危惧種となり、今や国家の厳重な管理下に置かれる「資源」となっていたのだ。
「うそ、だろ……」
俺の口から乾いた音が漏れる。
男がいない、父親がいない、あの過剰な待遇。
すべての謎が氷解すると同時に、底知れぬ恐怖が湧き上がってきた。
俺は人間じゃない。
希少な種馬であり、国家予算を投じて守るべき国宝であり、そして――女たちの欲望の対象そのものなのだ。
『今週のイケメン赤ちゃん特集!』
『あなたも男の子のママになれる? 最新産み分け技術とは』
『政府公認、一夫多妻制度の法改正案が可決』
画面をスクロールする指が止まらない。
溢れかえる情報の奔流。
そのどれもが、男という存在を神聖視し、あるいはモノとして扱っている。
恋愛、結婚、貞操観念。
俺の知っている常識は、この世界では何一つ通用しない。
ハーレム?
そんな甘っちょろい言葉では表現できない。
これはただ一匹の雄をめぐって、百匹の雌が殺し合いをしかねない、生存競争の最前線だ。
「……龍弥様?」
「ッ!?」
背後から声がした。
心臓が口から飛び出るかと思った。
振り返ると、洗濯カゴを抱えた桜さんが立っている。
いつの間に戻ってきたんだ。
視線が、俺の手にあるスマホと、その画面に表示された検索結果を行き来する。
「……」
桜さんの目が、すぅっと細められた。
まずい。見られたか?
いや、赤ん坊がネット検索なんてするはずがない。
動画でも見ていたと誤魔化せるか?
俺は咄嗟に「あー! きゃっきゃ!」と無邪気な声を上げてスマホを放り投げた。
「あらあら、龍弥様ったら。ママのスマホがおもちゃに見えましたか?」
桜さんはいつもの穏やかな微笑みを浮かべて近づいてくる。
だが、スマホを拾い上げる彼女の手つきは妙に慎重で、画面を確認するその瞳には、底知れぬ鋭い光が宿っていた。
「……ふふ、難しい画面が出ていましたねえ。まだ龍弥様には早すぎますよ」
スマホの画面を消すと、俺を優しく抱き上げた。
その腕の中の温もりは変わらない。
だが、今の俺にはその温かさが、逃げ場のない檻のようにも感じられた。
……バレてはいないはずだ。
でも、あの目は、まるで何かを試すような、あるいは共犯者を見るような……そんな奇妙な深みを持っていたように見えた。




